春の台風 11




 中田の心臓は、実は教室の扉を開けた瞬間から大きく高鳴っていた。というのも、教室の扉を開けた瞬間、綾乃と視線が合ったから!!!
 と、中田は思ってる。
 ―――――そうか、夏川も俺に早く会いたかったんだなぁっ!!!!
 と、激しく勘違いして思ってる。
「いいかぁーここら辺は重要なからぁっ」
 中田はそういいながら熱くたぎる想いのままに黒板にチョークの線を強く引いて、そこらじゅうにチョークの粉が巻き散らかされてるのもわかる。
 その量だけ、中田の手に力が入っている証拠か。しかし中田が感じているのは、その背中に刺さる視線。
 愛しい、可愛い、綾乃の視線。
 そう中田が感じてるのはあながち間違いでもない。綾乃はじっと中田を見つめていたから。けれどそれは別に熱い視線とか、甘い視線とかではない。
 いわゆる、ひとつの、冷静な観察。というやつだ。
 改めて、考えた事が無かったから。だって綾乃にはそういう意味で考える対象ではなかった。それなのに、周りは勝手に考えてヤキモチまで。
 ―――――ん〜〜好き?好きぃ・・・
 確かに助けてもらったりもしたし、話もするし、いい先生だなぁとは思う。なんか、燃えてるっていうか情熱持ってるっていうか、そんな感じもするし。
 そういうところに好感が持てる。けど――――
 ―――――でも、僕を好きってのはぁー・・・
 そこは未だに信じていない綾乃である。
 それにちょっと楽だったりしたのだ。たぶん、自分の事を全然わかってない中田と一緒にいることが。勘ぐらなくていいし、身構えなくてもいいその状況がひどく居心地がよく思えたのだ。
 それは本当。でも。
 それと、好きっていうのはちょっと違うと思う。もちろん中田の事も好きだけれど、それは雅人を好きっていうのとは全然違う種類の好き、だから。
 しかし、中田はそうは思っていない。全然まったく思っていない。彼は今、感涙を耐えていたんだ。
 そうか、そんなに見つめるほど俺を――――!?
 中田はそう思い込んでいた。そもそも中田は綾乃に恋人がいるかもなんて可能性を考えた事がない。そして最初から、綾乃の人当たりのよさを好意をよせてくれてるんだ、と勘違いしていたのだから。
 中田は黒板を向いていた身体をくるりと反転させて、クラスを見た。
 ―――――ああ、なんていい学校なんだ。
 じっと、綾乃を見つめる。
 ―――――いかんいかん。今は授業中だ。愛コンタクトをしてる場合では、な〜んてな。
 寒い。が、誰も聞いてないので罪は無いか。
 中田は思わず綾乃だけを見つめてしまいそうな自分を叱咤して、教科書に視線を落とす事でその欲求に耐えた。
 ―――――俺は今は、社会科教師。綾乃の恋人、あぁ〜なんて響き。・・・な俺じゃないんだ。
 というかそもそも恋人ではない。
 しかし中田は、授業中ずーっとそんなはた迷惑な妄想から離れる事は出来なかった。




 その放課後の事。
 翔は数学での小テストが悪すぎて先生から呼び出され一人職員室へと行ってしまい、綾乃は、薫と生徒会室に行こうと薫を見ると。
 ―――――・・・あ・・・・・・
 薫が二人の生徒と何か話をしていた。それだけだったらきっと綾乃も、"薫"と声を掛けて傍にいけたのだけれど、その相手がよくなかった。
 放課後。
 笑いあってた彼ら。
 その声を、忘れる事は出来なくて。
 綾乃の心臓がドクンと音を立てて、そしてギシギシと鳴った。
 きっと、何も知らないような顔で何も無かったようにしてしゃべっていなければいけないのだろうと思う。それが必要なんだろうと、わかっている。
 けれど。
 わかっているからって出来るものじゃなくて。
 綾乃はフっと視線を外して、こっそりと教室から出た。
 薫にも、声をかけられたくなくて。だって掛けられたら、そこにいかなくちゃいけないから。きっと振り向いて"先に行くよ"くらいは笑って言わなくちゃいけなくなるから。
 綾乃は、そんなに器用じゃないから。
 今はまだ、無理。
「・・・・・・はぁ・・・」
 綾乃は小さく息を吐き出して、俯き加減で廊下を歩いた。
 なんだかまるで、皆が自分の事を彼らの様に見て陰で笑っているのかもしれないと思えて、顔を上げることが出来なくて。
 胃が少し、きりきりと痛んだ。
 廊下を歩く自分の足先を見つめながら歩いて、ちょうど階段の踊り場に差し掛かったときだった。
「夏川先輩」
 ―――――痛っ
 胃が、さらにキリッした。
「夏川先輩?」
 真後ろの声に、綾乃はゆっくりと顔を上げて振り返った。
 そこに立っていたのは当然後輩の1年生で、このあいだ梅田と名乗ったのとは違う人物だった。彼よりももう少し背が低いが、その瞳は彼よりも挑戦的に輝いて見えた。
「・・・何?」
 その瞳に負けないくらいになぜか、綾乃の気持ちが挑戦的な方へ急速に傾いた。
 それを自棄というのだと、その時まだ自覚はしていなかったけれど。
「僕、平井雄二って言います」
「うん」
「1年3組で、テニス部です。・・・夏川先輩は部活しないんですか?」
「興味無いから」
「そうですか・・・残念だな」
 軽く肩を仕草が、この日は心を苛立たせた。
「用は何?」
 綾乃にしては珍しいその言葉を、平井は単刀直入に用件を言うのが綾乃の好みなのだと、瞬時に勘違いしてしまった。
「僕の父は新星銀行から独立して、投資顧問会社を経営してます」
 ・・・もういいよ、そう思えて。
 ぎゅっと強く、綾乃が拳を握り締めた。
「僕も興味があって、株とかやってたりするんですけどね。――――ああ、話が反れましたね」
 言葉が耳を通り抜けて、頭の中で不協和音を奏でた。
「今度、南條グループに仕事で携わるらしくて、一応ご挨拶にって思って」
「そう」
 ―――――僕が南條家とは関係ないと、わかってるだろうに?
 僕が、身寄りが無くて面倒見てもらってるだけの子だと知っているだろうに。
「僕の方が、梅田くんよりお役に立てると思いますし。何かあったらいつでも相談してください」
「・・・相談?」
 綾乃にしては珍しく、自嘲気味な笑みを吐き出した。
 なんだろう、こんな気持ちになるのは随分久しぶりだなぁと思いながら。
 随分前に置き去りにしてきたはずの、この気持ちを思い出していた。けれど、振り払うにはまだそう遠く無いから。
「はい。―――― 1年の間で色々噂が飛び交ってて。夏川先輩にもわずらわしい思いさせてるんじゃないかなって。だから」
「じゃあ」
 ―――――だから、何。
「え?」
 こんな言葉言っちゃいけない、そう止める気持ちが掻き消されて。黒くてどろどろした、嫌な気持ちが心の中いっぱいに広がった。
「君は違うの?」
 その気持ちには勝てなくて。
 笑って、"ありがとう。でも大丈夫だから"そう言って去ってしまえばいいのに。何故今日は、それが出来ない。
「――――いい加減にして欲しい」
 強張っていく平井の顔を、綾乃の瞳が映し出す。
「迷惑だから」
 きっとそう。
 これは八つ当たりなんだと、頭の片隅のさらに奥ではわかっていた。
 綾乃は最近言い知れぬ叫んでしまいたい気持ちと、クラスメイトに言えなかった思いを、目の前の彼にぶつけているだけ。
 最低だと、いつか分かるとき後悔するだろうけれど。今は言わずにはいられなかった。
 綾乃は呆然と立つ平井にそう言い放つと、足早に階段を駆け上がった。近くを通った生徒はなんと言うだろう、なんと思っただろう。
 そんな彼らを目の端で感じ見て。
 綾乃は生徒会室にたどり着く前に、すでに後悔していた。
 考え無しだったと思うには、それだけの距離で十分だった。
 馬鹿だ、と。
「・・・うっ・・・・・・」
 珍しくカッカしてしまった頭は急激に冷えて、綾乃の心は取り返せない今の言葉と悔恨の念にわけもなく涙が込み上げてしまった。
 らしくない自分の行動。もしかして、雅人さんに迷惑をかけないだろうか、という心配。
 それらがぐちゃまぜに襲ってきて、張り詰めていた気持ちが切れてしまったのだろうか。
 ポトっと、登りきった階段の上に涙が落ちた。
 ずっと我慢していたのかもしれない。
 周りの目と、それにまとわり付く勝手な彼らの思い、想像。それらを押し付けられて、比較されて落胆されて笑われる事。
 その期待に自分は答える術も無く。
 ただこの時期をじっと堪えて耐えることしか出来ない自分。
 そして、周りの心配。それはありがたいと分かっていても、頼りない自分の所為なんだと思っていても、なんだか重く思えてしまって。
 そう思ってしまうことへの、罪悪感。
 ―――――僕が・・・
「グズ・・・っ、・・・フッ・・・・・・」
 ―――――悪いのに。
 最低だ。
「・・・夏川くん?」
 誰もいないと思った生徒会室に通じる階段で名前を呼ばれて、綾乃は思わずビクっと肩を震わせた。
 俯いたまま、慌てて涙を拭う。
「どうしたんですか?」
「いえ―――――あ・・・、久保さん・・・・・・」
 涙を擦って顔を上げてみると、そこには雅人の秘書である久保が心配そうに綾乃を見下ろしていた。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい。すいません」
 何がすいませんなのか、綾乃はとりあえず口にして頭を忙しなく横に振った。すると久保は、相手を安心させるように深い優しい笑みを浮かべた。
「謝らないでください。私は、夏川君に謝られるような事、何もないですよ?」
「あ―――はい」
「何かあったのですか?」
 まさにそこにあるのは、相手を懐柔させる声と顔。けれど、綾乃は、いえと小さく呟いた。激しい後悔の後では、口は容易に開く気にはなれなかった。
 そしてまた、その頑なさが久保の想像を確信に変えた。
「そうですか。それならいいのですが―――――もし何かあって、お友達や雅人様に言いにくい事があれば、私の事も思い出してくださいね」
「・・・ありがとうございます」
 綾乃は久保の笑みに一瞬ぐらつきかけた心をなんとか引き戻してそれだけ言うと、足早に生徒会室に入って行った。
 まるで、逃げるように。









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