春の台風 12
「綾乃が!?それで原因は!?」 理事長室に戻って来た久保の報告に、雅人は思わずその顔色を変えて立ち上がった。 綾乃が泣いていた、その事実を聞かされて思わず机に付いた手のひらの爪が立てられてギィっと音が鳴り、心は言葉にならない怒りで震えた。 「樋口君に調べてもらえるように頼んできましたので、すぐにわかるかと」 「――――そうか」 すばやい久保の行動にひとつ息を吐きながらも、雅人は厳しい顔のまま呟くと立ち上がった椅子に再び腰を下ろした。その机の上に久保が差し出した書類を見て、厳しかった顔が少し落ち着きを取り戻した。 それは満足のいくもので。 これで、一つの問題はクリアした、ととりあえずほっとする事が出来る。と、そこへノックの音。 「どうぞ」 ちょうど立っていた久保が扉を開けると、そこには予想通り薫が立っていた。 「はぁ・・・」 誰もいない生徒会室に綾乃のため息だけが充満していた。理由はわからないが高畑の姿がまだ見えず、翔はまだ職員室で絞られているらしく。 ―――――薫はまだ、話してるのかな・・・・・・ 彼ら、と。 はぁ・・・と再びため息がこぼれる。だって、言えるはずが無い。彼らが自分の事を笑っていた事なんか、だから仲良くしないで、なんて子供っぽ過ぎる。 だから、彼らのことが嫌いでどうしても嫌だ、などと思っていても口には出来ない。 だってこれは綾乃の問題で、薫の問題じゃないから。薫が彼らと仲良くするのを止められるはずなど無い。 でも。 悲しくて。 苦しくて。 「はぁ・・・・・・」 気持ちはぐちゃぐちゃに、複雑だ。 あーあ、こんな事知らなきゃ良かった、と綾乃は思わず突っ伏した。 知らなければ。 出来る事なら忘れてしまえれば。 いや、忘れる事なんて出来ない。 机に一人つっぷした綾乃に、日差しが遠慮なく降り注ぐ。春の日差しとはいっても3階の窓から照りつけるそれは結構暑い。部屋もなんとなく、ムッとして。 じっとしていても、汗がじんわりと滲んでくる。 ―――――・・・窓開けよ。 暑すぎて、落ち込む思考も奪われる。 綾乃はギギギギっと音を立てて椅子を引いて立ち上がった。そしてのろのろした仕草で、裏庭に面した窓に手を掛けた。 「あ・・・」 「なるほど。――――平井君ですか」 雅人の瞳がスっと細められた。薫の報告は、数分という時間の中でほぼ完璧。会話の内容まではわからなくてもその状況、そして綾乃の去り際さえも雅人に知るところとなった。 それさえ分かれば、会話の中身など想像が易い。 「先日の梅田君とは中等部の頃からの犬猿の仲らしいです。たぶん、それも要因のひとつだと思います」 「なるほど。――――水谷君は関係ないんですね?」 「はい。今のところ彼の影は見えません。梅田君が先んじた所為で平井君が出てきてしまい、水谷君は様子眺めに徹しているようです」 「わかりました。ありがとう」 「いえ。では、失礼します」 薫にしては珍しく緊張した面持ちを崩す事も出来ず、そのまま一礼して理事長室を後にした。扉を閉めて数歩、角を曲がってようやくほっとした様に肩から力が抜けた。 ―――――なんか、嫌な汗かいちゃったよ・・・ 別に自分が何かしたわけでもないのに、物凄い重圧を感じてしまった薫は怒らせた二人の身がどうなることかと思いながら生徒会室に向かうべく足を踏み出した。 どうなるのか、見てみたい様な見たくない様ななんとも複雑な気持ちを抱えながら。 いや、やはり見ないでおく方が賢明か。 「先生!!」 「おー、夏川」 笑顔で手を振って駆け寄ってくる綾乃を、中田は両腕を広げたい気持ちで向かえた。もちろん抱きしめたい欲求は相当強いものだったが、ここは学校。場所は中庭、というのが中田を思いとどまらせるのに効果があったらしい。 それくらいの理性はまだあったようだ。 「どうしたんだ?」 出来ることなら、子犬の頭をなでなでしてぎゅーぎゅーしてチュッチュするように綾乃にしたい!!!と中田が思っているなど綾乃はまったく気づいていない。 「生徒会室から見えて。先生こそここで何してるんですか??」 「ああ、鯉を見てた」 「鯉?」 綾乃はそう言うと目の前の池に視線を向ける。 「座るか?」 「はい」 中田に薦められて綾乃は池の傍にあるベンチに腰を掛けた。それはちょうど木々の陰にも入り、4月にしては少々暑すぎる太陽の熱からも隠してくれた。 ただ、不幸な事に、理事長室からは二人の姿を見ることが出来たけれど。 「鯉にえさでもやってたんですか?」 「いや。・・・――――他の先生には内緒だぞ?」 「?、はい」 小首を傾げた綾乃に、中田はすばやく辺りを見回して内緒話をするように頭を寄せた。 「これは美味いのかなぁー・・・とな」 「はぁ!?」 「なんだ夏川知らないのか?鯉の洗いつーのは結構高級だしな。喰えるのかなぁーと」 うんうん、と至って真面目な顔で言う中田の顔をきょとんと見た綾乃は、次の瞬間プっと吹き出してしまった。 「ん?」 「先生、食べる気だったんですか?怒られますよ?」 仮にも学校のものを? 「いや、流石にそれはなぁ〜でもな、鯉泥棒とかは過去出たことあるんじゃないか?」 こんな立派なんだしな、と呟く。 「鯉泥棒ですか!?」 「そうだ。絶対だな」 と、妙に確信めいて言う中田にやはり綾乃は笑ってしまった。だってきっと、この学校にいる生徒は鯉の値段なんて気にしないだろうし。 たぶん、鯉の洗い以上に高級なものを口にしている生徒が大半だろう。 もしかしたら家の庭に鯉の泳ぐ池もあるのかもしれない。 ―――――でも・・・そうだった・・・ 「僕も・・・」 「ん?」 「僕も去年、思いました。高そうな鯉だなぁーって」 食べようとかそういう風には思わなかったけど。 「そうか!?」 なんだか全てが場違いに思えて。目を白黒させてたんだ。 「はい」 「やっぱり夏川と俺は似てるなっ!!」 綾乃の一言が中田をどれほど有頂天にさせてるか、綾乃は分かってない。ただ、平たく言えば一般的な人なのだろうという事だけで。 決して似てるわけではないのだが。 ただこの場所の所為か、2人には妙な連帯感が芽生えていたのは否めないだろう。 「そうですね」 この世界の中では何か、自分が異端に感じた綾乃にはその言葉はとても嬉しく響いたのだ。 ただ、それだけだったのだが。 「――――な、夏川っ」 中田の溢れ捲くっている想いはもう、濁流となって渦巻いて身のうちには到底収めきれずにザバザバと音を立てて流れ出した。 「――――?」 ゴクっと中田の喉が鳴って、綾乃の両腕をしっかりと中田の両手が掴んだ。その心臓は、綾乃には幸い聞こえなかったが、壊れて暴走した列車の様に無茶苦茶なリズムを刻んでいた。 鼻からは、フンッと蒸気が出る。 「な、夏川っ!!」 「はいっ!?」 す、好きだっ!!! その言葉がまさに口から吐き出されそうになる。もちろん、中田の頭には、僕もです!そう言って抱きついてくる綾乃の姿しか想像されていない。 それを身勝手といおうが、馬鹿といわれようが期待するのも想像するのもまぁ自由である。犯罪ではない。 ただ、一人の例外を除けば――――――― 「すっ、す―――――」 「中田先生!!」 好きだ、とい続く言葉は、木々に付く虫さえも空を飛ぶ鳥さえも引かせるほどのオーラを身に纏った南條雅人の声に、掻き消された。 「あ・・・」 「り、理事長」 チッまた邪魔が、中田が心でそう思ったのは間違いない。なぜなら、顔に出ていたから。愚かな事に。 「ここにいらしたんですか。捜しました」 「私に何か?」 「用があるから捜してたんですよ。用がなければお捜しする理由がありません」 「はぁ・・・」 それはもっともである。 ―――――あれ、雅人さん・・・なんか怒ってる? ただ一人、甘い雅人を知っている綾乃には、らしからぬ言葉遣いにピンと来た。 「お話は秘書の久保からしますので、すぐ理事長室に行っていただけますか」 「今から、ですか?」 と言える恐いもの知らずなところは、買えるところか? 「はい」 雅人のこめかみにはっきり浮かぶ青筋に気づかない男がいるのはある意味貴重な存在かもしれない。 「・・・わかりました。夏川、また後でな」 「はい」 不承不承嫌々ながらその場を離れて行く中田を綾乃は笑顔で見送った。そこで中田は勘違いに気づかなければいけないのだが、どうにも目がくらんでるらしい。 わかってない。 その中田が校舎に入る少し手前。 「綾乃っ!」 ―――――えっ ―――――えぇぇ!? 学校で、こんな場所で名を呼ばれた綾乃は驚きに少し瞳を見開いたが、さらに驚いたのは中田。 ―――――な、なんで理事長が夏川の名前を!? 「――――!!!」 思わず振り向いて、中田の鈍感な心が砕かれたしまった。だって、これで気づかないはずがない。だって全然違うのだ。 自分に向けられる笑顔と。 名前を呼ばれて、雅人を見上げて笑う顔が。自分に向けられていたものとは全然違う。 自分に向けられるものよりも、もっともっと、何倍も何十倍も何百倍も、驚くほどに綺麗だった。 |