春の台風 5
「随分また、疲れてますね?」 さすがに雅人が気後れする事は無いのだが、そのあまりにいつもと違う空気に言わずにはいられなかった。 もちろん、疲れてるのとは違うのだろうとは分かったが、だからといってどう言っていいのかわからずにその言葉を選んだに過ぎない。 「―――いえ。これが今度の体育祭の一覧です」 「ありがとう」 雅人も少々引き気味気分で受け取って、紙をぴらっと捲る。 「・・・騎馬戦、ですか?」 やはり雅人もそこが気になったか。思わず驚いた声とともに、薫を見た。 「はい。騎馬戦ならば足が遅くても関係ないと。その、止めたのですが―――――すいません」 「綾乃が自主的に騎馬戦参加を選んだんですね?」 「はい」 叱責も覚悟していたのか、薫がさらに項垂れた。 その様子を目の当たりにすると、雅人もなんと言っていいのか。それでなくても暗いのに。 「それと、中田先生の事なのですが」 「臨時雇いの先生ですね。彼が何か?」 非常に言いにくい。薫は思わず雅人の顔をちらっと見てしまった。しかし、言わないわけにはいかないから、決心するように息を吸い込んだ。 「――――どうも、綾乃に気があるのではないかと」 「なんですって!?」 思わず大きくなった声に、薫が怒鳴られたわけでも無いのに思わず身がすくんだ。すいません、と訳も無く謝ってしまいたくなる。 もちろん口に出すのは違う言葉だが。 「毎日、生徒会室に顔を出すんです」 「――――綾乃は」 「まったく自覚がありません」 その言葉に、雅人はなんとも複雑な顔をした。自覚が無いのはこの場合、良い事なのか悪い事なのか、判断がつきかねたのだろう。 「今も?」 「僕が出てくる時はいませんでしたが、今の間に来ている可能性は高いです」 「わかりました。私も一緒に戻りましょう」 雅人はそう言うと、おもむろに立ち上がった。 その頭からは一瞬綾乃の騎馬戦参加が抜け落ちていたが、手にした紙を机に置いて再び思い出した。 ―――――よりにもよって騎馬戦とは・・・・・・ もし綾乃に悪意を抱くものが紛れていたら。 もし、南條家に悪意を抱くものが紛れていたら。 どうしてそういう心配をして選ばないのか、と思ってしまう気持ちと綾乃がそんな事にまで気が回らないのは当たり前で。 そういう綾乃が好きなのだという気持ちが、複雑に雅人の胸中で絡み合っていた。 「戻りました――――」 ―――――っ、あーあ・・・・・・ 扉を開けた瞬間に薫はかなりの不安感と共に内心深いため息をついた。そして、道を雅人に譲った。 「理事長」 雅人の姿をいち早く目に止めた高畑が思わず立ち上がった。いや、立ち上がらずにはいられなかった。 翔にいたっては、初めて見る雅人のその顔に完全に固まってしまっている。 「あ、雅人さん」 気軽にそんな声を掛けて笑みを浮かべられるのは、綾乃と――――直人くらいかもしれない。そんな、顔だった。 「理事長」 中田も慌てて立ち上がって、頭を下げた。 しかしもう遅い。 雅人の瞳には、二人が仲良さそうに雑談している姿が焼き付けられてしまっていた。 何のことは無い午後の風景かもしれない。が、僅か40センチ程度の間隔で隣同士コピー機の前に立ち、雑談と共にコピーをしている姿は"仲睦まじい"以外の何者にも見えず、雅人の嫉妬の業火が燃え上がるには十分過ぎた。 「中田先生、――――あなたはこちらで何をなさってるんですか?」 部屋の気温が一気に下がる。 「あ、生徒会の手伝いを」 「それはご苦労様です。しかし――――当校に1ヶ月しかいないあなたには、出きれば授業に集中していただきたいのですがね」 雅人はそう言うと、さり気なく高畑の手にしていた用紙を見て、再び高畑に返す。 ―――――ここに着て20分、あの状態ね。 「特定一部の生徒と交流するよりは、社会科資料室で社会科に興味を持つ生徒に指導していただけるほうが、私としてはありがたいのですが」 「そういや、喜多先生はそういうのしてました」 精神的驚きから復帰した翔が、元気良く言うのを雅人はにっこり笑って頷く。 「あ、いや。しかし―――――」 一応反論をしてみようという根性は、この場合買っていいのかどうなのか。当然雅人は、笑みを絶やさず中田を見る。その笑顔に恐怖を抱かない人は、そういないだろうが。 「生徒会には、私や生徒指導教官が携わっていますので」 雅人の有無を言わせない視線。 「中田先生、この後は僕らがやりますから大丈夫ですよ」 薫もそう言うと、中田が手にしていたコピーの残りを勝手に受け取る。そんな一連のやりとりに、綾乃は眉を顰めた。 ―――――なんだろう・・・ なんともいえない、居心地の悪さを感じてしまったのだ。ざわざわと、襟足に嫌な感じが走る気がする。 「そっか。じゃあ俺は戻るとするかな、ははは・・・」 流石の中田も空気の変さに気づかないわけにはいかなかったらしい。それでも浮かべようとした笑いは乾いて響き、その努力は無駄だった事を知るしかない。 「じゃあ」 「あ、先生っ。ありがとうございました」 追い立てられる様なその背中に綾乃は思わず声をかけずにはいられなかった。それがさらに、雅人の機嫌を損なう事になるとはわからずに。 もちろん空気がさらに冷えた事に、薫と高畑と、鈍いはずの翔も気がついたが。 「いや、いつでもなんかあったら声かけてくれ!」 しかしこちらは綾乃の一言に若干気を取り戻して、「はい」と笑う綾乃の笑顔を目に焼き付けてからは、廊下をスキップすらして歩きそうな勢いになっていた。 しかし、残された空気の居心地の悪さといったら無い。誰が最初に口を開くんだよ、と無言のまま視線で牽制し合う間に、ピピピピという電信音が響いた。 ―――――げっ 「あ、すいません」 携帯が鳴ったのはあろうことか雅人では無く、薫の物。薫はあわてて電源を切ろうとして、その液晶画面を見て固まった。 ―――――透さん!? 今はアメリカの空の下にいるはずのその人の携帯からの、電話。しかも昨日、あんな切り方をして、今日の薫の寝不足を作った人。 薫は慌てて通話を押した。 「――――はい」 本当に? まさか。 薫は、半信半疑で電話に出た。 「オリエンタル・エーホテル。708号室」 「・・・は?」 ―――――え、オリエンタル・エーホテル708号室って。 「すぐ来いよ」 「ちょっ――――――」 用件だけ言って切れた電話を思わず薫は見つめた。いや、今の声は間違いない、透本人だと思う。テープとかじゃない限り間違いないと思う。 けれど。 ―――――なんで!? 「薫?」 はたから見ても混乱して見える薫の、綾乃が声を掛けると、その声にハッとしたように薫は顔を上げて慌てて鞄を掴んだ。 「ごめん、僕、急用だから帰るよ」 「え?」 「おいっ」 驚きの綾乃と、抗議の高畑。しかし、薫に構っている余裕はまったく無かった。 逸る心臓と、震える指先をなんとかしようとするので精一杯で。 「じゃあ、後よろしく。――――あ、理事長。すいません、お先に失礼します」 薫は一礼すると、日ごろの冷静さや落ち着きはすっかりどこかへ置き忘れて、転がるように駆け出して行ってしまった。 その数分後、生徒会の今日の集まりは雅人の空気をもって半強制的にお開きとなってしまった。 一方その頃、薫は高校生ながらタクシーを止めて指定されたホテルへと向かっていた。逸る心の高鳴りを神が利き留めたのか、道はすいていて瞬く間に薫はそのホテルへと着いた。 お金はカードで切って、若干目立つ事も自覚しながらロビーを抜けて7階のボタンを押した。 もちろん、警戒する気持ちも無いわけではない。だって、普通に考えれば透はここにはいるはずがない。もしかしたら、何かの罠という事もある。 自分は知らないが、祖父や父がややこしい訴訟に携わっての火の粉がこちらに飛んでるのかもしれない。 けれど、じゃあ、何故透なのか―――――――― どちらにしても、確かめないわけにはいかないのだ。 チンと、密かな音を立てて扉が開いた。 ―――――708・・・ 絨毯の敷かれた廊下は足音さえ響かない。 薫はゴクっと唾を飲み込んで、インターフォンを押した。 |