春の台風 6
待っていたのは、ほんの僅か。数秒程度だとわかっているのに、薫はそれが随分と長く感じられた。思わず汗ばんだ手のひらで、鞄をぎゅっと握り締めると汗でぬるついた。 カチっと音がしてドアがゆっくりと開かれる。 ―――――!!! 「透、さん・・・」 声は少し、掠れていた。 「よう」 心臓が、言い知れぬ不安にドキンと鳴った。いつもじゃない、シニカルな笑みに。 その顔を見ただけで、思わず膝が崩れそうになって世界が回るかと思った。だって、知ってる笑みじゃない。 自分に、向けられてきた笑みじゃないから。 「・・・なんで?」 なんで、いるの? なんで、そんな顔するの? 「入れよ」 開けられた扉を通り抜ければ、室内は空調が気持ちよく利いていて、汗が引いていくのを感じた。見渡せば、小さな鞄しかない室内。 これは一体、どういう事だろう。 それに、テーブルの上には明らかに今空いたばかりとわかるビール缶がある。 「透さん―――――――うわっ」 振り替えり様、いきなり透に肩をつかまれて、ベッドに押し倒された。慌てたはずみで、学生鞄はガタっと音をたてて床を転がる。 「ちょ――――、なにっ」 透の指が薫の制服のボタンにかかる。いきなりのその展開に薫は当然抗おうと手を振ると。 「明日この制服着たかったら、暴れるな」 「――――っ」 地を這うような、冷たい透の声に薫の顔が一瞬にして青ざめて、自分を押さえ込む相手を見た。 ―――――えっ・・・・、なんで・・・ なんで泣きそうなの? 押し倒されて、今にも剥かれそうになってる自分じゃなくて、剥こうとしている透がなぜか泣きそうで薫は思わず動きを止めた。 それと同時に、青ざめていた顔色が元に戻っていつもの冷静さを取り戻してきた。 ―――――怖がる事なんか無い。・・・だって。 その間にも、透の指先は薫のボタンを外して衣服を脱がしていく。上着が取り払われて、ネクタイも取られて前は完全にはだけた。 その肌を、透の指先と視線が動く。 「透さん」 まるで何かを、探すように。 「どうしたんですか?」 「――――まだ、成就してないみたいだな・・・」 「?、何がです?」 カチャっと薫のベルトが外されて、下着ごと一気に下が取り払われた。それでも薫は動かなかった。 「抵抗しないのか?」 この人にだったら、何をされたっていい。 「するなって言ったのは、透さんですよ?」 「いいのかよ」 ふっと、皮肉な笑みを浮かべた透を薫はクスっと笑って見上げた。 よくわからないけど、混乱を通り越した薫はすっかり冷静になっていたし。 「何がですか?」 透になら何をされてもいいと、思っていた。例えそれが非道な事でも、透がそれを望むなら、身を晒してしまえる。 「俺にヤられても」 だって、透以外いらないのだから。 「透さん以外、誰がするんですか?――――っ」 透の爪が、薫の肌に突きたてたられて思わず痛みで顔が歪んだ。 「よく、そんな事が言えるなっ!!」 ―――――ああ、この人もこんな顔、するんだな・・・・・・ 透の怒鳴り声に、それに伴わない顔付きを薫は、ずるいと分かりながらも嬉しく思っていた。きっと、透にこんな顔をさせるのは自分だけなんだと、わかっていたから。 「遠距離になって1ヶ月で、もう心変わりするとはなっ!!」 ―――――!? 「え、ちょっと。ちょっと待ってくださいっ」 この発言には余裕ぶってた薫も慌ててしまった。何かあったのだろうとは思ったけれど、まさかそんな、自分の気持ちが疑われてるとは思いもしなかった。 「んだよっ」 「心変わりって、誰がですか?」 「誰がってお前だろっ!!」 「―――――!!」 カッとなった透の拳が薫の顔の僅か横、ベッドを思いっきり殴る。 「けどな、ダメだ」 「―――――」 「お前は俺のモンだって、言っただろう?――――― 一生な」 ―――――ああ――――――――っ それは、なんて甘い響きだろう。嬉しすぎる。 「僕が、透さん以外の誰かを好きになった?」 「ああ」 「それで帰って来たんですか?―――――そんな、誤解して?」 ―――――ああダメだ。笑ってしまう顔が、止められない。 「―――――誤解?」 「はい。誤解です。第一、僕が誰に心変わりしたって思ったんですか?」 薫は、クスっと笑ってシャワーの所為で濡れたままになっている透の髪に触れた。 「中田って、臨時教師にだろ?」 「はぁ!?」 髪に触れた指を、バスローブ姿のその胸に伸ばそうとして、あまりの名前に思わず指の動きを固めてしまった。 まさか、僕が、あんなのに。 あんまりだ。 「なんで、僕があんなのに・・・」 「なんでってお前が電話で言ったんだぜ。好きになってしまったって!!」 「言いませんよっ」 「言った!!」 「言いません。聞き間違ってます。どうせ他の事とかしながら電話してたんでしょう!?」 「んな事するわけねーだろっ!!お前からかかってきた電話をっ」 きっと、真っ裸とバスローブ姿でベッドの上でする会話じゃないのだろうが。 「そう、なんですか?」 「当たり前だろっ。馬鹿か」 透は少し照れた様に目を逸らす。それに、息を吹き返した薫の指先が透の胸に這わされた。 「でも、聞き間違ってますよ。正確には、中田が、綾乃を好きになったらしくて」 「はぁ!?」 「毎日毎日生徒会室に来て、困ってたんですよ」 「嘘だろ?」 「本当です。綾乃は全然鈍感だし。翔でさえピンと来たのに」 かなり辟易しているらしい顔の薫と、驚きに言葉に詰まった透の視線が絡み合って数秒、透が脱力したように薫の上に倒れこんだ。 「ん〜だよっ」 「と、透さん?」 「お前が他のヤツ好きになってのかって、――――――くそっ」 珍しい醜態に、透自身自分の気持ちのやり場に困ったらしい。思わず口汚く言って、薫をぎゅーぎゅーに抱きしめた。 だって、昨日の電話でそう思ってから。 どんな思いで過ごしてきたか。 怒りと焦りと焦燥と、どうしたらいいのか答えの出ない気持ちがぐるぐるして珍しく飛行機に酔うほどだったのに。 格好悪く、捨てないでくれと土下座でもしようかと思っていた。 無理ならこのまま、攫ってしまおうかとさえ。 そしてアメリカのあの部屋に閉じ込めてしまおうと。 「透さん・・・?」 「いや、絶対俺の聞き間違いじゃねー」 「はぁ?」 ガバっと状態を起こしてにやりと笑う顔は、薫がイヤと言うほど見知ってしまっているそれ。 その顔に、嬉しさと同じくらいに嫌〜な予感を薫が抱くと。 「お前の言い方が悪い」 「そんなっ」 いいがかりだっ!!と薫が抗議の声をあげようとする。ま、真実を照らしてみると、言いがかりでも無い気がするのだが。 そして、薫が口を開く前に、透が口を開いた。 「お仕置きだな」 一方その頃、強制終了されたのち、綾乃と雅人は同じ車で帰途についていた。 心に色々点火してしまった雅人にこれ以上仕事をする意思は無く、こうなることを事前に察知していた久保はすでにスケジュールを調整済みだった。 雅人は久保への連絡は、校内なのに電話で済ませてそのまま正門をくぐっていた。 が、その強引な感じに綾乃はなんとなく違和感を憶えていて、当然車の中はぎこちない空気が流れていた。 雅人もあえて口を開こうとはしないし。 綾乃は俯いたまま。 そんな雰囲気のまま、南條家まで残り半分というところまで来た時だった。 「綾乃、顔を上げてないと酔いますよ」 「っ、へーき」 見かねて開いた雅人の口は、綾乃の態度の前には強くは出れなくて。僅かなため息を誘うに留まった。 運転手も、気にしてはいけないと分かっていても後部座席の様子が気にならないはずがない。しかしそこは、チラ見するような愚かな事はしない。 ただ心の中で、1分でも1秒でも早く帰り着きたいと願うだけだった。 帰り着くまで後10分そこそこ。 それは不気味な、カウントダウン。 |