春の台風 8




 ベッドの上に寝そべりながら、薫は送信完了の文字を確認してから携帯をパチンと閉じた。
「大丈夫か?」
 断固として別々に入ると言い張った薫に負けて、一人でシャワーを浴びた透が出てきた。
「はい。綾乃に、今夜は泊まってる事にしてもらいましたから」
「そうか」
 透はそう言うと髪を拭いていたタオルを投げ捨てて、上体を起こした薫の唇に、ちゅっと軽いキスをした。
「つーか、腹減ったなぁ。ルームサービスでうどん食うかな」
「うどん、ですか?」
「そ。向こうにいると日本食に恋焦がれるわけよ」
「なるほど」
 そういうものかと透を見ると、なんとなく少し―――――男っぽくなった気がした。今更に。
 僅か一ヶ月。たぶん、気のせい。
「お前は?」
「あっ、同じので」
 思わず、見とれていた。
 椅子にどかっと座ってルームサービスのメニューを捲る、シャワーに濡れたその姿を。
「じゃあこの巻き寿司とうどんのセットのにしよ」
 うんうんと、なんだか嬉しそうに透はそう言うと電話をかけた。
 たったそれだけ。それなのに。
 薫の心臓が、―――――――キュっと鳴った。
「ん?」
 視線に当然気づいた透はにやりと笑う。その笑みに、全てを見透かされている気がしたけれど、でも言わない。
「いえ」
 口が裂けても言いたくないと思う。
 だから、負けない様に頑張ろうと薫は思った。
 置いていかないで、とすがる事だけはしたくないから、追いつく自分でいよう。並べるように、その肩に。
「そっか」
「はい」
「――――宿題とかしとかなくていいのか?」
 くすっと透は笑って薫の鞄を開けた。
「してくれるんですか?」
「半分な」
「やったっ」
 薫はうれしそうに笑って、受け取った鞄から宿題のある教科をベッドの上に並べた。今まで一度も、宿題を手伝ってもらった事なんかなかったのに。
 別に今までは、手伝ってほしいと思ったこともなかったし、そんなことで甘えることもなかったけれど。
 なんで今なのか、純粋に面白いなと思った。
「ただし、タダじゃねーからな」
「――――っ」
 その笑みで言われた言葉が、わからないわけがない。
 そしてその顔を見ただけで身体が熱くなった。ついさっきまでシテいたのに。
 切なくて嬉しくて、とどめて置けない強い気持ちがあふれ出す。
 ああ。
 きっと今夜は眠れない。
 眠らない。

 そんな勿体無い事、出来るはずが無いから―――――――――――――









 透と甘い夜を過ごそうとしているとき、南條雅人はかなり険しい顔で秘書に電話をしていた。
「――――そうだ。出来るだけ早く復帰していただいて、契約途中でも中田を首にする」
 指が、コツコツと苛立たしげに机を叩く。
 あんな綾乃の顔を見せられて。その上、いい先生だ、などと言われた日にはいてもたってもいられない。後数日でも、綾乃の瞳にあの男の姿を映すのかと思うと、それだけで腸が煮えくり返る。
「いや――――ああ、そうだな。地方の方がいい」
 即刻排除しなければならない。
 返す返すも、あれを雇ってしまった自分の愚かさに腹が立つ。雇いさえしなければ、こんな面倒も無かったしこんな気持ちになる事もなかったのだ。
「わかった、後は任せる――――それと、1年に入学してきた梅田という生徒について知りたい」
 綾乃に話しかけた、第1号。それだけならまだしも、そのきっかけで綾乃と中田が同じ時間二人っきりになったという。
 それだけで、排除するには値する十分な理由。
「全てだ―――――明日、朝一だな。わかった―――――ああ」
 携帯の向こうから、久保の失礼いたします、という声を聞いて雅人は携帯を切った。そして、深い深いため息をついた。
 これで梅田の情報は明日にはわかる。問題は中田だ。多少無理をしてでも、早く切り捨てなければ。
 遠くの場所に。
 二度と、会う事の無い場所に。
「・・・はぁ・・・」
 後は。
 雅人に視線の先には、体育祭のスケジュール表と競技者氏名の書かれた一覧。
 ―――――よりにもよって・・・・・・
 騎馬戦とは頭が痛い。
 怪我でもしたらどうするんだと、今すぐにでも止めさせたいが雅人としてもそれをするのは躊躇われた。そんな事をすれば綾乃が反発するのはわかりきってるし、南條家の事情に綾乃を出来るだけ巻き込みたくなかった。
 それは。
 本音を言えば、恐いからだ。
 綾乃が怒る事じゃない。
 綾乃が、その事で南條家を嫌になる事が恐かった。
 自分でさえ、煩わしいと、邪魔だと。重いとさえ思った事もあるこの名に。
 まったく関係の無い綾乃が、そう思わないはずがないと思うから。
 その事に、気づかないでいて欲しいと思う。1分、1秒でも長く。
 出来れば、一生。
 ―――――とりあえず、騎馬戦の他の出場者を調べてみますか・・・





・・・・・・




 はぁ、と綾乃の口から思わず漏れたため息が、青い空に吸い込まれた。
 去年の今頃も感じた事だが、あからさまな視線とチラチラと送られる視線をまったく気にしないでいられるほど綾乃は鈍感では無かった。
 むしろ、人の視線や顔色には、敏感な方。
 彼らは、南條家でもない人間が南條家にいる。それは不思議で面白くて、興味の対象なのだろう。しかも、きっと彼らは綾乃の経歴さえも知っているのかもしれない、という事は去年で十分綾乃も学んでいて。
 ―――――疲れる・・・
 なんとなく気が休まる事が無くて。
 いつも肩に力が入ってて。
 自分は、何のとりえも無い普通の子どもなのに、周りの見る目はどうなのだろうかと気にしないではいられない。
 だから、言ってしまいたい。
 僕は、ただの夏川綾乃なんです、と。
 何にも分からないし、出来ないんですと。
 だからもう、放っておいて!!と。
 でも、そんな事が出来るはずもなくて。
「なーんで、薫は普通でいられるんだろ・・・」
 綾乃はフェンスに頭をくっつけて、空に呟いた。
 こっそり鍵を拝借して入った屋上。ここには誰もいなくて、綺麗に晴れ渡った空しかなくて綾乃はゆっくりとその頭をフェンスにもたれさせていく。
 薫だって、ずっと生徒会長でしかも透と比較されたりもする。陰で色々言う人がいるらしい事も最近知った。けれど、変わらないでいてる。
 自分らしく。
 淡々と。
「・・・僕は」
 ―――――だめだなぁー・・・・・・
 薫みたいにはなれない。
 翔みたいにも、なれない。
 綾乃は自己嫌悪を胸いっぱいに溜め込みながら、ゆっくり瞼を閉じた。もう生徒会にいかなきゃいけないことはわかってる。
 また、薫が心配してるのかもしれない。
 きっと、用事はたくさん待ってる。
 でも、なんだろう。
 時々、地に足が付いてなくて歩かされているような感覚に襲われる。

 心配される事は、嬉しい事のはずなのに。

 それが少し、――――――――――重いと感じるなんて・・・・・・


 それでも綾乃は、起きなきゃ!と自分に喝を入れて瞳をこじ開けた。
 ゆっくり立ち上がって天に向かって大きく伸びをして、よし!!ともう1度気合を入れなおして、そっと屋上の鍵を閉めた。
 もちろんそこに人影はなくて、綾乃は見つからないようにそっと階段を降りた。
「つーかさ、夏川って普通?」
 ―――――あっ・・・!!
 3階から屋上へと続く階段の途中に人がいた。
「勉強そこそこ、ウンチってところだろ」
 綾乃の足は、びくっとしたまま固まった。
「なぁ〜んか、南條家に住んでるとか聞いたからさ、どれくらい?って思ったけど」
「南條家に住んでるつってもさ、今の夫人の遠縁だろ。借金苦で一家離散して、かわいそうだから面倒みさせられてるだけじゃん」
「そーなの!?」
「何、お前知らなかったのかよ。だっせー」
 はははは、という軽蔑しや笑い声が廊下に響いた。
 綾乃はぎゅっと目を閉じてその場にしゃがみ込んだ。思わず塞いだ耳からも、その笑い声を遮断する事は出来なくて。
 ―――――聞きたくない・・・っ
 これから1年、クラスを共にするその人たちの言葉を、出来れば聞きたくなかったと綾乃は痛切に思った。知らなければきっと、笑ってられたのに。
 逃げたくても先は屋上しかなくて。
「じゃあ別にどーでもいいかぁー」
「ばかだな。それでもどうなるかわかんねーんだから、親切にしとけって」
 痛い。
「めんどくせー」
 痛い。
「適当に機嫌取っときゃいーって」
「だなぁー」
 もう、聞きたくない。
 ひとしきりの笑い声が去った後、一人の生徒が時計を見て慌てて言った。
「あ、やべっ。俺これからカテキョーなんだよ」
「おー、んじゃ帰るか」
「お前は迎えだろ?」
「ああ、下で待ってる」
 彼ら――――足音から察して3人――――は、綾乃の存在に気づく事無く、足早にそのまま遠ざかっていった。
 綾乃は彼らの音が完全に消えてから、ゆっくりと立ち上がった。身体が少し、ぎしぎしいった様な気がしたが、この際それは無視した。
 震えてる気がする身体も。
 綾乃は、きゅっと唇を噛み締めた。
 そしてそのまま一歩、何も考える事無く足を踏み出した。
 生徒会室に行かなきゃ、それしか頭は動いていない。
 自分がどんな顔をしてるかなんて、考える余裕も無いままに角を曲がった。

「あ・・・」

「夏川」

 そこにいたのは、生徒会室に入ろうか止めようかと廊下をうろうろしていた、中田だった。







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