冬の空の下で  2




「はぁ・・・」
 苦々しい吐息が闇に溶けて消えた。透は、そっと上体を起こして傍らで眠る薫の髪をゆっくりと撫でた。泣かせた涙の後を、指の腹で軽く擦ると、薫の頬がヒクっと動く。
 けれど、規則正しく聞こえる寝息は乱れることなく、薫が目を覚ます気配は無い。
 その、安心しきったような態度に、透の口角がうれしそうに上がる。
 何時だろうと視線を動かせば、ベッドサイドで4:23の文字が浮かび上がっていた。
 透がアメリカから帰って来たのは12月24日だった。なんとかクリスマスに間に合わせて帰って来たのは、我ながら笑ってしまうくらいロマンチストだと思う。
 ただ、実家には1日遅れで帰って来たことにしておいた。薫との2人きりのクリスマスを邪魔されたくなくて。その事で透は雅人の手を借りてしまって、また借りが増えてしまったけれどしょうがない。
 それなのに、薫は人の気を知ってか知らぬか。あんまり嬉しそうに笑ってくれない。その心の中で何を心配しているのかわかっているけれど、どれだけ言葉を尽くしても今はダメだろうとわかっていて、何も言えなかった。
 薫の悩みを解消するには、大人になるしか無い。けれど、人はどれほどそれを願ったとしても、1年で1つしか歳は取れないのだ。
 世界でそれだけが、平等な事。
「はぁー・・・」
 愛してる。
 気持ちさえ繋がっていれば、どうにでもなると思うのに。何にだって負けることは無いと思うのに。
 自分の心はもう決まっている。何と引き換えにしても、薫だけは諦めないと、その手を離さない、絶対に。
 自分ではそれはわかっている事で決まっている事なんだけれど、世間では18歳やそこらの男の気持ちなど、今だけ、世間を知らない、そのうち気持ちも変わる、そんな風にしか思われない事も知っている。
 ―――――だからだろうな、薫が色んな事を心配するのは。
 その所為で正月は会えなかった。3日にようやく会えたけど、4日は4人で会って、そして今日。年末はお互い家の用事で忙しくて、自由に時間を作れなくて、結局3日間しか2人っきりで会えなかった。
 見送りにも来ない。
「んーだよ・・・っ」
 ―――――薄情モノ。
 不貞腐れた声が、透の口をついて出る。
 このままアメリカに連れ去ってしまいたい。
 出来るなら色んな事をポンと飛び越えて大人になって、明日からだって二人で住んで、誰にも邪魔されないで生きて行きたい。
 認めてもらえなくてもいい。
 誰に後ろ指をさされたって、薫さえいてくれればいいのに。
 薫さえ信じて傍にいてくれればい、自分はどんな事にだって立ち向かっていける。
 切ない程に愛している。
「わーってんのか?」
 囁いて頬にキスを落とすと薫が小さく声を漏らす、そんな瞬間になんとも言えない幸せを感じるのを、薫は知っているだろうか。
 その幸せを、薫の笑顔を守りたいと思った。だから、この帰国中何度か言ってしまおうかと思った、翔に。
 薫がそれで安心できるなら、と。
 けれど、翔の態度からは薫が危惧するようなそんな素振りが見えなくて、透は結局切り出すきっかけも見出せなかった。もし、何にも気づいていないのなら、やぶ蛇になりかねない。
 傍にいてやれないだけに、透は透なりに慎重になっていたのだ。
 それは、翔と透の微妙な距離にも関係しているのかもしれない。
 透はもう1度息を吐き出して、ベッドサイドのグラスを手にとって少しぬるくなった水を喉に流した。
 ―――――翔とは、―――――上手くいっている兄弟だと思う。
 でも、心底で翔が自分をどう思ってるのか不安もあった。親戚や、周りの大人たちが透と翔を無遠慮に比較しているのも知ってる。
 頭がいいのも、兄。
 そつなく器用なのも、兄。
 もてはやされたのも兄で、周りの期待を浴びたのも兄だった。その中で、翔が何をどう感じ思ったのか、透は正面きって聞いた事が無い。
 怖くて、聞けなかった。
 だからいつの間にか、弱みを見せられなくなった。完璧であろうとしたのかもしれない。どうせなら完璧にこなして、自慢の兄でいたいと思ったのかもしれない。
 壁になれればいいとも思った
 薫に対する気持ちとは違うけれど、翔の事もまた守りたいと思っていたから。でも、そうやって意地を張り続けることで、距離を縮める機会を―――――いつしか逸してしまった。
 でも、透にとって翔は唯一の弟で、薫にとってはかけがえのない親友。
 そうだよな。
 翔には、――――――認めてもらいたいよな・・・・・・・・・
 翔は、俺の事どう思ってるんだろうなぁ。




・・・・・・





 だだっぴろい場所に、たくさんの飛行機が並ぶ無機質なその風景を綾乃は、薫と並んで見ていた。
 昨日、突然の電話は、"明日空港まで付き合ってくれない?"だった。その願いに綾乃は即答で了解した。
 どんな思いで薫が電話をしてきたのだろうと思うと、綾乃の心は苦しかった。その切なさが、わかるから。
 冬の空が冷たく透き通って、どこまでも遠くを見通すことが出来そうだった。アメリカまでも。
「ごめんね。付き合わせちゃって」
「全然」
 薫の視線は、動かない。
 はるか向こうの飛行機の窓に注がれたまま、その姿を見る事は絶対に出来ないと言うのに。
「理事長、大丈夫だった?」
「うん。雪人にゲームを教わってた。雅人さん、全然弱くて負けてばっかりでさ」
「そうなんだ」
 ふって薫は笑ったけれど、吐息はすぐにそれは空に消えた。
「でも、その雅人さんと僕がいい勝負ってのがなんだかなぁ〜」
 綾乃の明るい声は、薫には聞こえ無かったのかもしれない。その頬はピクリとも動かないで真っ直ぐに前を見ていたから。
 横顔が寂しさと切なさに影って。
 正月なのに、少し痩せたんじゃないだろうかとさえ思った。引き結んだ唇が、切れるんじゃないかと心配になる。そんなに息を詰めていたら、苦しくなってしまうから。
 何か声をかけてあげたい、そう思うのに。浮かぶ言葉は今の薫にはどれも軽々しすぎるように思えて。
 不安と寂しさにさらわれてしまいそうな、そんな薫に何を言っていいのかわからなくて綾乃は逡巡を繰り返した、その時だった。見知った声突然耳に聞こえてきて、綾乃は思わず振り返った。不意打ちで、予想もしてなくて身体が固まってしまった。
「――――綾乃!?」
 逃げたほうが良かったのか?脳の中にそんな言葉がこだまする。
 逃げ場も無いのに。
「翔・・・っ、びっくりしたぁこんなところで会うなんて」
 薫が、ゆっくりと振り返った。その顔が青ざめていたけれど、逆光できっと翔は気づかなかっただろう。
「薫」
「びっくりした。――――おば様こんにちは」
「こんにちは」
 翔の母は新年の挨拶以来の薫に、にこやかな笑みを浮かべた。
「透の見送りに来てたのよ。そうしたらこの子が飛行機を見て帰ろうなんて言うから。まったくいつまでたっても子供で」
「そんな―――僕らも同じですよ。知り合いを見送りにきて、それだけじゃあつまんないからって」
 嘘の言葉は薫の口から勝手に滑り出した。
「綾乃は?」
「僕の付き添い」
「んーだよっ、俺も誘えよ」
「何言ってんの。翔は透の見送りでしょう」
 翔の不満そうな言葉に薫が口を開く前に、母親の小言が落ちた。
「そっか、先輩の出発日でしたね。挨拶すべきでした、すいません」
「そんなのいいのよ。お父様の名代?」
「まぁ、そんなところです」
 押し付けられちゃって、と言いたげな顔で薫は笑った。
「なぁ〜兄貴の乗ってるのってどれだと思う?」
 問いかけは、母に?薫に?
「アメリカン航空だから、あれかしら?」
 母が指さした方向には、2機のアメリカン航空機が並んで止まっている。
「どっち?」
「わからないわ」
「・・・どっちでもいいか」
 軽く言う翔に母は少々呆れ顔をしていた。
「何言ってんの」
「だってさぁ、どうせ見えねえだろ」
 ―――――薫はわかってるんだろうか?
 綾乃はそっと薫の顔を盗み見たけれど、綾乃には薫の心の底は計る事は出来なかった。紙みたいな顔色の下は、どんな気持ちが渦巻いているのだろうか。
 自分がもっと大人だったら、薫の気持ちを軽くする言葉くらいかけてあげられたかもしれない。
「薫の見送りの飛行機は?」
「さぁ・・・。全日空って言ってたけど。別にそれを見送りに上がってきたわけじゃないから」
「はは、それもそっか」
 それから4人でどれぐらい飛行機を眺めていただろう。吹きぬける風は寒くて、翔の母は"寒いわぁ"と何度か独り言のように言葉を吐き出していたのに、翔も薫も何も言わなかった。 
 "寒い!"なんて言葉、翔がまっさきに言いそうなのに。
 時間がたつたびに、空気が張り詰めるような緊張感を増していくような気がしたのは綾乃だけだったのだろうか。
 綾乃がその空気にしんどくなり始めたころ、ようやく目に映っていた飛行機がゆっくりと動き出した。時計を見れば、透の出発時刻から5分遅れ。
「きっと、あれね」
「・・・手、振ったら見えたらいいのにな」
 母の言葉に誰も言葉を返さなくて、綾乃が変な間の後口を開いた。
「ホント。もっと近くで見れたいいのに」
「そうよね!」
 母と綾乃の妙に明るい言葉が、4人の空気から浮き立っていた。
 飛行機はゆっくりと奥の滑走路へ滑り出して、その姿はみるみる遠くなっていく。
 動き出せば、飛び立つまではあっという間だった。
「あ―――」
 薫の僅かに漏らした声が、綾乃の耳に微かに届く。
 飛行機が、大空に舞い上がった。
 少しづつだが確実に小さくなっていく機体。
 それはもう、手の届かない。
「行っちゃったわね。あぁー寒い。中へ入りましょう」
 翔の母が、寒さに耐え切れないとばかりに声をあげ、翔の背中を押すように歩く。
 薫はまだ去りがたいというように、その視線を飛行機に注いでいる。もうとてつもなく小さくなってしまった、その影を追うように、じっと。
「まだいるの?」
 翔の母が動こうとしない二人に、出入り口付近から声をかける。
 綾乃が、もう少しと返事をしようと口を開きかけたその時、
「いえ、僕たちももう帰ります」
 何かを吹っ切るように薫が返事を返した。
「すっかり冷えちゃったし。行こう、綾乃」
 浮かべた笑顔が、無理してるとわかる。
「・・・うん」
 それでも綾乃はわずかに頷いて、薫の後に続いた。だって、それしか出来ない。
「やっぱり寒いわねぇ。透のところはもっと寒いみたいで、正月SALEでダウンを買って持って行ったのよ。向こうではサイズがなかなか合わなくて、って嘆いてたわ」
「はは、外人サイズですもんね。やっぱり透さんでも、難しいんですね」
 でも、その中で透が上手に買い物をしているのも、お気に入りのお店を見つけたことも、薫はもう知っている。全部、その都度メールや電話で聞くから。
 一緒に積み重ねられない思い出も、二人の思い出にするかのように話してくれるから。
「二人は、車?」
「いえ、電車で来ました」
「そうなの?車だから送りましょうか?」
「ありがとうございます。でも、電車で大丈夫です」
「えーなんでだよ。遠慮すんなって。一緒に帰ればいいじゃん」
「そうよ。方向一緒なんだし。4人乗っても大丈夫よ」
 そうしなさいな、と笑顔を浮かべて善意で言われては薫も綾乃も断れなくて、二人はじゃあお願いします、と車で帰ることになった。
 翔の母がハンドルを握る。助手席には、翔。薫と綾乃は後部座席に座った。道路は比較的すいていて、スムーズに車が流れていく。
「薫くん」
「はい?」
 高速道路に入って、少ししたとき翔の母がバックミラー越しに薫に声をかけた。
「薫くんは、やっぱり大学は外部組みよね?」
「あぁー・・・まだ決めてないんですけど」
「そうなの?でも法科でしょう?だったら桐乃華じゃないんじゃない?」
 法科は、ほかの大学のほうが有利だし、桐乃華も大学に行くと、やはりほかの有名大学や国公立よりは少しランクが下がってしまう。だから、優秀な生徒は大半が大学は外部に移ってしまうのだ。
 逆に、国公立には通らないクラスの生徒が、桐乃華大学には集まっていた。
「そうですね、たぶん、外部にはなると思うんですけど」
「そうよねぇ・・・、綾乃くんはどうするの?」
「僕ですか!?」
「ええ。綾乃くんの場合は、そのまま上なのかしら」
「まだ、全然考えてないです」
 というよりは、少し避けていた問題でもあるのだけれど。
「綾乃くんの成績なら外部は狙えるんでしょうけどねぇ」
「はぁ・・・」
 綾乃は、困ったと眉を下げた。  確かに大学の事は考えなければいけないと思う。以前に言われた、雅人の言葉についても、向き合っていかなければいけないのかもしれない。でも、生まれてずっと、将来の夢なんて見たことがなかったから、急に見ても良い、考えなさいと言われても、なかなか考えがついていかない。
 普通のサラリーマン、といっても何が普通かもよくわからないけれど、その普通にさえなれれば良いとも思うのに。
「翔は、このまま内部推薦でしょうねぇ、というか、なんとかその線にはひっかかってもらわないと」
「うっ、わかってるよ!」
 少し苛立った様な翔の声。
「本当にわかってるの?冬休みもしっかり遊んでいるように見えるけど。3学期からはしっかり家庭教師をつけようと思っているのよ」
「そうなんだ?」
 薫が少し驚いたように、翔を見る。確かに、クラスでも塾に行ったり家庭教師をつけている生徒が大半だ。ある意味、翔にまだついていないことの方が、意外なのかもしれない。
「〜〜〜」
 翔の苦虫を噛み潰したような顔が見えた。
「透はそういうの無かったんだけどねぇ」
「悪かったね!」
「まぁ、透が全部そういうところ、持ってちゃったんでしょうね」
 翔の母が、クスクスと笑う。
「どうせ俺はバカだよ」
 すねた口調の翔の頭を、母は手を伸ばしてくしゃりと撫でる。その手を、恥ずかしそうに煩わしそうに翔は退けた。
「やめろよ」
「バカな子ほど可愛いのよ」
「やっぱ、バカだと思ってんじゃん!」
「拗ねないの」
「拗ねてねーよ」
 もうこの子は、と母が嬉しそうに笑う声に、綾乃は思わず視線を外して外を眺めた。
 母の手を知らぬ事が、急に思い出されて。そんな事は知っていることなのに羨ましさに、胸がツキンと痛んだ。
「もし内部で同じになったら、翔の事よろしくね、綾乃くん」
「あ、はい」
 呼ばれてあわてて視線を向ける。
「そんなの早ぇーよ」
「だってなんだか心配で」
「そんなこと言ったら、兄さんどうなんだよ。一人でアメリカなのに」
「透はしっかりしてるもの。心配ないわ」
「わかんないぜ?ハメ外して遊んでるかも」
「透が?考えられないけど、それもいいなぁって思うのよ。透にも、そういう一面があっても良いと思うしね。ね、薫くんも思わない?透ってば、なんでも出来ちゃうから、心配させられたりハラハラさせられたりしないのよね。学校でもそうでしょう?」
「そうですね。先生方からも、とても信頼されてますし、生徒からも人気ありますし」
「本当、優等生なのよねぇ。親としては嬉しいような、寂しいような」
「そんな事言ったら、ドーンとデカいやっかい事持って帰ってくるかもよ」
「透が?」
「そ、向こうでデキ婚とか」
 ヒクっと薫の体が揺れた。それは、隣に座っている綾乃にわずかに伝わるくらいのひそかな動き。
「透はそういう失敗しなさそうだけどねぇ。あ、でもガールフレンドくらいは出来てて欲しいわ」
「母さん、兄さんが外人と結婚しても良いの!?」
「うーん、どうだろう・・・あ、でも透と綺麗な外国の女の子のハーフだったら、孫はとっても可愛い子になりそう!!それはそれでいいじゃない。芸能人にしちゃおうかな」
「母さん・・・夢見すぎ」
「まぁ、そうよね。透はたぶん、ゆくゆくはお父さんの後継いで、しっかりしたお嬢さんと結婚でもして、堅実な生き方しそうよね」
 ドクン、と薫の心臓が強く鳴った。母親から言われる言葉は、とても真実味があって、それが近い現実に思えてしまう。そんなことありえないと、信じているのに。
「そうそう。んで、俺は兄に使われる身かぁ」
「翔?」
 一瞬の沈黙。
「――――ねぇ、もし嫌なら、違う会社とか・・・」
「なあ、薫」
 母の言葉をさえぎる様に、翔が後ろを向いて薫に声をかけた。
「もしさ、兄さんが、アメリカ人のガールフレンドと帰ってきたら、どうする?」












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