冬の空の下で  6




・・・・・・





 つつがなく―――――と言っていいのかどうかはわからないが、とりあえず表立っては何の波風が立つ事も無くあの日から1週間が過ぎていた。
 その1週間にいつもりよもずっとずっと多くの疲労感を感じて、翔は一人で少し遠出をしてきていた。
 そこは、都心から少し電車で離れた落ち着いた住宅街。その一角に大きく取られた広い公園に置かれてあるベンチに陣取って、翔は横になり、瞼を閉じていた。
 ここは久しぶりの場所。薫も綾乃も知らない。翔が中学にあがったくらいの頃、周りの変化に戸惑いを感じたり、人知れず反抗心も芽生えていたけれどうまく自分で対処できず、ぶらりとやって来たところ。
 そこで偶然に知り合った人と仲良くなって、年の離れた親戚の家族みたいな付き合いが始まった。しばらく会っていないけれど、もしかしたら会えるかもしれない。
 いや、会いたい気持ちがある。
 家まで行こうかなとも思ったけれど、午後の日差しは暖かくて心地よいから、つい寝そべってしまった。
 公園には子供の声や犬の声が響いている、その長閑さも良い。
 正直、考える事に疲れた翔はもう、色んなもろもろをうっちゃて頭の中を真っ白にしたいと思っていた。だから、この長閑で穏やか、いつもと少し違う場所にやってきたのに。
 目を閉じれば、頭の中を支配するのはやはり――――
 一週間同じところをぐるぐるぐるぐると、堂々巡りを繰り返す思考。
 苦しくて。
 いらいらして。
 苦しくて。
 わぁーっと叫びだしたくなって。
 怖くて言えなくて、また苦しくなって。
 気になって。
 この日差しの穏やかな中で、ただ惰眠をむさぼりたいけれど残念ながら眠りには落ちていってくれない。どこにいても同じ。頭の中は同じことがぐるぐるぐるぐる・・・・・・
 思わず、だぁー!!と叫び声を上げてしまいそうになった瞬間。
「バフ!!!」
 大きな犬の鳴き声が聞こえて。
「ぐえっ!」
「こら、マメ!!」
 脱力しきっていた翔の腹に重いものがいきなりのっかかった。
「ゲホッゲホッ!!――――っ」
「大丈夫かぁ?」
 笑いを含んだ声が降ってきた。
「・・・マメ。お前なぁ」
 翔は腹を押さえながら上体を起こして、今腹に乗っかってきた犬――――マメを睨んだ。が、当のマメは気にする気は無いらしく、上機嫌でバウ!と一声啼いた。
 久しぶりの再会に喜んでいるのだろう。
 随分久しぶりなので、覚えていてくれた事に翔の頬がふっと緩む。マメと戯れて遊んだのは何年も前なのに。
 なんと翔も中学生で少し疲れてたそんな時に二人に出会っていた。綾乃の事といい、柴崎夫妻はどうも子供を拾ってしまうクセがあるようだ。翔も綾乃も、柴崎夫妻を互いに知っていることは知らないのに。
 得てして妙な偶然。いやもしかしたら、神様の優しいいたづらなのかもしれない。
「悪いなぁ」
「柴崎さん、悪いと思ってます?」
 全然悪いと思っていない、にやにやと笑う柴崎に翔はちょっと涙の浮かんだ瞳で睨んだ。が、当の柴崎は相変わらずの笑顔である。
「昼寝するんやったらこっちおいでーさ。お昼は食べたんか?」
「・・・まだ、ですけど」
 そういえば昼がまだだった事を思い出した翔は、現金なものだが急に空腹を自覚してしまった。
 どうやら、翔の場合悩みが食欲減退には繋がっていないらしい。
「ほな、おいで」
「バウ!!」
 翔は誘われるままに立ち上がった。一人で落ち着いた場所でゆっくり考えたいと思って来たけれど、結局は考える事を放棄しようとしていたわけだから、ここで柴崎と合流したからってどうってことはない。
 もともと、会いたいと思っていたんだし。一人で悶々と考えるのに、―――――ぶっちゃけ飽きたし。
「おう、翔。来てたのか?」
「はい」
 随分久しぶりなのに、まるで昨日も会ったかのような変わらぬ今日子の態度に翔は心が安心するのを感じて、にっこりと笑った。
「今日子、翔昼まだやねんて」
「そうなのか?弁当の残りで悪いが食べるか?」
 今日子はそう言うと、まだ広げたままである重箱を指した。その中には混ぜご飯や、野菜の炊き合わせ、からあげ、鯖のみそ焼きなどなど、まだたくさん残っていた。
「いいんですか?」
 思わず嬉しそうに声が跳ねる。
「もちろんだ。2人分だというのに作りすぎてしまったんで、食べてくれるとありがたい」
 今日子はそう言うと予備に持って来ておいた箸を渡して、コップに暖かい茶を注いだ。旦那である真吾はボールを投げてマメと遊んでいる。マメは尻尾を千切れんばかりに振って、とても嬉しそうだ。
 そんな光景があちこちに見える。
 翔はそののどかで穏やかな光景を見つめながら、美味しいお弁当を口に頬張った。どうやら自分でも気づかぬうちに結構空腹だったらしい。
 朝は普通にちゃんと食べたつもりだったのだが、やはり人は数時間たてばちゃんとその分お腹が減るものなんだなぁ、と妙な感心をしてみた。
「おお〜食べてるかぁ」
 そこへ真吾が戻って来た。
「ふぁい、すみまふえん」
 両頬を膨らませてペコっと頭を下げる翔に真吾は笑みを浮かべた。
「しっかり食べや。食べな大きくならへん」
 うんうんと今日子も頷く。
「ふぁい―――――あ、マメ」
 翔が食べているのを見て自分も食べたくなったのだろうか、マメは物凄く物欲しそうな瞳で翔を見つめた。そのキラキラ光るつぶらな瞳に翔は思わず箸で掴んでいた卵焼きを差し出そうかとしたのだが。
「こら、マメ!!」
 真吾がグイっとヒモを引っ張って翔の傍から引き剥がした。マメの踏ん張りもものともしない。
「お前はっ。こないだ食べすぎですって言われたばっかりやろ。お前の成長期はもう終了してるねんで!」
 真吾に怒られてマメはふぅーん・・・っと耳を下げた。どうやらちょぴっと出て来たお腹がヤバかったらしい。
 翔はそれじゃあしょうがないな、と差し出すつもりだった卵焼きを口に放り込んだ。
 うん、うまい!!
 あ、ちょっとマメの視線が痛い――――――
「こら!マメっ」
 そんなマメに真吾の軽いゲンコツが落ちる。
「悪いな。気にしないでくれ。マメは先日受けた検診で少々肥満と塩分過多が認められたのでな、真吾が神経を尖らしてるんだ」
「そうなんですか」
 そういえば最近テレビでもそんな番組を時々見るな。犬でも猫でも、痩せすぎ太りすぎは良く無い様だし、ここは心を鬼にしてこの最後のからあげも食べてしまう、と翔はからあげを美味しく頂いて見事にお弁当を空にした。
「ご馳走様でした」
 パンと両手を合わせて言う翔に今日子と真吾はにこにことしたが、マメはちょっと残念そうな顔をした。
 そんなマメの後ろでは、お父さんと子供がキャッチボールをしているのが見えた。
 その光景を見て、思い出した。昔、兄とキャッチボールをした事を。あれは、小学校に入る前だった気がする。
 場所は、どこだったっけ?
「――――どうしたん?」
 真吾が翔の視線の先を知ろうと、首を巡らす。
「小学校に入る前、兄としたなぁって思って。キャッチボール」
「そうなんや?仲良しやってんな」
「そうですね」
 仲が良かったと思う。
 純粋に兄をカッコイイと思えて自慢だったから。
「あの頃、父親は手がけた事業を大きくしようと必死で、土曜も日曜も無かったから」
 兄がいつも一緒だった。
 思い出した―――――俺が泣いたんだ。いつも家にいない父さん。公園で遊ぶ家族連れを見て、泣いた。
 なんで?って泣いた。
 俺もしたいって困らせた。
 その俺にずっと付き合ってくれて、キャッチボールをしてくれた。兄だってまだ小学校に入ったばかりだったのに、家にいない父の代わりをしようとしてくれたんだ。
 いつも甘やかしてくれた気がする。
 ―――――昔から、出来た兄だったなぁ・・・・・・
 なんだかそれがおかしくて翔は、ふっと笑いを浮かべてしまった。
「キャッチボールするか?」
 真吾は翔に言った。
 その申し出は魅力的だったけれど、翔は首を横に振った。なんだかそれは、兄との大切な思い出のように思えたから、そのままにしておきたかった。
 脳裏の浮かぶ、兄の笑顔と強く思えた背中。
 自慢で、憧れた。
 ―――――俺は・・・・・・
 どうしたいんだろう?
「うちの兄、出来た人なんですよねぇ。頭も良いしカッコイイし、すげーモテるし。親も期待しまくり」
 ―――――それが、薫と?
 俺はそれが嫌なのか?
 もし、本気で好きだ、ってそう言われても?
 何が嫌?
 嫌―――――――なのか?
 味方になれないのか?
 兄なのに?
 親友なのに?
「自慢なんやな」
「はい。だから――――――」
 だから?
「だから?」
「・・・完璧でいて欲しいっていうか」
 そうなのか?
 本当に?
「それは可哀相だな」
「今日子っ」
「・・・・・・可哀相?」
 翔は思わず今日子を見た。
「完璧を求められるなんて可哀相だ。完璧な人間なんていない。だから、人なんだ」
 ズキンっと心に響いた。
 わかっていたから。
 でも、じゃあなんでこんなにもやもやするんだろう?
 やっぱり受け入れられないのだろうか?受け入れてあげられないのか?
 兄を?
 薫を?
 たった一人、ずっと味方だった人を?
 親友を?
 俺はそんなに狭量なのか?
 守られるばかりでいいのか?
 助けてくれた人を。
 大切にしてくれた人を。
 目一杯、愛してくれたんじゃないか。
 なのに。
 俺は。
 俺も。
「バフ!!」
 退屈だったのか、マメが吼えた。
「なんやマメ、まだするんかいな?」
 マメがボールを加えて真吾を催促してきた。どうやら、マメより真吾の方が体力は無いらしい。
「あ、俺やってもいいですか?」
「おう、いいで。な、マメ」
「バウゥ!!」
「よし!!」
 翔は勢いよく立ち上がって、駆け出した。
 なんだかもう考えるのは疲れてしまって、とにかく身体を動かしたくなったのだ。身体を動かして、スパっとしてしまいたい。
 そう思ってマメと一緒に翔は走って転げて、遊んだ。
 その光景にホッと胸を撫で下ろしながら真吾は今日子をちらりと見た。
「なんだ?」
「・・・・・・言い方がキツいで」
「ぬるく言ったってしょうがないだろう?」
 そう言うと熱い茶を注いで口に運ぶ。
「俺も」
 差し出したコップに今日子がゆっくりと茶を注ぎ、茶菓子にと持ってきてたらしい茶団子が入った包みを開けた。
「だいたい、翔がここに一人でいるってことはなんか悩み事があるってことだろ?」
「まー、たぶんそうやろなぁ」
 中学生にしては小柄だった翔が、一人でぽつんとベンチに座っていて、真吾が"ジュース飲まない?"と声をかけたのが始まりだった。そのとき実は真吾は、翔の事を小学生かな?と思って迷子なのかと思ったのだ。
 それから、時々この公園で会った。
 悩みを抱えていたのはその時だけで、後は友達と喧嘩して一人の休日だったからとか、テストの結果が悪くて怒られるのから逃げてきたのだとか、たわいもない事が多かった。
 明るくて元気で、男の子らしい子だと思う。
 高校生になる少し前くらいから、そうえいば見なくなった。それはきっと学校が楽しいのだろうと思っていたけれど。
 もう逃げ場が必要じゃなくなったのだろうと思っていたけれど。
「そうえば、綾乃と同い年くらいじゃないのか?」
「ああ、ほんまやな。だーいぶタイプ違うけど」
 そう言って真吾はカラカラと笑った。
「でも、案外友達になれるかもな」
「ふーん。1回引き合わせてみよか?」
 二人がすでに友達である事をまったく知らない今日子と真吾がそんな話をしているとき、翔はマメと足の競って走りあっていた。
 マメの声に翔の笑い声が続く。
 久しぶりに、翔らしい底抜けの明るい顔がそこにあった。












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