綾乃が南條家に帰ってきて2週間が過ぎ去り、3回目の日曜日を迎えていた。
「おはようございます」
「おはよ・・・」
 綾乃は少し赤くなった顔で、傍らにいる雅人の顔を見つめた。
 昨夜は遅くまで雅人との部屋で、この1週間の出来事の話をしていて、まだ見せていなかった中間テストの答案も見せた。週末に薫や翔と一緒になって勉強したのが実を結んだのか、休み明けの実力よりも順位を一つ上げて褒めてもらった。それから間違ってしまった問題を教えてもらったり、翔と今話題になっているゲームの話をしたりして。なんて事のない取り留めのない話をたくさんした。
 いつしかうとうとしてしまって。
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。朝、目が覚めたら綾乃は雅人の腕の中にすっぽりと納まっていて。 顔を上げると、すやすやと眠る雅人の顔。
 あんまりにもビックリしすぎて動けなくて。しばらくの間息を殺してしまった。ちょっとづつ落ち着いて、それでも起きあがったりは出来なくて、雅人の寝顔をじっと見つめていた。それにもだいぶ慣れて、飽きてきて。そーっと腕を動かして、そっと雅人の頬に触れたりもしてみた。
 それだけで胸が跳ね上がってドキドキして、なんとも言えない湧き上がる思いをかみ締めてしばしば。雅人の瞳がゆっくりと開いた。
 そして今。上半身を起こした綾乃に、まだ身体を横たえている雅人という今の状況。
「もう、起きなきゃ」
 綾乃はどきまぎしながら言って、ベッドから降りようと少し腰を浮かせると、雅人の腕が伸びてきた。その身体を捕らえる。
「まだいいじゃありませんか」
 日曜の朝、9時。起き出すにはまだ早いように思える雅人。
「だめだよ。今日は雪人君と約束があるんだから」
 後ろから抱きしめられて、綾乃は少し困った様に身体をひねる。
「また雪人ですか?・・・綾乃は私と雪人とどっちが好きなんでしょうね」
「っ、雅人さん!?」
 そんな比べられるはずもないことを意地悪く言う雅人に、綾乃は眉を八の字にさせて雅人をみつめる。
 どっちもとっても大切で、そんな事選べるはずもないのに。
 そんな思いでじとっと綾乃が雅人を見つめていると、雅人が身体を起してきて。
「っ!――――ふ・・っ、んん」
 唐突に口を塞がれてしまった。軽く舌まで差し入れられて、驚きに綾乃は雅人の肩を掴む。
「ふふ」
「まさとさ、・・・ふぅ・・、っ・・・・」
 離れたと思ったらまた落ちてきて、しっとりとまた口を塞がれる。今度は先ほどよりも深く入ってきて、逃げる舌を絡めとられる。軽く吸い上げられて、背中がビクンっと反応してしまう。
「だめ・・・」
 綾乃は雅人の肩を掴んでいた手に力を入れて、引き剥がそうとがんばってみる。
「なんでです?」
「だって――――まだ、朝なのに・・・」
「だからおはようのキスでしょう?」
 真っ赤になって困っている綾乃がかわいいらしく、さらに困らせようと今度は赤く染まった耳に軽くキスを落としてくる。
「もう、起きなきゃ」
 逃げようとするから、腰に回した腕にさらに力が入って抱き寄せてしまう。
「もう少し」
「雅人さんっ」
「だって、今日の夜も仕事だから。この時間しかこうやっていられるのはないんですよ?」
 日曜はできるだけ休みにするようにスケジュールを合わせてはいるのだが、今日だけはどうしてもはずせないパーティーがあって、帰りは遅くなる事はわかっている。
 それは、どうしたって楽しいパーティーなんかではなくて、どうせまたどこぞの娘さんでも紹介されて、適当に会話を重ねなくてはいけなくなることはわかっている。それが苦痛だなんて思ったことはなかったのに、綾乃を好きになって、こんな優しい甘い時間を重ねるたびに、苦痛で鬱陶しくなっている自分がいるのだ。
「パーティー・・・?」
「ええ、どこだったかとどこだったかが提携を結んだ祝いのパーティーとかでしたね。まぁ、お披露目兼ねた力見せってところでしょう」
 雅人は本当に面倒くさそうに言うのに、綾乃はきゅっと雅人の服の袖を掴んだ。
「綾乃?」
「・・・・・っ」
 雅人はどうしたのだろうか、ちょっと俯いてしまった綾乃の顔を覗きこむ。綾乃は、ちょっと唇を噛んでいた。
「あやの?どうしたんですか?」
 急にこんな顔をするのが、何がどうしたのかわからない。雅人は安心させるように髪を梳いて、なんどもキスをしてやる。そして、頬に手をやって顔をあげさせる。
 何か言いたい事があるのに、我慢している顔。
「言わないとこのまま押し倒しちゃいますよ?」
 わざと軽く言うと、少しこわばっていた綾乃の顔がふにゃりと崩れて、赤くなりながら困ったような笑顔を広がった。
「なんでも、ないんです。・・・くだらない事なんです」
「ええ。で?」
「パーティーだから・・・綺麗な女の人もいっぱい来るのかなぁ、って。きっと雅人さんと並ぶと絵になるんだろうなぁーって・・・・」
 ちょっと嫌だなぁーって・・・。最後に呟かれた小さな小さな言葉。その言葉が雅人の耳に入って、頭の中を駆け巡った。
 うれしくいて。うれしくて。――――うれしくて。
 雅人はぎゅーっと強い力で綾乃を抱きしめる。
「妬いてくれるんですね。――――うれしい」
「うれしい?」
「はい」
 綾乃がちょっと首を傾げると、本当にうれしそうな笑みを浮かべた雅人は綾乃をさらに抱き寄せて、またほっぺにキスを落としていく。
「私はいつも雪人に妬いてますよ。樋口君にも朝比奈君にも、松岡にも」
「え!?・・・なんで?」
「綾乃が笑顔を向ける相手には誰でも妬けるんです。それに、――――わたしとより彼らとの方が長い時間一緒にいるし」
「そんな事」
 あまりに的外れなやきもちに、綾乃は思わず笑ってしまう。
「パーティーなんて行かないで、綾乃と1日こうしていたい」
 雅人がそう言って、綾乃にもう1度キスをしようと近づいて行ったそのぎりぎりまで行った時、廊下をドタバタと走り回る音が響いてきた。
「――――あ・・・」
 どうやら雪人が起きだしてしまったらしい。その音に甘い夢から覚めてしまったのか、今の状況を雪人に見られるわけにはいかないと思ったのか、綾乃は慌てて雅人の腕から抜け出して。
 今度こそ雅人の引き止める暇もなくて。綾乃は雪人に見つけられる前にそっと身体を廊下へと滑り出してしまった。
 後には悔しそうに歯噛みする雅人だけがベッドの上に取り残されたのだった。





「では、こちらがお土産の和菓子になっていますから、よろしくお伝えください」
 玄関先、今から出かける綾乃と雪人に松岡はお手製の和菓子の袋を綾乃に渡した。
「はい。ありがとうございます」
「やはり、車で送りますよ?」
 まだ出かけるには時間のあるらしい雅人が、心配気な顔で二人を見つめる。さっきその申し出は却下されたばかりなのに、どうも諦めきれないらしい。
「電車で行くからいいってば。たまには電車乗らないと、乗り方忘れちゃうよ」
 綾乃はまったく取り合わずに却下して、雪人の手を握る。
「そーだよ〜」
 雪人はどちらかという、ただ綾乃の味方をしているだけの相づち。その下に、ちょっと雅人への対抗心も見え隠れしてはいるが。綾乃はそんな事は気付かないで、にこりと雪人を見て笑う。
「行こうっか」
「うん。いってきます」
 にっこりと雪人が頷いて、笑顔で見送る松岡と、心配そうな顔の雅人に見送られて、綾乃と雪人は南條家を出発した。
 その姿をずーっと玄関から見送って、姿が見えなくなった頃松岡はしみじみとため息をついた。
「雅人様心配しすぎです」
「だって松岡。綾乃は電車に乗るときに嫌な思いをしたんですよ?――――また何かあったらどうするんです」
「雪人様もご一緒なんですから」
 その一言が余計だった。
 それでなくても不満なのに、松岡の言葉に雅人は思いっきり不満そうにして、少し早足でリビングへと戻っていく。その子供っぽい仕草に、その背中を眺めて松岡はもう1度深くため息をついたのだった。










「雪人君大丈夫?」
 綾乃は傍らに立つ雪人に声をかけた。あの時は無我夢中で電車を乗り継いでここまで来たけれど、改めてきてみてその遠さにびっくりした。
 電車の中でうとうとしていた雪人が、疲れてしまったのではないかと綾乃は心配になったのだ。
「大丈夫だよ!!」
 でも雪人は元気に声をあげて歩き出した。そんな態度に笑顔を浮かべて、雪人にひっぱられるようにして綾乃は一歩を踏み出した。
 雪人は雪人で、最近知らされた綾乃のいない間の真相に思うところがあるらしい。細かい事は伏せていたけれど、叔母の事など色々あってしばらく家出してしまっていたのだという事に、少なからず雪人はショックだったようだ。
 話してしまう事に綾乃は反対したのだが、雪人も家族なのだから秘密にしないでちゃんと分け合わなければという雅人の言葉に綾乃は折れた。松岡も直人もその意見に賛成したからだ。
 そして今日、柴崎家に行くという綾乃に、雪人は付いて行きたいと言い出したのだ。
 たった6日ほどいただけのこの町のこの風景が、懐かしかった。
 真吾と出会った公園の横を通って、ゆるいくだり坂を歩いていく。途中階段を1度下りて、右に曲がる。そしてまっすぐに歩いて。
「・・・ん?どうしたの?」
 道もわからないはずなのに何故か綾乃を引っ張るように歩く雪人が、時折不安そうに綾乃を振り返る。
「ううんっ」
 少し慌てたように雪人はぶんぶんと首を振って、また前を向き直る。そんなことを何回か繰り返した後。
「ここだよ」
 たった2週間しかたっていない。変わるはずのない風景を綾乃を見上げた。
 ワン!!
 マメが大きな声で綾乃を見つめて鳴いた。その瞳がちょっとキラキラ輝いているような気がする。
「わんわんだぁー!!」
「マメだよ」
「マメェーっ」
 綾乃の想像通り雪人はマメを見るなりすっごくうれしそうな顔をして、玄関の格子にピタっと張り付いた。
 マメも嬉しそうにしっぽを振って吠えている。
 綾乃は、ひとつ深呼吸をしてチャイムを押そうと手を伸ばす――――
「マメ、何吠えてるん?――――うわぁ、綾ちゃん!!」
 後1cmで押す、というところまで手を伸ばしたところで、唐突に開かれた扉に綾乃はそのままの姿勢で固まってしまった。
「あ・・・・こん、にちは」
 少し緊張にぎこちない笑顔になる。
「うわぁ、遊びに来てくれたん?」
「はい」
 真吾はうれしそうに急いで格子を開ける。するとマメがリードがいっぱいいっぱいピンと張られるまで綾乃に近づいてくる。
「この子は?」
「雪人くんです。雅人さんの弟」
「へぇーえらい可愛い子やん。この子と彼はなんや結びつかへんけどなぁー。そうなんやぁー。この子も育つとああなるんかなぁーな〜んや、勿体ないなぁー」
「・・・真吾さん?」
 かわいいかわいいと雪人の頭をぐりぐりとなでる真吾の態度もそうだが、その言葉に綾乃はつっこむ言葉を若干失い気味だ。
 雪人も何がなにやら分からない様子で、されるがままに立ち尽くしている。
「ああ、玄関先でごめんな。入って入って」
 真吾は綾乃と雪人を中へと招き入れる。それをマメが寂しそうにクゥーと鳴いて見送った。どうやらまだ自分とは遊んでくれないらしいと落ち込んでいるらしい。
「後でね、マメ」
 なんだかたれーっと垂れた尻尾がかわいそうで、綾乃は思わずマメの頭を撫でると、マメはうれしそうにその手に頭をこすり付けてくる。
「僕も、僕もっ」
 雪人が同じように真似をすると、マメはどうやらこの新しい人を気に入ったらしい。うれしさにその手をペロっと舐めて来て、ちょっとびっくりした雪人は慌てて手を引っ込めてしまった。
 そんな様子に綾乃はクスクス笑って、部屋へと上がった。
「これ、お土産です。和菓子って言ってたので早めにどうぞ」
 綾乃は松岡に言われた言葉をちゃんを復唱しながら、紙袋を差し出した。
「うわぁ、ご丁寧にどうも」
 真吾は紙袋をちらりと覗いてからキッチンへと消え、その奥から声を飛ばしてきた。
「今日はゆっくりしていけるん?」
「あ、はい。お邪魔じゃなかったら」
「邪魔なわけないやん。なんやったら泊まっていって――――うわぁーきれぇやなぁ。これ、もしかして手作り?」
「はい。松岡さんが」
 勝手知ったるというところか、綾乃はキッチンに顔を覗かせる。
「うわぁーぎょうさんあるやん。一緒にお茶しよ、お茶」
 真吾はココア急遽なおして、あったかい日本茶の用意をしながら、にこりと笑う。
「聞きたい事もいっぱいあるんよ」
 その笑みがちょっと意味深で、綾乃は雪人にちらりと視線を向けてから、乾いた笑いを漏らした。そんな綾乃の反応に、おもしろそうに真吾も笑った。
「今日子さんは?」
「あー今釜の方におるわ。でも、夕方には終わる言うてたか、夕飯は一緒に食べれるかも。食べてくやろ?」
「いいんですか?」
 でかけに松岡には夕飯を尋ねられて、家で食べると答えてしまった。まさか、そんなに長居しても悪いだろうと思っていたからなのだが。
「雪ちゃんもええよね?」
「うんっ」
 雪人にしては珍しくいつもと違う場所で、しかもどうも二人以上でご飯が食べれそうな感じがうれしいらしく、元気良く頷いた。
 さっきのそわそわした感じも影を潜めている。雪人も少し緊張していたのか、それとも何か思うところがあったのが、少しクリアになったのだろうか。本来の雪人らしい笑顔が覗く。
「じゃぁー松岡さんに電話しないと。真吾さん、電話お借りしても?」
 そんな雪人に綾乃も内心ホッとして、自然と笑みが広がる。
「ああ、ええよ」
 わぁーいとうれしそうな雪人の声を背中に聞きながら、綾乃は松岡に電話をかけ始めた。








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