幸せな日常・・・前


 一月のある朝。
「ゴホッ・・・」
 朝、歯を磨き終わった時に綾乃はひとつ小さな咳をした。
 たぶん水がちょっと変に喉が絡まった感じがしたので、咳というよりはむせた感じだろうかと綾乃は思って、別に対して意識もしないでそのまま口をゆすいで洗面所を後にした。
 ぱたぱたと廊下を歩いて、ダイニングに顔を覗かせる。
「綾乃、今咳をしませんでしたか?」
 それなのに、ダイニングで綾乃を待っていた雅人が、綾乃を見るなり顔を曇らせて尋ねた。
「え、咳っていうかむせただけですよ」
 小さな咳をひとつしただけなのに、一体雅人はどんな耳をしているのかと綾乃は思わず驚いてしまう。
 綾乃はテーブルに置かれた自分のコップに残るお茶を飲み干して、椅子の背に置いてあった制服のブレザーに手をかける。
「昨夜も2度ほど咳をしていましたね?」
 雪人や綾乃が食べ終えた朝食の皿を片付けながら、松岡が口を挟んだ。
「そうなんですか!?」
 それは知らなかったと、にわかに雅人の顔が険しくなった。
 綾乃にしてみれば、そうだっただろうか?程度の話なのだが、雅人にはそれでは済まされない様だ。
「風邪なんじゃないですか?熱は測りましたか?今日は学校を休みますか?」
「え・・・っ、え?」
 矢継ぎ早に言われるその言葉に綾乃は一瞬言葉を失くしてしまった。だって、咳を2,3回したくらいで学校を休むはずもないし、そんな話を聞いたこともない。第一そんな事で休んでいたら、一年の3分の1くらいは休まなくてはいけなくなるのではないだろうか。
「風邪じゃないよ。全然大丈夫」
 綾乃は慌てて首を横に振った。確かに、今日は体育があって休みたい気分は満々なのだが、だからといってここで休みますと言える綾乃ではない。
「そうですか・・・」
 雅人は少し不安そうな、不満そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず黙って綾乃がブレザーを羽織るのを手伝ってやる。
「でも・・・ひき始めかもしれませんし・・・」
 やはり黙っていられなかったらしい。心配そうに言葉を呟く。そんな雅人に綾乃ばかりか松岡も苦笑を浮かべる。
「お二人ともそろそろ出ませんと、遅刻ですよ」
「あっ、はいっ」
 松岡にそう言われて見上げた時計は確かにやばい時間を指し示していた。綾乃は慌てて鞄とコートを手に持つと玄関へと向かい、その後ろを雅人が追った。
 今日は午前中に学園に寄ってから別の仕事に向かう予定になっているので、朝は一緒に車で登校するのだ。最近は出来るだけ一緒に登校するように雅人は心がけていた。
 玄関を開けると、そこには既に車が止まっていて、綾乃と雅人の姿を認めると助手席の扉がスッと開けられ、久保が降り立った。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
 久保は一礼するとサッと後部座席の扉を開けた。雅人が先に乗り込んで奥へと入る。それに続いて綾乃は慌てて車に乗り込んだ。何度この朝を重ねても、扉を開けられて中へ乗り込むという行為が綾乃には慣れないのだ。
「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
 松岡の一礼に綾乃が返事を返すと、すばやく車の扉は閉められて静かに滑り出した。車が門をくぐるまで松岡は玄関先に立って見送る。
 ――――朝から緊張する・・・
 こんな毎朝に、綾乃はこっそりとため息をついている日々だ。
 そんな風景が南條家の日常なのだが、この風景に綾乃がしっかり溶け込むまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。
 車の中では何を話すでもなくぼーっとしながら綾乃は車に揺られていた。車内は程よくあたたかくて、振動が眠りを誘うから、いつもうとうとしてしまう。
 朝の緊張が少し緩む上に、朝ごはんでお腹も膨れているのだから仕方がない。
「綾乃、着きましたよ」
 綾乃は雅人に肩をゆるく揺すられて、はっと目を醒ました。すっかり雅人にもたれてかかって眠ってしまっていたのだ。
「あ、ごめん・・・」
「何も謝る事はありませんよ?」
 少し恥ずかしげに慌てた綾乃に、雅人はくすくすと笑いを漏らした。綾乃のこの重みに、雅人は密かな幸せの重さを感じているのだから謝られる事はまったくない。
「今日は、帰りはまっすぐに帰ってくださいね」
「はい」
「車を迎えに来させましょうか?」
「大丈夫ですよっ」
 本当に、咳を2,3回しただけなのに心配しすぎなのだ。
「じゃぁ、いってきます」
 綾乃は少し飽きれて、けれどそんな心配も嬉しくて、少し耳を赤らめながら車から降りた。小さく手を振ってドアを閉める。雅人はもう少し奥の専用の場所に車を止めるからここでお別れなのだ。
 綾乃は助手席に座る久保にもペコっと頭を下げて、ぱたぱたと小走りで昇降口へと向かった。急がないと遅刻ぎりぎりな時間なのだ。
 そんな綾乃の背中を見送って、その姿が雅人の視界から消えるまで車はじっとそこに止まっていた。




 綾乃はといえば、チャイム前に無事に滑り込んで遅刻を免れて、朝から淡々と授業をこなしていた。2限目の数学の時間に先日の小テストが帰ってきて、それが100点だったのがちょっと嬉しかったりもした。それはちょうど、その前に雅人に教えてもらっていた辺りだったから。
 もし雅人が早く帰ってきたら見せよう、そんなふうに思って大事に鞄にしまった。
 そして4限目は体育の授業。今日は持久走ということで、グラウンドを何週も走らされる事になりそうだった。
「はぁーやだやだっ」
 体育と聞けば喜びそうな翔が憂鬱そうな顔でため息をつきながら、着替えだした。
「なんで?体育だよ?」
「俺は持久走って嫌いなんだよなぁー。だってさ、ただ延々走るだけって何がおもしろいの?」
 ―――なるほど。
 どうやら翔は持久戦なモノは苦手らしい。しかも飽きっぽい性格の所為か、同じ作業を繰り返すというのがおもしろくないのだろう。
「そう?僕は好きだけど」
「薫はああいうの得意だもんな」 
「うん。自分のペース配分で計算しながら走れるし。持久力と、いかに集中力を持続するかの問題だしねぇ」
 これは薫らしい意見と言えて、絶対的に翔には苦手な分野だといえる。
「僕はどっちも嫌いだけどね・・・」
 綾乃の一言に二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。ここまで徹底的に体育が苦手だと、フォローのしようもなく、そのダメっぷりは面白いという域にきているようだ。
「笑わなくてもいいじゃんっ」
「綾乃は体力がないのかなぁー。集中力はあると思うんだけど」
「短距離でも長距離でも足遅いもんな」
「うるさいっ」
 微かな薫のフォローが翔がすっかりダメにしてしまい、綾乃は思わずプンとふくれっ面を作った。そして半ば自棄気味な態度で体操服へと着替える。寒い冬なので、今は半そでを着た上から紺色のジャージを着る。
 ――――あ、メールだ・・・
 着替えを終えて教室を出る前に鞄を見ると、雅人に買ってもらった携帯の着信ランプが点滅していた。
"体育の授業は暖かい格好で。しんどいようなら無理しないで休んでくださいね"
 雅人からのメール。朝の咳をまだ心配しているらしくて綾乃はくすりと笑みを漏らす。
"大丈夫。持久走は嫌だけどがんばってきます"
 綾乃は慌てて返信文を作って送信を押した。もしかしたら返事が来るかもと、時計を見ながら少し待って見ると、やはりすぐに返事が送られてきた。
"持久走は喉にきますから心配です。今から仕事で出かけますが、しんどくなったら無理せず早退する事"
 ――――だから、心配しすぎだってば。
「綾乃、そろそろ行かないとっ」
「あ、うんっ」
"わかりました。雅人さんもお仕事がんばってね"
 綾乃は薫の声に慌ててそれだけを送信すると、鞄に携帯を仕舞いなおして駆け足で教室を後にした。
 綾乃と薫がグラウンドに駆け出ると同時に、4限目の授業の開始を告げるチャイムが鳴る。
 そんな様子を雅人は理事長室の窓から見下ろしていた。
 たくさんの生徒の中でも、綾乃の姿はすぐにわかる。目に飛び込んで来るのだ。どうしてこんなにも他の子供たちと違って見えるのか、雅人にも驚くほどに。
「綾乃様ですか?」
 久保が声をかけると、その久保に視線もよこさないで雅人は頷いた。
「風邪気味のようだったから、休めばどうですかと言ったのに」
 こんな寒い日にTシャツにジャージでは寒くて、さらに風邪を引き込むのではないかと心配になってしまう。来年からはもっと厚手のジャージに切り替えようかと真剣に悩んでしまうのは、理事長という立場よりも、綾乃の恋人という立場が優先された思いだろうか。
「咳を2,3度されただけなんですよね?大丈夫でしょう」
「何を言ってる。綾乃はあんなにも華奢なのにっ」
 久保の、まぁ一般的な発言に雅人はきっぱりと否定の言葉を返す。
 グラウンドでは準備運動を兼ねたラジオ体操が始まっていた。少し寒そうにしている様に見えてしまうのは、本当に気のせいだろうか。
「雅人様、そろそろ出ませんとクーキードコーポレーションとの会食に間に合いません」
「ああ、わかってる」
 そう返事はしたものの、やはり雅人の視線はグラウンドに注がれたままになっている。
「雅人様」
「わかってる」
 それでも雅人はまだ動けない。
「・・・雅人様!!」
 このままではラチがあかないと、久保は窓ガラスに張り付く雅人の腕を強引に引っ張って、その身体を窓際から引き離そうとする。
「わかってる。お前はうるさい」
「これは大切な会食なんですよ!いいですか?佐久間グループを牽制するためにも、クーキードとの関係を繋いでおくことはですね、この南條グループにとっては・・・」
「あーもうわかった!」
 くどくどと始まりそうな久保の話を雅人は強引に遮断して。とうとう観念したようにコートを手に持って窓からその身体を離した。
 グラウンドではちょうど今から持久走が開始されるようで、全員がスタートラインに集まっている。
 一体何周くらい走るのか、どれくらいの間綾乃は走ることになるのかわからなくて、心配だけが募るのだが、久保の言うようにいつまでもここで見守っているわけにはいかない。
 自分には自分の仕事が待っている。
 それでも雅人はなんだか後ろ髪を引かれる思いで、理事長室を後にしたのだった。










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