希望と想いと嫉妬と不安 10




 試験休みの綾乃は、それでも朝はきっちと起きていた。明日はとりあえず終業式だから、まだ制服もクリーニングには出していないし、雪人も学校へ行くので、どうも夏休み気分にもなれず朝寝坊もしていなかった。
「おはよう、雪人くん」
 昨日あのままになってしまった雪人に、洗面所で綾乃は笑顔で声をかける。その綾乃はすでに顔も洗って着替えもすませていた。
「後ろ、寝癖ついてるよ」
「・・・どこ?」
 少しバツの悪い雪人はおはようが言えなくて、もごっと口ごもりながら言う。
「んー、ここ」
 綾乃はそう言って手を少し濡らして、雪人の寝癖を取ってやる。
「はい、いいよ」
「ありがと」
「どういたしまして。朝ごはん出来たって」
「呼びに来てくれた?」
「うん。行こう?」
 いつもの時間になっても洗面所から出てこない雪人を、綾乃は呼びにきていたのだ。一方雪人も、なんとなくバツが悪くて洗面所から出るに出れないでいた。
「ん。・・・お腹減っちゃった」
「僕も」
 昨日、夕飯途中で投げ出した雪人は実はとってもお腹が減っていた。夜、何か持ってきましょうか?と言ってくれた松岡の言葉に、いらない!と言い返したことを随分後悔したのだ。
 雪人は少しほっとした気持ちで綾乃について、ダイニングへ行った。
「あ、雅人さん。おはようございます」
 そこには、すでにコーヒーに口をつけている雅人がいた。
「おはようございます。雪人、おはよう」
「おはようございますっ」
「さ、早く食べないと遅刻ですよ」
「はい」
 いつも通りの松岡の言葉に雪人は肩の力を少し抜く事が出来て、いつも通りの満面の笑みとまではいかなくても、その顔にはさっきまでの緊張の色は取れていた。
「おいしそうっ。いただきます」
「いただいますっ」
 和食の朝食は、白いご飯にワカメと薄上げの味噌汁。厚い鮭に、小松菜の胡麻和え。小さな器には納豆と、卵豆腐というメニュー。
 卵豆腐は雪人の好きなものだった。
 綾乃はそれを松岡が出してくれた事が嬉しくて、雅人はその松岡の気遣いに一定の光を見出そうとしていた。
「綾乃、アメリカに行く話聞きましたよ」
「え、あ・・・うん」
 せっかくなごみ出した場にいきなりその話題で、綾乃の頬が思わず引き攣った。
「パスポートの手配はこちらでしますから、出来たら引き取りに行って下さいね。その時はまた言いますが」
「うん・・・」
 穏やかな笑みを浮かべて綾乃を見つめていた雅人の瞳が動いて、少し暗い顔付きになってしまった雪人に止まる。
「雪人、今回は聞き分けでくださいね」
「ん・・・」
 せっかくの卵豆腐を、まるで苦いものでもあるかのような顔をして食べながら頷いた雪人に綾乃の視線が痛々しいものになる。
 抱きしめてあげたくなる。
 雪人は怒ってるんじゃなくて、寂しいのだ。
「その代わりといってはなんですが」
「?」
「・・・え」
 続いた言葉に、2人の視線が綾乃に向かう。
「年末年始のお休みはみんなでどこかへ行きましょうね」
「・・・ほんと!?」
 反応が早かったのは、綾乃だった。
「はい。どうですか?雪人」
「・・・行く!行くーっ!!ホントに!?ホントに?雅人兄様っ」
「ええ。綾乃もパスポートを取ることですし、海外にしましょうか。雪人のパスポートは確かまだ期限がありましたよね?」
「わかんない」
「―――調べておきます」
 雅人のこの提案は松岡には意外なものだったのだろう。滅多に表情を崩したりしないその顔は、驚きから立ち直れていないらしい。
 視線で、"大丈夫なんですか?"と問いかけてみても、雅人はただ微笑むのみだった。
「やったぁーっ!!雅人兄様ありがとうっ!!」
「いいえ。その代わり、2学期もちゃんと勉強しなきゃいけませんよ?」
「うん、する。ちゃんとするよー」
「楽しみだね、雪人くん」
「うん!!ねぇ、どこ行くの?」
 雪人が本当に嬉しそうに笑って、雅人に迫る。それはもういてもたってもいられない、日にちも差し迫っているかのようだ。
 その姿を綾乃も雅人も、嬉しくもありながら切ない気持ちも抱きつつ受け止めていた。
「そうですね、まだ日がありますからゆっくり決めましょう」
「うん」
「近いうちにいくつか候補を挙げてみましょうね」
「うん!!」
「雪人様、落ち着いて。ご飯を食べてください」
「あ、はいっ」
 すっかりはしゃいでしまった雪人は、実はそろそろ時間が無い。残りのご飯を、その空腹の勢いと一気に浮上した機嫌の勢いに任せて、大急ぎで口に運んだ。
「ちゃんと噛んで」
「って、むぐ・・・んたら・・・んぐ・・・、遅刻しちゃ・・・んん」
 どうやらすっかり元気になってくれたらしい。
 綾乃はほっと胸を撫で下ろしながら横目で雅人を盗み見みて、ありがとうって気持ちをいっぱいこめてにっこり笑った。
 ―――――本当に良かった。
「あ、そうそう。今日道場に行ってきて、雪人くんも一緒する事で挨拶してくるからね」
「うん!!」
「え、今日も行くんですか?」
「え、うん。ちゃんとお願いしますって言って来て無いし」
 ―――――あれ・・・?
「綾ちゃんお願いね」
「うん」
「じゃあ、行って来ます。あ、ご馳走様でしたっ」
 最後はどう見ても掻きこんで、口を目一杯にもぐもぐさせながら雪人は立ち上がる。
「いってらっしゃい」
 そのままばたばたと廊下を駆けていく雪人を、やはりお小言を言いながら追いかけていく松岡の後ろを綾乃も見送りのためについて行く。
 そのまま、玄関を飛び出した雪人を綾乃と松岡はここのところの毎日の見送りをして送り出した。
 そうしてからダイニングに戻ると。
 ―――――あれあれ?
「雅人さん?」
 なんか新聞がぐしゃってなってる気がするそれを認めて、綾乃はとりあえず雅人に声をかけてみる。
「なんでしょう?」
 ―――――・・・?なんか、あった?って、何が?
「なんか、その・・・」
 さっきと違う?と言うのもなんだか違う気がするし、機嫌悪い?と聞いていいのかそれとも、何かあった?
 でも、何もあるはず無いしなぁ。
「雅人様、珈琲のおかわりはいかがですか?」
「いただきます」
 なんだか全然よくわからない綾乃は、もういいやと途中だったご飯を再開しだす。昨日色々あって、心配で夕飯があんまり食べられなかったのは綾乃も同じで、お腹は減っている。
 厚切りの鮭を口に入れて、あったかいご飯を噛めばそれだけでもうかなり幸せ気分だ。
「今日」
「むぐ?」
 納豆を口に入れた途端しゃべりかけられて、糸を慌てて切りながら綾乃が首を傾げる。
「何時ごろいくんですか?」
「っん――――何が?」
 お味噌汁をすすって、ねばねばを遮断する。
「道場です」
「あー、たぶんお昼過ぎかな」
「ああではスイカでも買っておきましょうか」
 雪人の食べた皿を片付けながら松岡が口を挟んだ。
「スイカですか?」
「手土産に」
「ええ?いいですよそんなの」
「そうですか?」
「はい。それにスイカはちょっと重いかも」
「それはタクシーで行けばいいんですよ」
 バサっと新聞を、少々荒い仕草で雅人が畳む。
「タクシー!?勿体無い。自転車でもあればいいんだけど・・・」
「自転車なんて危ないもの乗らなくていいです」
「危ないって・・・」
 なんて大げさなと呟きながら綾乃は卵豆腐をつるんと口に入れた。
 その綾乃の態度に雅人のこめかみがピクっと動くのだが、残念ながら綾乃がそれに気づく事は無い。
「雅人様、そろそろ」
 2杯目の珈琲を喉に流し込んだ雅人に松岡が声をかける。そのタイミングをまるで待っていたかのように、チャイムが鳴ってどうやら久保が到着したようだ。
「綾乃、くれぐれも気をつけて行ってくださいね」
「初めて行くんじゃないんだし、電車で行くから大丈夫」
 くれぐれも、に力を入れてみた雅人なのだが。
「道中もそうですが、向こうでも」
「向こうでもって道場?」
「はい」
 チャイムが、再び鳴る。
「それこそ挨拶だけだよ?危ない事なんか何も無いよ。それより雅人さん、急がないと」
 綾乃はそう言って笑うと、今度は雅人を見送るために立ち上がった。
 その雅人はまるで歯噛みでもしそうな感じなのだが、綾乃には"心配性だよー"くらいの物凄い軽い気持ちしか無い。
 その綾乃に言い聞かせる時間は残念ながら無い。久保が今にも3度目のチャイムを鳴らしそうだし、松岡もその視線で急かしている。
 雅人はいつもと違う足取りで廊下を歩き、迎えた久保を無関係なのに威圧しながら車に乗り込んだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 笑顔の綾乃に不機嫌を隠しきれない雅人。そして無表情を装った松岡に、瞬時に悟った久保の小さなため息。
 朝の見送りは、空も勘弁してくれとげんなりするほどのぐちゃまぜ空気のままで終わった。












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