希望と想いと嫉妬と不安 11
「なんだか申し訳ありません」 道場主であり師範の誠一がお茶を差し出しながら綾乃に頭を下げる。 「いえ、全然。良かったら子供たちにも・・・って足りるかな?」 綾乃はそんな誠一に逆に恐縮しながら、松岡が持たせた菓子折り―――スイカから菓子折りになったらしい――――を再度誠一の方へと押した。 「ありがたく頂戴いたします」 そんな2人の周りには珍しく誰もいない。 「なんかすいません。もしかして今日お休みですか?」 「いえ、大丈夫ですよ。今日は孝次はバイトがあるとかで休みで、健二はなんだったか?ああ、塾だったか・・・」 「えーコバケンって塾とか行ってるんだっ」 知らなかった・・・と、ショック気味に呟く綾乃に誠一は穏やか笑みを浮かべながら見つめる。 「なんでも期末テストがいつも通りだったらしくて」 「いつも通りじゃあダメなんですか?」 「どうやら現状からアップを狙ってるらしいですね」 「そうなんだ・・・やっぱりコバケンも大学行くのかな」 コバケンまでもがそうなのか・・・と、綾乃は改めて気持ちが沈んだ。夏休みはみんなにとって、そういう季節なんだろうか。 「そう聞いてますよ。夏川くんは違うんですか?」 人のいない道場はシンと静まって、ただ開け放たれた大きな窓から蝉の鳴く音だけが聞こえてくる。 「僕は・・・、まだ進路は悩み中で」 「そうですか」 「――――あの」 「はい?」 「下田さんは・・・、どうしてここを?」 いつ、空手の師範になって道場をしようなんて決めたのだろうと、そう歳もいっていなく見える誠一がどう考えたのか興味が沸いた。 みんな、どうやって将来の夢を見つけるんだろう? 「私は、子供の頃から空手をやってましてね」 「はい」 「これでも関東大会で優勝した経験もあるんですよ。全日本の大会でも2位に入りました」 「へぇーっ、凄い!!」 なんだか柔和そうな空気からはまったくそんな風に見えなくて、綾乃は素で驚いてしまった。 「もっと、大きな――――世界大会に出る夢もありました。自分が望めば、きっと手に入ると思っていました」 誠一はそう言うと立ち上がって、縁側に立ち外を見つめた。 「世界一にだってなれる。そんな風に――――――――若かったんですよね」 「下田さん・・・」 風が、道場内を駆け巡った。 「よくある話です。バイクで事故を起こして、あっけなく夢は絶たれました。リハビリを余儀なくされて絶望に打ちひしがれました。まるで全てを失ったかの様に。全てを失くしたかの様に思って」 淡々と語られる口調に、綾乃は言葉を挟めなかった。 そんな事が語られるなんて、予想も、想像もしていなかったから。 「そこから私を救ってくれたのは、やはり空手でした。もう1度空手をやりたいって気持ちでした。・・・元々ここをやっていた人で、私が当時所属していたチームに時々教えに来ていたおじいちゃんだったんですけどね。その人が、ここを継いでくれないかって言ってくれて」 振り向いた誠一の顔は、さっきと何も変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。 「子供たちに救われました」 「――――はい」 「だから、成り行きですね?」 そう言っておかしそうに笑う誠一に、綾乃はこんな風に笑えるまでどんな思いで来たのだろうと考えて、そんな事が自分の考えで及ぶはずもないと思い直した。 ―――――人って・・・・・・ 「ありがとうございました。聞かせてくださって」 ―――――わかんないもんだなぁ・・・ 「いいえ。夏川くんの悩みに少しでも役立ってくれているといいのですが」 「・・・はい」 「悩む事はいい事ですよ。でも、時には頭を真っ白にしなくては。どうです?ちょっと空手やってみませんか?」 「え?」 「誰もいませんし、少し教えてあげますよ。さ、立って」 ―――――えぇ!?空手!? 誠一はそう言うと、さっさと湯飲みを片付けてしまう。 「さぁ立って」 「は、はい」 結構です、とはとても言える感じじゃなくて、さらには言うタイミングさえなくて綾乃は言われるままに立ち上がった。 「立ち方は、そうです。もう少し足を広げて――――そうです。ああ、肩の力はもっと抜いて。いいですね」 綾乃は言われるままに足を広げ、肩からほどよく力を抜く事に成功させながら立った。その綾乃に、うんうんと誠一は頷きながら半歩前に立ち。 「いいですか。まず手技。やぁーっ!!」 誠一が声とともに、右手を前に繰り出す。その揺らがない背筋と、真っ直ぐ伸びる腕。それがとても、綺麗に映った。 「さぁ、やってみてください」 「はい。――――やぁーっ」 綾乃が見よう見真似で腕を繰り出す。 「声が小さい。もう1回」 「っ、やぁーっ!」 「その調子」 「やぁーっ!」 ぐっと握り締めた拳を交互に前を繰り出す。 「続けて」 「やぁーっ!」 その腕が下がれば誠一が上げ、背中がぶれれば治された。 いつ頃からか。始めは気恥ずかしさが先に立っていた綾乃が、いつの間にか声を出して腕を出す、ただその行為にだけ集中し、何も考えないでただそれだけを繰り返していた。 背筋に沿って流れ落ちる汗。その不快感さえも、気にならなかった。 どれくらい、そうしていただろう。 「止め!!」 「――――っ!」 集中しすぎていたらしい。誠一の声にビクっと身体を揺らして、綾乃は制止した。まるで、一瞬壊れたロボットの様に。 「あ・・・」 「どうでした?」 「なんか・・・ちょっと気持ちよかったです」 なんだろう。 本当に頭の中が真っ白になって、なんだかどこか全然別の世界に浸っていたかのような気がした。 「たまには何も考えないで身体を動かすのも大事ですよ。じゃあ、次はちょっとだけ足技も」 「はい」 今度は綾乃は躊躇わなかった。むしろ少し楽しくなっていた。 「いいですか、構えはそのままで、腕はここ。そうです、軽く握って―――いいですね」 誠一はそう言うと、再び綾乃の半歩前に立つ。その瞬間、何故だろうか誠一の纏う空気が変わるのが綾乃にもわかった。 「やぁー!!」 ビシッ、っと繰り出される綺麗に上がった足。 綾乃は、空手って綺麗なものだったんだなぁ・・・と今更ながらに感じていた。 「さぁ、やってみてください」 「はい。――――やぁーっ、たた」 「ああ、大丈夫ですか?」 「はい」 上げた足の反動でよろめいた綾乃を誠一が慌てて支える。 「最初は、もうちょっと下で―――しっかり立っててくださいね。ここら辺ですね」 誠一はそう言って、綾乃の足を手に取って大体の高さを示す。それは誠一が上げた足の位置からはだいぶ下だった。 「不満ですか?」 「いや、いえ・・・」 どうやらそんな顔になっていたらしい綾乃に、誠一は笑みを零す。 「最初はみんなそんなものですよ。いきなり高くは上がりませんからね。それから、膝はもう少し曲げて」 そう言うと、誠一は足を持ったまま軸になっている足を直そうとする。 綾乃は精一杯制止していた、その視線の端に人影を捉え――――――― 「うわっ、っと」 「ああ」 案の定よろけた綾乃を慌てて支えた。 その体勢が、見ようによっては抱きとめたようにも見え。 「失礼します・・・っ」 「えっ?あ、雅人さん!?」 後ろから聞こえたその声に慌てた綾乃は、結局はバランスを崩してしまい、倒れこむように誠一の腕の中に落ちた。 「綾乃っ」 「大丈夫ですか!?」 「はい。すいません」 崩れた体勢を立て直す事は出来ず、綾乃は誠一に支えられるようにしながらその場に座り込んだ。 「怪我は?」 「無いよ?たんによろけただけ。だって急に声がして、びっくりしちゃったんだもん」 けろりと笑って言う綾乃に対し、雅人の顔には不機嫌に怒る表情が滲んでいた。 「・・・何をしていたんです?」 当然その声も不機嫌極まりない。 「空手をね、ちょこっと教えてもらってたんだよ。雅人さんこそ、どうしたの?」 「私はご挨拶に――――貴方がここの?」 綾乃の言葉で本来の目的を思い出したらしい雅人は、今出来る最大限の努力でその表情を隠して平静を装って誠一に向き直った。 「はい。私がここの道場をしております下田誠一と申します」 「これは失礼いたしました。勝手に上がりこんでしまい申し訳有りません。声がしたものですから、回ってきてしまいました」 「いえいえ、お気になさらないでください。えっと・・・御用の向きは?」 「この度はこの綾乃と、弟の雪人が合宿にお邪魔するとの事ですのでご挨拶に伺いました」 そう、挨拶に伺ったのだ。それをここで喧嘩腰になっていいはずが無い。 「それは、わざわざ申し訳ありません。本来でしたらこちらからご挨拶に伺わなければならないのに。今回は夏川くんには無理を言ってしましました」 「そんなこと」 「いえ、こちらは弟まで付いて行きますので、ご迷惑をかける方が多いかと思いますが」 「いえいえ。こちらは子供がたくさん参加しますので、一人くらい増えたところでかわりありませんから――――ああ、お茶も出さず申し訳ありません。どうぞお座り下さい」 誠一は、空手をしているときのあの空気、気配はいったいどこへ仕舞ってしまうのかという温和な雰囲気で、慌てて座布団を差し出す。 しかし、雅人は申し訳なさそうに首を横に振った。 「申し訳ありません。仕事の途中で抜けてきているものですから、もうお暇しませんと」 「そうなんですか?折角ですのに」 「ご挨拶に寄っただけですから。――――綾乃は、まだいるんですか?」 「え?」 「あまり長居すると下田さんのお仕事の邪魔になりますよ」 「いえ、そんな」 「ホントだ。すいません。僕もちょっと挨拶にと思ったのに、空手まで教えていただいて長居しちゃって」 「いいえ。私も楽しいですから」 「綾乃、帰るなら送りますよ。ちょうど通り道ですから」 「そう?じゃあ、そうしようかな・・・」 本当はもう少し空手を教えてもらいたかったような気がしないでもない綾乃だったのだが、確かに生徒のいないこの時間、本来は休む時間なのかもしれないと思い、綾乃は雅人の言いに従う事にした。 「では、お邪魔致しました」 一方雅人は気の変わらぬうちに、誠一が要らぬことを言い出さぬうちにと畳みかけた。 「何のお構いもしませんで――――ああ、もし良かったら合宿までに雪人くんを1度連れてきてください」 ―――――なんですって!? 板の間が不意にミシっと音を立てた。が、何せ古い建物、そんな音では注意は引けないらしい。 「1度会っておくのも悪くないと思いますので」 「でもいいんですか?お忙しいんじゃあ」 「いいえ。見ての通りのんびりとやっていますから、いつでも歓迎しますよ。夏休みは午後に稽古がある時も多いので、合宿に参加する生徒たちとも会えますし」 「ありがとうございます。是非お伺いしますっ」 誠一の言葉に嬉しそうに綾乃が頷くと、誠一も嬉しそうに笑って頷いた。そんな2人を見せ付けられて、雅人が心中穏やかなはずが無い。 「それじゃあ、また」 「はい、お気をつけて」 それがどうして綾乃は分からないのだろうと、その怒りの矛先は綾乃にも向かって行った。 |