希望と想いと嫉妬と不安 12
久保はバックミラー越しにチラっと後部座席に視線を向けて、万が一にも雅人と目が合わないうちの外へと視線を逸らし、人知れず深いため息をついた。 雅人の機嫌は朝から悪かった。しかしそれは耐え難いものではなく、まぁいつもある程度のちょっと何かあったんだろうなっていうくらいだった。 道場に挨拶に行く、と言われたときもこれで機嫌が直るならとスケジュールを急遽詰めて無理矢理時間を作った。 これできっといつも通りの雅人様に――――――――久保のそのささやかな願いはあっけなくも簡単に裏切られた。しかも、さっきよりもとてつもなく機嫌の悪くなっている、というオプション付き。 それを綾乃も感じているらしく、口を開きかけては閉じるを繰り返している。 「・・・雅人さん?」 しかし、この重い空気をなんとかしようとしたのか、綾乃が口を開いた。 「なんでしょう?」 「あ―――今日はわざわざありがとう。忙しいのに」 「いえ、保護者として当然です」 ちらっと雅人を見てみても、雅人と視線が合う事が無い。 それがもう決定的で、綾乃は一体何が雅人の逆鱗に触れてるのかさっぱり検討が付かない。それは元々合宿に行く事に好意的では無かったとはいえ、こうして挨拶にも来てくれて、しかも師範の下田さんはいい人でそれもわかって貰えたはずなのに、と綾乃がぐるぐる考えた。 ―――――こんな風に、気まずいのは好きじゃないのに・・・ 「あ、明日、終業式だし明後日くらい、雪人くん連れて行っておくね」 それは綾乃には、役目を果たしてくれたらしい雅人に対し、自分もちゃんとするからね?という気持ちを込めたものだったのだが。 「また行くんですか?」 「え、またって・・・だって」 雪人くんは1回も行って無いし――――と続く言葉は口の中に消えた。 だって、言えなかった。雅人の横顔があまりにも不機嫌で。 「雅人さん?」 「別に合宿に3日ほど参加するだけなのですから、そう足繁く通う必要な無いと思いますが」 「あ、足繁くなんて・・・」 棘の含む雅人の言いに、綾乃の顔がサッと青ざめる。 「雪人には夏休みの宿題も出るでしょうし、出来ればそれ以外に今までの復習などもして欲しいと思っています」 たぶん、雅人の言っている事は正論。でも、こういう時そういう言葉はなんとなく心を苛立たせることがある。 「――――」 「綾乃も、アメリカにも行くのですから、早めに宿題を終わらせた方がいいでしょう」 「それはっ、ちゃんとやるよっ。雪人くんの勉強だって僕、見るし」 その言葉が、苛立って大きな波を立てている雅人の心にいらぬ一石を落とす。 また、雪人。 「綾乃は自分の勉強に専念した方がいいんじゃないでしょうか」 「なんで?」 「みんな三者面談が終わり、家庭教師をつけたり夏期講習を受けたりしてくるんですよ?もう受験に向かっているんです。ですから綾乃も――――」 「待って!待ってよ・・・僕はまだ受験するとは」 「では高卒で終わるんですか!?今の日本は、学歴主義で無くなったと言われていますがそんな事は建前でしか無いんですよ?高卒というだけで閉ざされる門がどれだけあるかっ」 「僕は!――――僕は元々中卒の予定だったんのっ」 「それは今言っても!」 「でもっ!!」 「お2人とも!!」 大きく論点がずれだしてる気がする2人の会話に、久保の制止の声が割って入った。 「落ち着いてください」 我慢しきれなかったらしい。 その声に、2人はバツの悪そうな困った様な表情を浮かべて口を閉ざした。その視線は双方が外を向いてしまい、絡み合う事は無い。 綾乃は、はっきり理由も見えぬまま湧き上がるだけ湧き上がってくる悔しさと悲しさに唇を噛んで、ぎゅっと手のひらを握り締めた。 また、雅人は雅人で歯がゆさと苛立ちと、どうしようもないもどかしさに口を真一文字に結んでいた。その指先は苛立たしそうに膝をコンコンと叩く。 「・・・雅人さんは―――――高卒じゃあヤなの?」 ―――――そんな自分じゃあ、好きでいてもらえないの? 考えた事も無かったのに、急激に今浮かび上がって綾乃の心を支配してきたその思いを、綾乃は口にせずにはいられなくなってしまう。 そうじゃないと、否定して欲しくて。 学歴などなくても、好きだと言って欲しくて。 「私の希望は伝えたはずです」 でも、その言葉は無くて、変わりに返って来たのは冷めた声。 「それは、そうじゃなきゃいけないって事?」 そうじゃなきゃ、傍にいれないの? 「そんな事は言っていません。決めるのは綾乃です」 「じゃあ、ならなくてもいいんだ?」 それでも、いいの? それでも、好きでいてくれる? 「それが綾乃の出した結論なら」 けれど、雅人の返事はそっけなく、その声は固いままで。 「んでっ、なんでそんな冷たい言い方すんの?」 「冷たい?」 「冷たいよっ」 「冷たいのは綾乃でしょう!?」 「なんで?」 ―――――僕の、どこが!? 「私は傍にいてくださいと言っているんですよ?それを拒否するという事は、冷たく無いんですか?」 「―――っ、別に秘書にならなくたって傍にいれるよっ」 「そうですか?」 苛立ちに雅人の顔が歪む。 「そうだよっ!」 「じゃあ今はどうなんです?雪人と遊び、合宿に行き、樋口君たちとアメリカに行く。その中に私はいますか!?」 雅人の指が綾乃の腕を強く掴んだ。 「私との時間がどれほどあるんですか?」 「・・・っ」 「私は、もっと傍にいて欲しいんです・・・っ」 綾乃さえいてくれたら、私は―――――――私はそれだけでどれだけ心強いかっ。 「ずっと傍に・・・っ」 傍にいて、―――――――弱い私を、支えて欲しいんですよ。 それは、それが。雅人が決して言えない、弱音。 本音。 プレッシャーに潰されそうな時、勝つために相手を蹴落とすとき、それを迷うとき、誰かを傷つけてしまった時、誰かに傷つけられた時。 その時、傍に、一番近くにいて欲しい。 その身体をただ抱きしめて。 ただ一言、好きだって言って貰いたい。 それだけで。 ただ、それだけで自分は立ち上がって、もう1度立ち向かっていけるから。 「雅人、さん。・・・っ」 頭を垂れて、僅かに肩を震わせた雅人に綾乃はまるで冷水を浴びせられたような気がして、ただ恐々声をかけた。 ―――――自分の気持ちは、重いのかもしれない。 綾乃の弱い声を聞きながら、雅人はそう感じていた。 全てを言えばきっと重いだろうから、できるだけ間接的に希望を伝えてきたつもりだったけれど、結局綾乃には重いのかもしれない。 「すいませんでした」 上げた顔は、いつも通りの雅人だった。怒っても無い、増してや泣いてるはずもなく、穏やかな笑みを浮かべた顔。 「・・・でも、綾乃には綾乃の人生がありますね」 「雅人さん?」 その瞳が、黒い哀しみに落ちて。 「私は綾乃の傍にある全てに嫉妬してしまいます。でも、綾乃はそうじゃない」 ―――――結局は・・・ 「でも私にはそれが理解出来ません」 笑った顔は、笑ってるのに表情が無くて、色が無くて。 「ちょ、ちょっと待って」 「しばらく、私も落ち着いて考えてみます」 ――――― 一人でしか、生きていけない・・・・・・ 雅人のその言葉を、綾乃は愕然とした表情で受け止めた。 ・・・・・・ 終業式のその日。綾乃は壇上に座る雅人の姿を、少し青ざめた顔で見つめていた。それは、昨日ぎこちなく南條家玄関先で別れてぶりに見る姿。 そう。雅人は昨日、帰ってこなかったのだ。 ―――――なんで・・・? あんな風になるなんて、思ってなかった。 あんな風に、言い合うなんて。 あんな、哀しい顔をさせることになるなんて――――――――― 「・・・っ」 それを思い出してしまって、思わず涙が落ちそうになって、綾乃は慌てて欠伸をしたふりをして目尻を拭った。 こんなところで泣くわけにはいかない。だからもっと、違う事をとりあえず考えなくては、そう理性では思っていても思考は簡単に切り替わるわけじゃなくて。 心が囚われるのは、昨日のことだけ。 ―――――あれって、 終わりの挨拶、とかじゃないよね? ―――――そんなの、ヤダよ・・・っ 「・・・っ」 綾乃は止め様の無い思考に、必死で涙を堪えながら、壇上に座る雅人をだた見つめていた。 その雅人からは当然表情を読み取る事など出来るはずも無く、その瞳が合う事も無かった。 ―――――雅人さんは・・・ ただの僕じゃあダメなのかな? |