希望と想いと嫉妬と不安 15




 翌日の午前中、綾乃は久保の迎えで車に乗り込んでパスポートを取りに来ていた。わざわざ付き添いが無くても行けるのに、そう思ってみても玄関先に久保は既に来ていて。
 そして、雅人じゃなくて久保だった事がさらに綾乃を落ち込ませた。
 当然車の中はなんだか重い空気で、綾乃は口を開くのも億劫になってしまって無言を通した。
 "雅人さんは?"という言葉は何度の喉元まで出かかったけれど、それも声になる事は無かった。
 車中は綾乃がそっと吐いたため息で埋め尽くされて、その重さに車のスピードさえも遅くなりそう。
 そうして無事にパスポートを貰い終えた時だった。
「少し、お時間いいですか?」
「・・・あ、はい」
 ずっと沈黙だった久保が、綾乃にそう声をかけて直ぐ傍のベンチに腰を下ろした。
 室内は、温暖化対策をするつもりがあるのか?と聞きたくなるほどの冷えようだが、窓際に行くと外からの日差しと相まって丁度いい空調に感じられる。
「パスポート、失くさない様にして帰ってくださいね」
「はい」
 ざわざわと、人々の声がする。
「雅人様―――――終業式の日、待っておいででした」
 スっと綾乃が息を飲んだ。
 あの時、もっと早く駆け出していたら・・・
「あの方はどうも不器用で。―――――その上プライドが高くて、自分本位で、我侭で」
「久保さん!?」
「なんでしょう?」
「・・・ホントに、そう思ってるんですか?」
 本当に、そんな風に?
「綾乃様は違うんですか?」
「雅人さんは・・・、自分本位なんかじゃないし、我侭でもありません。そりゃぁ、―――」
「そうですか?」
 "ちょっとくらいは・・・"そう言おうとした綾乃の言葉を、久保にしては珍しく相手の言葉を遮って。
「本当にそう思っていませんか?」
「久保さん?」
 綾乃に再度尋ねた言葉は少し強く、久保のその瞳はどこか冷淡に光って見えた。
「あの方は、綾乃様のお気持ちを無視してご自分の意志を通そうとなさってます」
「・・・・・・」
「綾乃様にとって何が良いかではなく、ご自分にとってどうなのかしか見えてないのです。だから綾乃様のお気持ちを無視して秘書などと」
「そんなっ―――――あ、もしかして久保さん僕が秘書になるの嫌ですか?」
「まさか。私だって出来れば本当に信頼できる、絶対に雅人様を裏切らないとわかっている人がもう一人傍にいて貰えたら、と思います。そうすれば、雅人様のお心だってもう少し休まるでしょう」
 久保はそこで言葉を切って、深く息を吐いた。
「・・・でも、雅人さんには秘書の方や他にたくさんの人が周りには・・・」
「ええそうです。それが問題なのです。その中で、100%裏切らないと言える人が果たしているのか・・・いつ、対立企業のスパイが紛れ込むか、また引抜がかかるかと考えなければなりません」
「そんな―――っ」
「そんなものですよ。雅人様にとって本当に心休まるのは、綾乃様と過ごされる本の僅かな時間だけでしょう」
 久保の言葉に綾乃が唇をきゅっと噛んだ。
 今まで雅人の事、そんな風に見て来たことがあっただろうか。考えた事があっただろうか。いつも見えているところだけで、傍にいて笑ってくれているその優しさや穏やかさだけを見て来た。
 もちろん、苦労はあると思っていたけど、それをどこまでリアルに考えていたんだろう―――――?
「ですが、それは綾乃様とは関係無い問題ですよ」
「え?」
「だからといって、綾乃様の将来を左右していい事では無いでしょう?綾乃様には綾乃様の夢やビジョンがおありでしょうし」
 夢?
「いえ、僕には・・・」
 ビジョン?
「それを雅人様の我侭で―――本当にすいません」
「いえ・・・っ、そんな風に言わないでください」
 だって僕には何も無いんです。
 夢もビジョンも、自分がどうなりたいのかも。
「綾乃様は雅人様の言葉など気にせず、ご自分の事だけ考えてください」
 久保はそう言って優しく微笑んだ。その顔を綾乃は見上げて、胸がぎゅっと痛くなった。
「そうしたら、・・・僕は雅人さんとはいられなくなるのかな?」
「そんな事はありませんよ」
「でも、雅人さんは、――――――――」
「綾乃様。雅人様の事は気にせず、ご自分の事だけ考えてください」
 ―――――けれど・・・
「これは綾乃様の、人生なんですから」
 久保は念を押すように言うと、ゆっくりと立ち上がった。それにつられるように綾乃も立ちあがる。けれど、綾乃の頭の中には久保の言葉や雅人の言葉や、自分の形にならない言葉がグチャグチャに混ざり合って整理が付かない。
 何か言わなければ、そう思うのに言葉は何一つ形にならなくて固まりにならない。
「さぁ、話につき合わせて申し訳ありませんでした。送ります」
 久保にそう言われて、自動ドアを抜けると一気に熱波が押し寄せた。
「いえ・・・」
「え?」
 瞬時に冷えていた肌が暑くなる。
「僕、一人で帰ります。折角だから――――寄り道して・・・」
 そう言った綾乃の思考はまるで停止いている。けれど、今は一人になりたいと、本能がそう告げていたのかもしれない。
「そうですか?」
「はい。ありがとうございました」
 綾乃はそう言って頭を下げると、ふらふらと歩き出した。その背中を久保は、その姿が見えなくなるまで見送った。
 この場所から駅はそう、遠くない。歩いている間だけじゃあ綾乃の気持ちは当然落ち着かなくて、機械的に切符を買って、ふっと意識が戻ったらいつの間にか電車に乗っていた。
 それも急行列車。
 窓から見える風景は、少し懐かしい見覚えのある景色。
 ―――――僕、なんでこれ乗っちゃったんだろ?
 そんな予定じゃあ、全然無かったのに。
 時計を見ると、12時37分。
 ―――――まぁ、いいか。
 行って、しばらくお邪魔して帰ればいい。時間的にはそう無理は無いけど。雪人に何も告げずに来てしまった事だけがいまさらながらに心にひっかかった。
 けれど今更戻れるはずも無く、綾乃はそのまま電車に揺られ、乗ったとき無意識化で目指したであろう目的地で降りた。





 その頃雅人は、都内某所の事務所内社長室にいた。目の前にはいくつかの書類。けれどそれを目で追ってはいても先ほどから何一つ進んでないように見えた。
 もちろん雅人しかいないここでそれを見咎めるものなどいやしないが。
 そこへ久保が戻って来た。
「遅くなりました」
「いや」
 パサっと書類の音がして、手にしていたものが机に落とされる。
「綾乃様には、言われたように"雅人様の事は気にせず、ご自分の事だけ考えてください"とお伝えしてきました」
「そうか」
 久保の言葉に一瞬雅人の瞳が暗く光ったが、すぐにそれを奥に引き込んで隠してしまった。そして今は、ほっとしたような笑みを浮かべている。
「これで良かったのでしょうか」
「これで良かった」
 久保の顔を見ずに、言葉を準備していた様に言う雅人の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようである。
「では、後悔なさらないのですね?」
「――――綾乃には、綾乃の生きる道がある」
 久保の問いの答えを雅人はそう言う事で、逃げた。
「雅人様」
「私とは――――――道が違うんだ、きっと」
 言い切って、言い捨ててはしまえぬ、雅人の未練。
 望みはまだ、捨てきれない。
「雅人様っ」
 雅人の心中を推し量って、無理を見つけてなんとかしたいと切に願う久保。結論を急ぐ事は無い。もちろん雅人とてそれはわかっている。
 わかっていて、言い聞かせているのだ。雅人にとって、最悪の結論になった時、取り乱さぬように。 「南條家に、巻き込む事は無い」
 ―――――傷つかぬよう。
「あの子にはもっと、平穏で穏やかな生活が似合う」
 笑って、綾乃の手を離してやれるよう。
「私は間違うところだったんだ」
 そうだ。
 ただ、あの子の幸せだけを願っていたはずなのに、いつしか欲張りになっていたんだ。
「私は」
 もっと傍に。
 もっと一緒に。
「南條雅人だ」
 ずっと傍に。
 ずっと、一緒にと――――――――――
「生まれた時から、それは変えられないんだ」
 言い切った雅人のその言葉を、久保は複雑な顔で聞いていた。
 本当に、そうなのだろうか、と。
 本当に、その言葉通りなんだろうかと。
 もしかしたら。
 もしかしたらこの人は、その時その瞬間、南條の名を捨ててしまうのでは無いだろうか、と―――――そんな不安が胸を離れない。
 それだけは、なんとしても阻止しなければならない。
 それもまた久保に課せられた、役目。












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