希望と想いと嫉妬と不安 16




「ごめんなぁ、今日子のやつちょっと出かけてて」
「ううん、僕こそ急にごめんなさい」
 縁側に腰を下ろして、綾乃は真吾の入れた冷たい茶を受け取る。
「そんなんはえーねんでぇー」
 と、声は遠ざかって戻って来た時には何故か茹で上がった枝豆。
「いや、今からちょうど食べようかなぁって思っててん」
 そう言って二人の間に枝豆を置く。綺麗な緑色に湯であがったそれは、塩を降られて湯気をたてている。藤のザルにもられてて、見目にもなんとも風情があった。
「いただきます」
 綾乃は、そういえば昼はまだだったなと思いながら枝豆に手を伸ばした。
「どうぞどうぞ」
 そよ風が吹いて、チリンと風鈴が鳴る。その音だけを聞いていたら涼しい気もするが、実際はやはり猛暑の夏で。マメは、綾乃の姿を見て一瞬嬉しそうに駆け回ったが、暑さには勝てないらしく今は軒下の影になるところでその身体を伸ばしていた。
 たぶん、寝ているだろう。
 起きていればきっと、枝豆を分けてくれと寄って来るに違いないから。
「夏休みはどう?」
 枝豆が半分くらい無くなったところだろうか、真吾が口を開いた。
「それが、友達に誘われて―――その子が空手道場に通ってるんですけど、その合宿のお手伝いをする事になって、1日から2泊3日で群馬の方へ行くんです」
「へぇー」
「参加するのが小学生までの子供たちばかりで、付き添いっぽいらしいんですけど。雪人くんも一緒に」
 綾乃はそう言うと、笑みを浮かべた。
「楽しそうやな」
「はい。まぁー、僕に何が出来るかわかんないでちょっと不安もあるんですけど」
「そんなん。綾ちゃんには綾ちゃんの出来ることをしたらええだけや。楽しんどいで」
 真吾はそう言うと、枝豆をポンと口に放りこんだ。
「ん?」
 横目で見ると、綾乃が少し肩を落としている。
「後、アメリカ行くんです。先輩が向こうにいて、遊びにおいでって事で」
「へぇー益々ええやん。綾ちゃんの夏休みは充実満喫やな」
「はい」
 そう言っているわりに、綾乃の顔には影が差す。
 真吾は塩で汚れた指を手拭で拭いて、綾乃の頭をポンと優しく叩いた。
「どうしたん?なんかあんまり楽しそうちゃうで」
「そんなこと、無いんですけど・・・」
「けど?」
 綾乃は足を伸ばして、俯いた。そこに何か、答えがあるわけじゃないのに。
 そうしてから、ふっと顔を上げて真吾を見た。真吾は、暖かい瞳を真っ直ぐに綾乃に向けていた。
「・・・真吾さんは」
「ん」
「・・・進路っていつ決めたんですか?」
 その綾乃の問に、真吾は一層笑みを深くした。
 そして懐かしむような、遠くを思い出すような瞳で空を見た。
「進路かぁー。なんや懐かしいなぁ」
「懐かしい?」
「ああ。もうそんなん遥か昔や」
 しみじみとした口調を、綾乃は不思議そうに見つめた。今抱える自分のこの大問題は、そんなに軽く忘れてしまえるような懐かしむ事が出来るようなそんな問題なんだろうか?
「いうても高校ん時はなんも考えてなかったなぁ」
「何にも?」
「せや。毎日が楽しくてなぁ。野球して遊ぶ、ゲームして遊ぶ、しょうもないことで騒いで、ドキドキしながらエロ本回し読みして、テスト前になったらひーひー言うて。返って来た答案用紙で紙飛行機作って飛ばして、三好ちゃん・・・って生活指導な、にえらい怒られて」
 真吾はそう言うと、本当に楽しそうにくすくす笑っている。
「親はもう呆れ顔でなぁ。ほんま、楽しかった」
 真吾はそこで綾乃の顔を見つめた。
「そういう意味では今の子は、可哀相なんかな。もう将来の事やなんて」
 そうして一口枝豆を食べて、茶を飲む。
「3年になってお前どうすんねやって言われて、就職するんは嫌やったし大学行きますって」
 両手で持ったグラスの中で、カランと音がして氷が一つ溶けて崩れた。
「それで?」
「まぁ、必死で勉強してとりあえず大学入って、俺の場合そこでやったな。元々本読んだりするんも好きやったしで選んだ専攻でな、講義してた先生の話が面白くてな。そのゼミ入って色々勉強させてもろた。そこで俺も物書きになろーって思って。とりあえず雑誌社入って記事とか色々書きながらまた勉強して、まぁ今かこうしてフリーになってもなんとか食べていけてるっちゅー感じかな」
「へぇー・・・」
 真吾には真吾の歩んできた道がある、それは当然当たり前のことなのになんだかとても不思議な気持ちで綾乃はその話を聞いていた。
「迷ったり、悩んだりした?」
「もちろん。悩んだり迷ったりせーへん人なんかおらんで」
 真吾はそう言って綾乃の瞳を覗きこんだ。
「そんでな人は悩んで考えて選んでも間違ったり失敗したりするねん。でもな、たとえ結果が望む形じゃなくてもその過程でいろんなことを学ぶし、また別の可能性を見つけたりするから、それは絶対無駄とはちゃうねん」
「・・・今、悩んでる事も?」
「そや」
「もし――――――秘書に、ならなくても・・・」
 それは問いかけでは無く、独り言の様な声。
「秘書ってなんや?」
「あ、いや・・・あ――――雅人さんが、将来自分の秘書になってくれって」
「なるほど」
 真吾は僅かに苦笑を浮かべた。
 ―――――気持ちはわかるけど―――――言うのが早すぎるやろ、あの人は。
「でも僕、大学に行くのも悩んでて・・・」
「そうなんか」
「・・・そこまでしてもらうのってなんか、あれだし。それにもし行って、秘書にならなかったら申し訳無いし」
「そんなことで責めたりする人ちゃうやろ?」
「うん・・・だけど・・・」
「だけど?」
「期待には、答えられない気がして」
「なんでや?」
「なんで?」
 ふと、綾乃の表情が止まる。
 まるでその疑問を考えた事が無いようだった。
「ん?」
 なんで。
 自分が。
 そう。
 思うのか。
 当たり前の様に、そう思ってたけど。
「だって・・・」
 その問に、頭の中にあるこんがらがった糸がするすると、解けていく。
「南條家は・・・凄くて・・・」
 "裏で手、回したとかって"
「僕の想像の出来ない世界で」
 "中田先生も飛ばされたらしい"
「たぶん、僕の知らないこといっぱいあって。その中に自分がいくなんて」
「綾ちゃん」
 静かな、けれど強い真吾の声だった。
 その声に、呆然と言葉を紡いでいた綾乃がハッとして焦点を合わせる。
「まだ、結論を出す事ちゃうで?」
「――――」
「確かに綾ちゃんは何にも知らへんと思う。だから想像がどんどん膨らんでるんやな」
 真吾が笑う。
「大学に行き。それは猶予期間や。大概の子供が大人になるのを待ってもらうために使えるカードや。綾ちゃんも、使い」
 それを躊躇う必要は無いと、真吾は優しく綾乃の髪を梳く。
「そんで、色んな事を見て人と出会って、考えたらいい。俺かて今日子かて、いつでも力になる」
「・・・真吾さん」
「でもな、逃げたらあかんで」
「え?」
「怖いから。自信が無いから。知らない世界だから。そんな理由で逃げたらあかんで」
 ビクっと綾乃の肩が揺れた。
「そんな事で、あの人の事拒否したら、綾ちゃん自身が後悔するで」
 綾乃が唇を噛んだ。
「――――っ」
 真吾に言われて、初めて気づいた。
 そうだ。
 自分は怖くなってたんだ。
 大きな存在で、影響力があって力があって。
 それをどんどん目の当たりに見て、腰が引けてたんだ。
 最初のとき、中田先生に出会ったその中で、知らず知らずにそうなってた。その自覚は少しあったのに。
 あの時誤魔化した、雅人の言葉。
 "同じ世界に住んでますよね"
 ―――――ああ!!!
 雅人さんはわかっていたんだ。
 僕が。
 僕が、こんな風に弱いって事。
 僕が。
 逃げ出そうとしてるって事。
 僕が。
「あほやな」
 真吾は綾乃の頭をそっと引き寄せて自分の肩に抱いた。
「・・・っ、――――っ」
 綾乃は声を漏らさないように唇を噛み締めた。だってこんな事で泣いちゃいけない。きっと雅人はもっと、もっと悲しかったに違いないんだ。
 知らず知らずに向けた、背中を見つめて。
 だから、泣いちゃいけないと綾乃は必死で思った。
 真吾はそんな気持ちがわかるのか、涙を隠したのだ。そうして、綾乃が落ち着くまでじっと動く事無く綾乃の頭を優しく抱き寄せていた。
 僕は、バカだ―――――――――






「誰か来てたのか?」
 縁側に座る真吾の隣に、誰も座る人の無い座布団を見て、帰って来た今日子が言う。それは丁度、綾乃と入れ違いだった。
「うん。綾ちゃんがね」
「そうか」
 今日子の声が僅かに残念そうな音になる。それはきっと、真吾以外にはわからないほどだろうけれど。
「また来るって言うてたで」
「そうか」
 ふっと、真吾が忍び笑いを漏らす。
「なんや1日から友人の空手道場の合宿にくっついて行くらしいわ」
「空手?」
「綾ちゃんがしてるんちゃうで?で、その後は先輩に誘われてアメリカ行く言うてた」
「なんだ、大忙しだな」
「ほんまにな」
 今日子が空になっていたグラスにお茶を注ぎ、自分も新しいグラスに茶を注いで傍に座る。
「だからアメリカ帰ってきたら、アメリカ土産持って雪人と来るってさ」
「そうか」
「今度は連絡してから来るって」
 そう言って、忍び笑いではこらえ切れずクスクスとやりだした真吾を、今日子は照れ隠しの冷たい瞳で睨んでから、さっさと台所に消えてしまった。












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