希望と想いと嫉妬と不安 3
「ちーっす。―――あ、ここで靴脱いで」 「う、うん」 中に入ると入り口にはさして靴が並んでなくて、どうやらそんなに人がいないらしいことを物語っていた。 綾乃は少しほっとしながらも靴を脱いで中へと上がると、中には一人の男の姿があった。 「おう!健二」 床にぺったり座り込んだ姿勢で、軽く手を上げる。 「コージさんいたんスか。・・・あれ、師範は?」 「茶入れてくれるって、奥」 「っ、何師範にさせてんですかっ!!」 奥を指差す男にコバケンはそう言うと、慌てて奥へと引っ込んでいく。その目の前の様子を綾乃は瞳をぱちくりさせながら眺めるしか出来ない。 「健二の友達?」 見上げられたその瞳と、シニカルに笑う唇。 ―――――この人、いくつだろ? 「はい。あの、はじめまして」 「はじめまして。―――その感じ、なんか上品〜って感じだ」 そう言って笑った顔は少し含みが感じられる。黒髪を短く刈った頭に生えた髭が男くささを感じさせるのに、どこかなにか。 「上品、ですか?」 「ああ。イイとこの子って感じ?」 「・・・っ」 ―――――あ・・・なんか、ヤな感じ、かも。 綾乃がそう思って僅かばかりむっとした顔をした時、奥から声が聞こえてきてコバケンともう一人の男性が出て来た。 「いらっしゃい」 サラリとした髪を耳に掛けながらその人は、綾乃ににっこり笑みを浮かべて言う。その空気が随分柔らかくて、コージとの対比に綾乃はまた驚いてしまった。 「お邪魔してます」 「ああ、座れよ。コージさんも勧めてください」 コバケンの言葉にコージはにやにや笑うのみで、綾乃は座っていいのやらどうしたらいいのかわからず相変わらず立ったままでいると、もう一人の人が座布団を置いてくれた。 「座ってください。話は少し健二から聞きました。ご面倒な事をお願いしてしまってすいません」 「いえ」 「面倒な事って?」 コージは一人ひょいっとお盆から茶を取りながら聞く。 「夏合宿の手伝いを」 「ああ。なんだ、やっぱあいつら無理だったんだ?」 「ええ」 「はい、お茶どうぞ」 コージと話を交わしている間にコバケンが綾乃にお茶を渡す。 「私はここで子供たちに空手を教えてます、下田誠一と言います」 「夏川綾乃です」 「健二とは学校でのお友達とか」 「はい」 「はぁ〜なるほどねぇ〜」 「コージっ。・・・ああ、こっちは吉見孝次。私の友人の弟で、時間のある時に空手を教えたりここの手伝いをしてもらってます。健二も同じですね」 「はい」 「合宿は毎年恒例で、子供たちも楽しみにしてるので是非ちゃんと行きたいと思ってるんですが、今年に限って人手が足りなくて。助けていただけるのなら、助かるんですけど」 そこで誠一は綾乃の顔を窺って言葉を切る。 「あ、・・・はぁ」 切った言葉の合間に3人に一斉に見つめられて、綾乃はどうしていいのかわからなくなる。だって本心は断りに来てるのであるからそう言われると弱ってしまって、どうしたものかとおろおろ視線を泳がせて、ふっとコバケンを見ても助け舟を出してくれるわけでもなく。 「あの、さっき話聞いたばかりで、その、なんと言っていいのか」 「なんと言ったらって、嫌かいいかのどっちかだろう?」 何言ってんだか、と呟いたその呆れ声がどう考えてみても喧嘩腰に聞こえて綾乃はカチンと来る。 「そんな簡単に返事できないって言ってるんですっ」 じゃあお断りします、と言えばいいのに、何故かこんなときばかり負けん気の強さが綾乃の心にもたげる。 それはもしかしたら、学校という枠にいない無意識下の開放感からなのかもしれない。 「それはそうですよねぇ」 「誠一さん」 「師範です――――では、もうすぐ子供たちも来ますから、練習を見学していきませんか?」 「え?」 「お、いいじゃん。で、ついでに夏川も空手やったらいいんだよ。夏川もさぁ、ちょっとは鍛えた方がいいんじゃねぇ?」 コバケンの言葉に、あからさまに綾乃がムッとした顔をする。運動音痴な事を知っててそういう事いうんだ?と刺々しい視線を向けて。 そんな綾乃を誠一はクスクスと笑みを漏らして見つめていた。 「はっ、こんなひよっこいのに出来るはず無いだろ」 「放っておいて下さい」 孝次の言葉はどうしたって絡んできてる気がして綾乃はついつい言い返してしまった。 「まぁ、夏川は運動はなぁ」 「なんだよっ」 「あ、でも騎馬戦が活躍してたよなっ」 さらにムってした顔をした綾乃に、機嫌を損ねたらマズいんだったと思い出したらしいコバケンの、遅いフォローが入る。 そんな3人を師範である誠一はやはり嬉しそうな笑みを浮かべていたが、ふと時計を見て少し慌てたように立ち上がった。 「さぁ、準備しましょうか」 どうやら本当にもうすぐ、生徒達がやってくる時間になっていたようだ。 綾乃とコバケンはつられる様に慌てて湯飲みを片付け出した。 "では、2〜3日中にお返事をください" そう言われて送り出された帰り道。綾乃は行きとは違った気持ちが沸きあがって迷っていた。 ―――――だって。可愛かった、かも。 生徒は、小学校に入る前くらいの年の子供から小学校高学年くらいまでの子達がいたのだが、特に小さな子が空手着を着て稽古する姿など、なんともいえない可愛らしさがあった。 それになにより。 ―――――コバケンって、案外子供に人気あるんだなぁー・・・ 輪になって一緒に遊んでる姿は、なんだかほほえましくて可愛くて。人見知りする綾乃をコバケンが手招きして、綾乃を紹介がてら混ざらせて遊んだ。 遊んだといっても、健二先生のお友達〜というポジションで色々聞かれたりしたくらいなんだけれど。 その中には綾乃にすぐ打ち解けてくれる子もいて。 もじもじしながら見て来る子もいて。 もちろん、ストレートにやんちゃな子もいて。本当色々で、そんな子供たちを本当に可愛く綾乃は感じたのだった。その所為で、すぐに断ろうと思っていた気持ちが少し揺らいでしまった。 そんな綾乃の気持ちを見透かされたのか。 "毎日稽古はやっていますので、もし気になるならいつでも遊びにいらしてください" ―――――って言われちゃったし。 うーん、明日も見学に行ってみようかな。 それから決めてもいいんだし。 綾乃はそうだ、そうしようと心に決めて、いつの間にか最寄りの駅1個手前まで来ていた電車に慌てて座席から立ち上がった。 本当はこんなに遅くなる予定じゃなかったから、駅からは早足で帰らなくっちゃと思いながら開くドアから1番で出た。 だってきっと、間違いなく、雪人が自分を待っているとわかってるから。 「あーあ、僕も早く中学生になりたい」 夕飯を食べ終わったリビングで、ラグの敷かれた床に横になって拗ねた様に雪人が言った。その横に座って、アイスミルクティーを飲みながら綾乃は苦笑いするしかない。 「もうすぐじゃない。後、半年でしょ」 夕方遅くなって帰ってしまった綾乃に雪人はやっぱりムクれてて、綾乃はたくさん"ごめんね"を言った。それでもやっぱりまだ雪人の気持ちは少し真っ直ぐには戻っていないらしい。 雪人の好きなクイズ番組さえも、雪人は目を向けていないから。 「・・・・・・」 「ホントにごめんね?」 小学6年生にしては子供っぽいままの雪人の髪を綾乃はくしゃりと撫でて、すまなそうな顔で言う。 確かに休み前は試験で勉強しててかまってあげれず、その前は体育祭の準備で忙しくて、その前は中間テストでその前は新学期のゴタゴタで。久しく雪人に目を向けてあげられる余裕が無かった事は、綾乃にとっても十分心を痛めていた事だったから。 その時テレビ画面から一際高い笑い声が響いて、一瞬綾乃の視線がそちらへと向く。 「・・・僕、綾ちゃんと同級生だったら良かったな・・・」 「え?」 小さな雪人の呟きが、テレビの笑い声に掻き消されて綾乃の耳に届かなかった。 「なに?ごめん、聞こえなかった」 「あのねっ、・・・・・・今日それでどこ行ってたの?って」 「ああ。コバケンに呼び出されたって言ったでしょ?」 「うん」 「そのコバケンがね、空手やってるらしいんだけど。通ってる道場で夏合宿に行くんだって。で、子供たちとか皆で行くらしいんだけど、その合宿にいつも手伝いに来てくれる人が今回は来れないらしくて、僕に手伝ってくれないかって」 「―――え?って、綾ちゃんその合宿に行くって事?」 雪人が思わず上体を起こして、綾乃に向き合うように座り込む。 「うん。って言っても3,4日の事だけどね。で、でも僕道場とか見たことないしどんな人とかもわかんないから、その道場見学に行ってたんだよ。それで遅くなっちゃって、ごめんね」 「綾ちゃんそれ、行くの?」 「まだ返事してないけど・・・、行ってみてもいいかなぁって。コバケン、本当困ってるみたいだったし」 そう言って迷うように僅かに綾乃は目を伏せた。 「ふー・・・ん」 だから、その時雪人がどんな顔をしてたかは知らない。唇を噛んで、少し泣きそうだったその顔を。 そして、ふっと、雪人が息を吸い込んだ。 「僕も行く!!」 「え!?」 驚いて上げた顔で捉えた雪人の顔は、もういつも通り子供っぽい笑顔を浮かべたもの。その顔を綾乃はまじまじと見つめる。 「僕も一緒に行きたい!!――――ダメ?」 お伺いをたてるように小首を傾げた雪人はとっても可愛くて、綾乃はダメとも言いづらくて。しかも今日は拗ねさせたばかりなので。 「うーん、聞いてみないことにはなんとも言えないかも」 「聞くって?」 「向こうの人にもさ。一応お手伝いだし」 「僕だってお手伝い出来るよ!!」 「もちろんそうなんだけどね」 「綾ちゃん僕が行くの嫌なの!?」 「そんなわけ無いでしょ。雪人君と行けたら楽しいと思うよ」 「ホント!?」 「もちろん」 「じゃあ!!」 お願い!!と、綾乃の両腕を雪人がぎゅっと掴んだ時。 「おやおや、何の騒ぎですか?」 「雅人さん!?」 「雅人兄様っ」 廊下まで響いていた声に、しょうがないですねと笑みを浮かべた顔で雅人がそこに立っていた。 |