希望と想いと嫉妬と不安 4




 それから30分後。室内着に着替え、テーブルで軽い夕食を取りながら事の顛末を聞いていた雅人の眉が、ムムっと綺麗な形を作って歪められた。
 そして、熱いお茶をすすってコトンと置いて。
「合宿、ですか」
 雅人にはとてもとても苦い想いがあった。というのも、コバケンといえば綾乃が騎馬戦などに参加するキッカケを作った人物じゃないですか!!という、なんとも嚥下しがたい気持ち。
 ―――――なんで何度も何度も難題を持ってくるんですか!!!
「はい。僕としては、行ってもいいかなぁとは思ってるんです。まだ決めたわけじゃないんですけど」
「僕も一緒に行く」
「待ちなさい。雪人、行くと言っても先方様のご都合もありますから」
 向いに座る雪人に雅人の少し厳しい視線が向けられる。
「じゃあ、いいって言われたら行ってもいい?」
「とりあえず、綾乃がどうするか決めてからです」
「じゃあ、綾ちゃんが行くって決めて、向こうの人も僕もいいって言ってくれたら行っていいよね?」
 食い下がる雪人に雅人は再びお茶をすする。その傍ら、松岡は淡々と雅人が食べ終えた食器を片付けていた。
「――――その時は、雪人の成績表次第ですね」
「なんで!?」
 成績、という言葉に雪人が弾かれたように立ち上がった。その唐突とも思える仕草に、綾乃の方が驚いて雪人を見上げて慌ててしまう。
「雪人くん?」
「もう来年から中等部なんですよ。今の成績のままでは」
「別に僕は落ちこぼれてない!」
「雪人」
「雅人さん・・・?雪人くんは――――」
「ともかくこの話は保留です。いいですね?」
 そう言って雪人を見た雅人の顔は、有無を言わせぬものがった。その雅人の態度に綾乃が違和感を憶えて、口を挟もうかとした一瞬早く。
「―――とにかく、僕は絶対行くんだから!!」
 雪人はそう叫ぶと、怒りとは程遠い、まるで傷つけられたような顔でダイニングを飛び出していった。
「雪人君!」
 綾乃が慌てて立ち上がって、後を追いかけようとする。
「綾乃っ」
 その綾乃を制するように雅人が綾乃を見た。
「・・・っ」
「放っておきなさい」
「でも」
 それがいいとは、綾乃には思えなかった。だってきっと、傷ついてるのは雪人だから。
「いいですから」
「―――・・・雪人君、そんなに成績悪くないと思うよ?」
 雅人の態度をいぶかしく思った綾乃は、思い切ってそう言ってみた。だって、テスト前に勉強を見ていたのは他なる綾乃だ。
 雪人の大体の学力は把握しているつもりだった。
 けれど、雅人は軽く首を横に振る。
「そんなに、じゃあ困るんですよ」
「え?」
「雪人は、南條家の3男ですから」
 ピクっと綾乃の指が動いた。
「もっと上を狙ってもらわないと」
 ・・・なんで?
「でも・・・っ」
「綾乃」
 雅人の瞳が、綾乃の言葉を拒絶しているように見えた。口出し無用だ、と。その視線に綾乃はひるむように唇を噛んだ。
 悲しさが、込み上げる。
 その綾乃の顔に雅人は慌てて立ち上がった。その音に、綾乃が一歩下がる。
「・・・雪人だって、もう自覚しなければいけないんですよ」
「何を?」
 ―――――なにを?
 わからない。でも。
「そんなの、変だよ」
「―――」
 考えるより前に突いて出た言葉に、雅人を僅かに瞳を見開いた。それと共に綾乃をも戸惑わせた。けれど、その言葉が間違っているとは、本能が思っていない。
 変だ、そう思う気持ちに間違いない。
 だって。
 確かにそうだけど。
 ―――――でも、雪人くんは雪人くんで。
 雪人くんは雪人くんなりに頑張ってるのに、それじゃあいけないの?
 そう思ってみても、綾乃はそれを言葉にはせず、上手く言葉を紡ぐことも出来ずに唇をきゅっと締める。
「僕・・・見て来るから」
 綾乃はそれだけ言うと、雅人の視線を振り切って雪人の後を追うように駆け出した。
 心の中にいい様のないもやもやが湧き上がってはいても、それを無責任に発する勇気も無くて上手く言えない自分になんだか嫌だった。







 雪人の部屋に行ったものの、ドアを開けてもらう事は叶わず。"もう寝るから"そう言われた声に、"何かあったら部屋に来てね"としか言えず。
「綾乃」
「雅人さん――――」
 おやすみの言葉を残してとぼとぼ部屋に戻れば、中で待っていればいいのに廊下で待つ雅人の姿があった。
「飲み物何か持ってこさせましょうか?」
「ううん」
 部屋に入って綾乃はベッドに腰を下ろすと雅人も椅子を引き寄せ向かいに座る、いつもの位置。
「雪人は、なんと?」
「何も。もう寝るからって」
「そうですか」
 しゅんとした綾乃に雅人はどうしたものかと視線を向ける。
「今日はね、道場見に行ってて帰ってくるの遅くなっちゃって、雪人君ちょっと拗ねてたから」
「はい」
「だから余計機嫌悪かったと思うんだ。だから、さ―――――――」
 何が言いたいのか、綾乃自身もわからず言葉を吐き出し、そして続きが見えず言葉を切ってしまった。
 ただ。
「綾乃」
「雪人君はさぁ、がんばってるよ?」
「知ってます」
「じゃあ・・・」
「そうですね――――今回は、私も言い方が悪かったです」
 少し自嘲気味に笑う雅人に、綾乃は先を促すように首を傾げた。
「色んな事が私の耳には入ってきます」
「ん・・・」
「その中では、成績だけの事で雪人が低く評価するものも―――――それが悔しいんです。だからつい」
「でもっ・・・、そんな事言う人の事なんか気にしなきゃいいんじゃ」
 綾乃の言葉に雅人は首を横に振る。
 そうじゃない、つけいる隙を与えてはいけないのだ。それがひいては、雅人と陽子の構図に結びつけようとしてくる。そこに、邪推な物が付け込んで来る。
「確かに口さがない者は色々言うものです。ですが、言わせてはいけないんですよ・・・」
 傷をつけてくる。
「雪人の為にも」
 雅人の言葉に綾乃は、ドキっとした。
 そうだ、南條家に居候しているだけの自分の周りにだって色々あるのに、その三男の雪人の周辺で何も無いはずが無い。
「けれど雪人には、それをどう言っていいのか。難しいですね」
「雪人くん、って・・・結構大変だよね」
 そういえば前に、そんな事を雪人の口から聞いた事があった。大人たちの無責任な言葉は、思ってるより子供を傷つけているんじゃないだろうか?
「こういう家ですから、プレッシャーは相当なんですよ」
 ふっと自嘲気味に笑う雅人に綾乃を視線を向ける。
「雅人さんも?」
 その問いかけに雅人は無言で笑みを湛えた。それが、雄弁な答え。その顔に綾乃は心がきゅっとしめつけられて、熱い想いが込み上げてきた。
 誰もが何かを、抱えて生きてる。
「まぁ、私の時はまだ母も生きてましたしね」
「―――そう?」
「ええ」
「じゃあ、直人さんには?」
「・・・直人には松岡がいました」
 ―――――それが今の色々を引き起こしてるんですが・・・
「・・・雪人くんには?」
「私が――――何か出来たらと思うのですが、難しいですね。本当はこういう事は直人の方が得意なんだと思うんですけど」
「・・・そういえば直人さん体育祭の時も以来会ってないかも。忙しいの?」
 そういえばそうだと綾乃は改めて思った。まだ自分がここに来た頃はもっと家にいたし帰って来てたのに。ここ半年、ほとんどその姿を見ることが無い。
「忙しい、というかまぁ――――少し問題を抱えているというか」
「え、大丈夫なの!?」
「こればっかりは直人自身が結論を出す以外無いので――――――結局私は何も出来ませんね」
 ふっと漏らした自虐色の濃い笑みに綾乃はベッドから立ち上がって雅人をぎゅっと抱きしめた。
「綾乃?」
「そんな風に言わないで」
 雅人の腕がそろそろと綾乃の背中に回る。
「雅人さんは、何にも出来なくなんか無いよ」
 綾乃のその言葉に雅人はゆっくり瞳を閉じて、ぎゅっと綾乃を抱きしめた。
 綾乃には計り知れない、雪人の気持ちを雅人はわからないわけではなかった。それでなくても比べられてしまう状況で、さらに母親が違う。雪人が悩みを抱えないはずがない事もわかっていて、結局は投げかける言葉さえ上手にみつけられない自分自身。
 雪人が、縋る相手に綾乃を求めているのはわかっていても、渡しては当然あげられないのだ。それでなくても、松岡と直人を身近で見ていればなおさら。
 その直人は今、穏やかでいられない心中をずっと抱えている。それに対しても、言えない事がありすぎて助言も出来ず、結局は直人が結論を出すのをじっと待っているしかない。
 自分は卑怯で、ずるい。
 雅人にはそれが、嫌と言うほどわかっていた。目を瞑ってはおけないほど。
 それでも綾乃に、そう言ってもらえるこの瞬間だけは、すべてのしがらみや問題を置き去りにして、その優しく甘い言葉だけに浸っていたいと思う。
 自分の汚れを見落として。
 さらに難しい船出に向かっている状況も全て、置き去りにして。
 ただ今は、ただ一人の男でいたいと雅人は思う。




・・・・・・・・・・




 翌日のお昼時、今日も学校が休みの綾乃は薫と翔に電話をして2人を裏道に入る角のセルフサービスのカフェで待ち合わせをした。
 話はもちろん、合宿の事。
 それと、2人に会えば胸のもやもやが晴れるかと思ったのだ。
「合宿、ねぇ・・・」
 薫は綾乃の話を聞いて、なんとも複雑な顔をした。
 若い男性二人にコバケン、子供たちと一緒に寝食を共にするわけだねぇー・・・と、心の内でしみじみと呟きながら。
「そう。なんかさ、始めは断ろうと思ってたんだけど、子供たちが可愛くてさぁ」
「つーか面白そう。俺、あいつが空手やってるなんか全然知らなかったし」
「ホントに。物の見事に隠し切ってるっていうか、モノになって無いのか」
「薫っ。コバケン結構かっこよかったよ?ビシって型決まってたし」
 ―――――格好良かった、なんて間違っても理事長の前で言わない方がいいとおもうよー・・・
「へぇ〜俺も見てみてーな」
「ホント?じゃあ午後から一緒に道場行く?」
「え、行くの?」
「うん。だってまだ合宿行くって返事もしてないし、もう1回くらい見てから決めようかなぁって。雪人くんの事もあるし・・・」
「雪人くんって?」
 合宿になんの関係があるの?と視線で薫が問い返せば、綾乃は甘いラテを一口すすって大きなため息をついた。
 そして昨夜の事を、かいつまんでしゃべれる部分だけ2人に話して聞かせた。
「それは・・・」
「ん?」
「――――難しいよね」
 薫が結局言葉を探しきれず、困った顔をしてそう呟いた。その声音の重さから、綾乃はこの問題の根深さをなんとなく感じた。
「やっぱり、そうなのかな・・・」
「まぁ、比べられていい気はしねーんじゃねぇの」
 翔のボソっとした言葉に薫と綾乃が一斉に視線をそちらに向ける。
「翔、もしかして経験あり?」
「んー小等部ん時とかはなぁー。でも俺の場合兄ちゃん出来過ぎるしさ、俺は馬鹿すぎだし。回りも比べようも無かったんじゃねーかな。中等部あがるころにはあんま、だったけど」
「馬鹿すぎとか言わない」
 薫がちょっと怒ったように言うと、翔がちょっと照れた様に口を尖らした。
「事実じゃん」
「確かに勉強は透さんの方が出来るけど、翔の方が友達たくさんいるし、人に好かれるよ。そういうの翔にしかないいいところだろ?」
「・・・今はそういう話じゃないだろっ」
 乱暴な言い方が照れてるとわかって、綾乃は"ああ・・・"と思う。きっと昔、自分がまだ出会う前彼らはきっとこんな会話を繰り返したんじゃないかと思う。
 ちょっと悔しい。その場に、自分がいられなかった事が。
「綾乃?」
「あ、うん―――その、雪人くんにもいいところあると思うんだけどなぁ。素直だし、明るいしさ。―――でもそういえば、友達の話とかあんまり聞いた事無いかも・・・・・・」
 思い至らなかったその事に綾乃はハっとした。
「あぁー・・・雪人君の場合難しいよねぇ」
「なんで?」
 綾乃の疑問を翔が口にする。
「なんでって。だって―――やっぱり南條家ってなるとみんな気構えるだろうし、その上ちょっと複雑でしょ?」
「それって、お母さんが違うって事?」
「そっ。先妻の方は家柄もある人だし、やっぱり多少の影響力もあるけど、今の方はそうじゃない上に、元々愛人だったのは周知の事実だしさぁ。雪人くんの立場って結構微妙なんだと思うよ」
 薫の、オブラードに包まないハッキリとした事実を告げる言葉に綾乃は思わず唇を噛み締めた。
 自分は親に捨てられて、親戚の家で虐められながら育って、世界が冷たくて一人ぼっちで孤独で、何もかも諦めたように生きていた。南條家に来て、暖かく迎えられて嬉しい反面、なんの苦労も無いこんな暖かい家で育つ人もいるんだと、少しいじけた気持ちになった事もあったのに。
 もしかしたら、雪人くんは自分と同じくらい孤独の中にいるのかもしれない。
 そう思うと、一人いじけていた自分が恥ずかしくなって馬鹿らしくなって、悔しくなる。
「もし将来理事長が跡を継いで、今の奥様が遠ざけられた時、雪人君がどうなるのか。もし理事長と雪人君2人の仲が悪くて、一緒に遠ざけられる様な事になったら雪人君と仲良くしている事は得策じゃない。けれどもし、今の奥様の発言力が強くなって、雪人君が南條家を継ぐ事になったら仲良くしておかなければならない。でも、今の状況ではどっちに転ぶかわからない。だから回りは、付かず離れずの距離を保ち続ける。―――――――ごめんね、綾乃にはちょっとキツい話だったね」
 青くなっていく綾乃の顔に薫が申し訳なさそうに言う。
「でも、綾乃も無関係じゃない話だと思うから。・・・ごめん」
「ううん、薫が謝る事じゃないよ。ごめん、僕がしっかりしなきゃいけないのに、なんか考えた事無かったからびっくりしちゃって。だってまだ小学生なのに・・・」
「うん、ホントにね」
「・・・雅人さん、雪人くんの事大事に思ってるし、そんな争いごととか起こらないのに・・・」
 綾乃のその呟きに薫はこっそり息を吐き出した。
 たとえ雅人がそう思っていても、雪人が将来どう思うかわからない。もし2人共にそんな気持ちがなかったとしても、周りがそうさせてくれるかどうかわからない。
 けれど綾乃にそこまで言うのはさすがに今は酷かと、薫は言葉を飲み込んで変わりに違う言葉を紡いだ。
「理事長もさ難しいと思うよ。厳しくしたら嫌いで虐めてるのかと思われるし、かといって甘やかしたら本人の為にならないだろうしね」
「うん・・・」
「でも綾乃がいるから、だいぶ救われてるんじゃないかな?」
 だからがんばって、その想いを言葉に乗せた。言うにはやはり、重すぎるかと思って。
「だといいけど」
「大丈夫だって」
 小さく呟いた綾乃に、翔は重くなった空気を振り払うように笑顔を浮かべてそう請け負った。
「誰かがさ、傍にいてくれたりするだけで結構違うもんだぜ」
「・・・」
「そうそう」
 翔と薫が何か意味ありげにそう言って、なんだか根拠があるような自信満々の顔で頷いた。
 ―――――ああ・・・そうか。
 たぶん、この2人にもそんな風に何かを重く感じたり、周囲を鬱陶しく思ったりした事があったんだ。そして彼らは、それを乗り越えるなり折り合いをつけるなり、してきたんだ。
「僕でも、大丈夫かな」
 今までの間に。
「「当たり前じゃん」」
 それが、わかった。
「さて、コバケンの実力のほどを拝みに行くかーっ!」
 翔の意地悪っぽい笑みと元気な声に、綾乃は肩の力を抜いて笑ってしまった。











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