希望と想いと嫉妬と不安 8




「綾乃、少しいいですか?」
 教室を出て数歩、雅人が綾乃を理事長室に誘った。薫たちが生徒会室で待っているのはわかっていたけれど。
「あー・・・うん」
 何故だかわからないけれど心が急速にいらだっていたけれど。でも、綾乃は雅人の誘いを拒否出来なくて、雅人の後を付いていった。
 理事長室に入ると、秘書の久保が迎えてくれる。
「三者懇談は無事終わりましたか?」
 なんだか凄くいい香りの立つお茶を入れて2人の前に置く。
「・・・はい」
「そうですか。これは頂き物の水羊羹ですが、とてもおいしいですから食べてくださいね」
「ありがとうございます」
 もしかして2人で来る事がわかっていたのだろうかというほどの早業で水羊羹まで出した久保に綾乃は小さく頭を下げると、久保はにこにこしながら下がって行った。
「さぁ、どうぞ」
「うん、頂きます」
 2人にきりになると、さっきの仏頂面はどうしたといいたくなるほどの笑みを浮かべた雅人に促され、綾乃は水羊羹を口に運ぶ。
 あれが、仏頂面ではなく雅人の対外的な顔なのだと綾乃が知るのはまだ、先。
「あ、美味しいっ」
「それは良かったです」
「うん」
 つるんとした触感に程よい甘さがなんとも言えないのだろう。綾乃はもぐもぐと嬉しそうにぺろりと食べてしまった。
 どうやら水羊羹は綾乃の気持ちを浮上させるのに十分な役割を果たしたらしい。
「綾乃は大学に行くのは嫌なのですか?」
 食べ終わったのを見計らって言われた言葉に、綾乃は思わずお茶を喉に詰まらせた。
「ッごほ・・・、え・・・そんな事は無いんだけど」
「はい」
 お茶をコトンとつくえに戻す。
「なんていうか・・・」
 綾乃は言葉を探すようにそこで言葉を切る。
「綾乃、出来れば気になっていることを全部言っていただけると嬉しいのですが」
「――――」
「そうでなければ、何を話していいのかわからないのです」
 穏やかに話しかける雅人だからこそ、綾乃は言い逃れやごまかしの言葉を言いづらくて。迷うように瞳を泳がして、小さく息を吐き出した。
「やっぱり、大学っていうと―――――お金かかるし」
「お金なんて」
「でもっ、大事な事だよ?・・・奨学金とか取ろうとは思うけど」
「綾乃、本当にそんな必要な無いんです。もし南條家から出るのが嫌なのであれば、私個人が出しますから」
「―――っ!!、それは・・・っ」
 綾乃は雅人にそう言われて、胸がカッと熱くなってわけもなく涙が込み上げて目尻に溜まっていく。
「・・・っ」
 情けなくて、格好悪い。
 でもここで泣いたりしたらもっと格好悪いと思って、唇を噛み締めた。けれど俯いた瞳からは今にもぼとりと涙が零れ落ちそう。
「あ、綾乃!?」
 焦った声に、気が余計に焦る。
 何か言わなきゃ。
「ぼ、僕・・・」
「はい」
「そういうの、ヤダ。雅人さんに出してもらうなんて・・・っ」
 だっれそれって、おかしいよ。
 付き合ってるのに。
 好きなのに。
 ちゃんと、恋人なのにっ。
「――――」
 対等で、いたいのに―――――――――――――っ
 ああ。
 そうだ。
 僕は、対等でいたいんだ。
「綾乃、私の言葉が綾乃の気持ちを傷つけたのなら謝ります。でもね、私にはどうしても綾乃に大学に進んで欲しいんです」
 だから、勝手に話を進めないで。
 勝手に僕を、守らないで。
 勝手に僕の先を、決めないで。
「・・・んで?」
 僕は僕として、ここにいたいんだ。
「これはあくまで私の願望なのですが」
「ん」
「出来れば将来綾乃には、私の秘書をやってもらえたらと」
「え?」
 予想もしていなかったその言葉に綾乃は驚いて顔を上げた。その頬には、どうやら耐えられなかったらしい一筋の涙の痕。
 雅人はそこに指を伸ばして拭ってやりたいと思うけれど、たぶん今はそれをしないほうがいいのだろうとわかる。
「傍にいて、私の仕事を手伝って欲しいんです」
 その代わり、今言える1番真摯な言葉を口にした。
「私を助けて欲しいのです」
 そうすれば、何にだって向かえっていける、きっと負けない。そう雅人は思っていたから。
「そんな・・・、え?」
 その雅人の想いを乗せた言葉に綾乃は戸惑った表情を見せた。綾乃にしてみれば、そんなこと考えた事も無かった。
 だって自分が、そんな仕事をするなんて――――――――――
「経済学や経営学、それに語学など大学で学べる事はたくさんあるでしょう。だから大学に―――」
「待って!そんな、急に言われても・・・」
 雅人の見せるその明確な将来像が綾乃の脳裏に急に差し迫ってきた、綾乃は慌てたように言葉を挟んだ。
 その戸惑いの色の深い瞳で雅人を見つめれば、雅人はただ綾乃を見つめていた。ただその瞳の色が少しばかり哀しく見えるのは気のせいだろうか?
 けれど。
「ごめん、急に言われて、頭がついて来ないや」
「そうですね、すいませんでした」
「ううんっ、違う。僕が、色々考え無しだから」
「そんな事はありません。綾乃の将来のことなのですから、ゆっくり考えて悩んでください」
 ―――――でも・・・
「ただ、いい機会だったので私の気持ちを伝えられたらと思っただけです。何も、そうしろと言うつもりはありません」
 ―――――でも・・・っ
「違う結論を綾乃が出しても、良いんですから」
 ―――――でもっ、・・・それが雅人さんの本心なんでしょ?僕が、秘書になるって。
「・・・うん。考えてみる」
「はい。ただ、本当にお金の心配はしないでください。それは置いておいて、綾乃がどうしたいのかを、まず1番に考えてください。ね?」
 腰を浮かした綾乃に、それだけはちゃんと言っておきたいと雅人は言葉を重ねた。お金などで、そんなことで綾乃の将来の道を閉ざしたく無かったのだ。
 もしそれしか自分に出来ないのなら、せめてそれだけは―――――――――
「ありがと。すぐには無理だけど・・・夏休みだし時間あるし・・・考える」
「はい」
「そろそろ戻らないと薫たち心配するから――――行くね」
「ええ。あまり遅くならないうちに帰るんですよ?」
「わかってるって」
 綾乃はそう言うと、少しまだぎこちないながらも笑ってドアを開けた。
「お帰りですか?」
 パソコンの前に座っていた久保が立ちあがり、外への扉を開ける。
「はい。羊羹ご馳走様でした―――――じゃあ」
 久保に笑顔でそう告げて、綾乃は振り返って小さく雅人に手を振った。その手に雅人は笑みを向けながら、すっかりその内にある気持ちを隠して笑う綾乃に複雑な思いを抱いていた。
 ―――――あんな風に上手に笑える子じゃあ無かったのに。
 もしかしたら自分がそう強いたのかと気になって、めったに陥らない自己嫌悪に心が囚われ出した。
「・・・はぁ」
 綾乃が階段に消えた直後に吐き出されたそのため息に、久保は扉を閉めながら雅人を振り返った。
「どうしました?」
「いや――――中々上手くは行かないものだな、と思ってな」
 雅人はそう言うと、たった今まで座っていたソファに再びその身を深く沈めた。
「しかし・・・、意外でした。雅人様は綾乃様を南條家に近づけたく無いのだろうと思ってましたから」
「近づけたくは無いさ」
 近づけたいわけが無い。
「――――――だが・・・・・・」
 知って欲しいとも思う。
 掛け値無しの、自分というものを。
 表だけじゃない裏も全部何もかも晒してしまいたい、知って欲しい。そうしても、それでも、好きだと言って欲しい。
 変わらず、好きだと言って欲しい。
 醜い部分も汚い部分も全部ひっくるめて。
 目を背けないで、見て欲しい。
「・・・贅沢な話なのかな・・・」
 これからもきっと汚れていく自分には、過ぎた望みなんだろうか。
 あの、綺麗な魂を汚すだけにしか、ならないのかもしれない―――――――――――――






「あれ、薫だけ?」
 ごちゃぐちゃになった頭と泣いてしまった顔をすっきりさせようと、洗面所で手早く顔を洗って戻ってみれば、そこにいたのは薫だけだった。
「うん。高畑先輩も翔も待ってたんだけど、高畑先輩はこれから予備校らしくって。翔はなんか親戚のおじさんが来る事になったから帰って来いって電話で」
「そっかー。ごめん、遅くなって」
 それは申し訳なかったな、と綾乃が顔を曇らせると、薫は濡れた綾乃の髪に気づいた。
「・・・理事長と一緒だった?」
 もしかして三者面談の後何かあったのかと、そんな気持ちがよぎって薫は問いかけた。雅人が手を回したとはいえ、もしかしたら綾乃に何かしかけてくる者がゼロとは限らない。
「うん、ちょっと話てて」
 けれど、この言葉で薫の危惧は取り除かれた。けれど。
「三者面談の後?」
「うん」
 ―――――じゃあ・・・
 理事長と、何かあった?
「とりあえず座れば?生徒会の用はもう無いけど、実はちょっと話もあるんだ」
「僕に?」
「うん」
 薫はそう言うと、冷たい緑茶を二つ入れて机の上に置いた。綾乃はその前に、腰をかけて、その隣に薫も座る。
「話って、何?なんか、あった?」
 薫が座って話し出すのをもどかしいように綾乃が先に口を切った。何か良くない事だろうかと、その瞳が心配そうに薫を見つめている。
「綾乃―――夏休み予定ある?」
「え?あ、合宿行くって言ったの、あれくらいかなぁ。お盆休み取れたらどこか行きましょうかって雅人さんにはいわれたけど、全然何にも決まって無いし」
「ふーん、じゃあさ、1週間くらいアメリカ行かない?」
「アメリカ!?」
「そ」
 薫の平然とした顔とは対照的に、綾乃のお尻は思わず椅子から数センチ上がってしまった。だっていきなり、海を越えて海外なんて。
 っていうか、綾乃はそんな話だろうとは思っていなかったのだ。
「って、外国だよね?・・・透先輩のいる?」
「うん。夏休みも来いって言われてて。今回は親に言ったんだよ、期間も長くなりそうだし。そしたら親も、海外を見に行く事は良いことだからって大賛成で」
「へぇー」
「僕は8月6日の登校日を後すぐたって、3週間くらいいるつもりなんだけど、その途中1週間くらいどうかなって」
「だって、透先輩と2人っきりの方が・・・」
 折角の逢瀬なのに、と綾乃が顔で思いっきり語れば、薫は苦笑を浮かべて頭を緩く振った。
「向こうだって付き合いあるだろうし、語学学校もあるしさ。3週間べったりってわけにはいかないしね。それに――――なんだかちょーっと寂しそうでさ。賑やかにしてあげたほうがいいのかもってね」
「そうなんだ?」
「うん。あ、もちろん翔も行くよ。だからさ、綾乃も是非」
「ア、メリカ?」
「うん」
 綾乃はアメリカをぼんやり浮かべてみる。そこに自分が行く。
 自分が海外に。
「パスポートの事もあるから、今夜にでも理事長に相談してみてよ」
「・・・っ、うん」
 ―――――雅人さんに、相談・・・・・・
 なんだかそれはちょっと今は大きい関門に見えた。たぶんそれは、綾乃の心理状態の問題なんだけれど。
「たぶん、反対はされないと思うんだけど。海外に行ってみるって絶対悪い事じゃないし。もちろん遊び100%なんだけどさ。それでも日本じゃ感じない何かを感じたりするしね。それっていい経験になると思うし」
「・・・・・・」
 ―――――いい、経験・・・って、何にとって・・・?
「綾乃?」
「あ、うん」
「僕も綾乃や翔と一緒に向こうで遊べたら楽しいだろうなって思うんだ。ワクワクする」
 その薫の言葉と笑顔から、薫にしては珍しく興奮してるらしい事がわかった。たぶん本当に、楽しみにしているのだろうと思う。
 けれど、綾乃は。
 なんだかどうもここ最近、身の丈に合わないような、地に足が着いていないようなそんな感覚がしてしょうがなかった。
 ―――――こんなんでいいのかな、僕・・・・・・











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