希望と想いと嫉妬と不安 9




 いつも通りの綾乃と雪人の夕食風景を見つめていた松岡の眉が、気遣わしげに形を崩した。
 雪人はいつも通り取り留めの無いテレビの話やサッカーの話を色々していて、普通なら綾乃が熱心に耳を傾けているのに今夜はどう見ても上の空で。
 さらに、どう見ても食事が進んでない。
「綾乃様?」
 呼びかけに返事が無い。
「綾乃様、もしかして、お口に合いませんでしたか?」
「へ・・・あ、え?」
 近くにまで行ってもう1度松岡が声をかけると、ハッとした様に綾乃が顔を上げた。が、松岡の言葉は完全に耳に入っていなかったようだ。
「お食事、進んでらっしゃらないようですから」
「あ、いえ、ごめんなさい。美味しいです」
「綾ちゃん?・・・なんかあったの?」
 どうやらしゃべりかけていた雪人も綾乃のいつもと違う様子には気づいていたらしい。それを、賢明の話しかけることでなんとかしようとしていた様だ。
「え?あー、別になんかあったとかじゃないよ」
 ごめんね、と綾乃は笑って、止まっていた箸を再び動かせだした。しかし、すぐに何かに心を囚われ出してしまうのが、見ていてわかる。
「綾ちゃん、何があったの?」
 そんな綾乃に心配すに雪人が顔を覗き込めば。
「心配事があるなら、話してください。話すだけでも随分楽になりますよ?」
 松岡もそれに乗っかって畳みかけて来る。
 その2人に見つめられて、綾乃は2人の間を視線をさ迷わせて十数秒。はぁ・・・と小さく息を吐き出した。
 たぶん、綾乃自身持て余していたのだろう。
「心配事とか、そういうんじゃないんです」
「はい」
「今日三者懇談があって、将来の事とか考えなきゃいけないんだなぁって思って。でも、今までってそんな考える自由とか無くて、考えた事無かったし、」
 自嘲気味な笑みを綾乃は浮かべる。
「なんか戸惑っちゃって」
「そうですか、―――そうですね、高校2年ともなればそうかもしれませんね。でも、まだ迷ってていいんじゃないですか?いますぐ結論を出す事じゃないですし」
「はい・・・」
 松岡の言葉に綾乃は曖昧に返事を返した。
 松岡の言葉は、誰もが口にするであろう言葉で、たぶんそれが当たり前の考えで間違いは無いんだろうと綾乃にも分かる。
 わかるけれど今は、その言葉では気持ちは軽くならなかった。
「それと?」
「え?」
「それだけですか?他にも何かあるんじゃないですか?」
「あ。いえ・・・あ、うん」
 なんでわかるのだろうと綾乃が瞳を大きくしばだたせれば、松岡は穏やかな笑みを浮かべてゆっくり頷いた。
「あーこれは違うんだけど・・・」
「はい」
「実は、薫に夏休みアメリカに行かないかって、誘われて」
「アメリカですか?」
「アメリカ!?」
「うん。前の生徒会長の朝比奈先輩がいま向こうで、遊びに行こうって事なんだけど・・・」
「いいじゃないですか。楽しそうですね。―――――それで何が気になるんです?」
「気になるっていうか、急な話でびっくりしちゃって」
 手放しの松岡の言葉に、綾乃はぎこちない笑みを浮かべた。やはり、海外に戸惑いを持つのは自分だけなんだろうか?
「早速パスポートを用意しなければなりませんね。そのお話は雅人様には?」
「あ、まだ」
「ではお伝えしなくてはいけませんね。行かれるのは樋口様だけですか?」
「あ、ううん。翔も――――あの、朝比奈先輩の弟の」
「なるほど」
 なんだか行く事が決定事項になりそうな空気に、しゃべった綾乃の方が戸惑いながら返事を返していると、それまで黙っていた雪人がいきなり立ち上がった。
「僕も行く!!!」
「え?」
「雪人様っ」
「僕も行く!!!」
「雪人様っ、いけません」
「・・・雪人くん」
 その、泣き出しそうにさえ見えた雪人の顔を見て、綾乃は言葉に詰まってしまった。きゅっと強く結んだ唇と、まるで涙を堪えるようによせられた眉が。
「雪人様、わがままをおっしゃってはいけません。綾乃様には綾乃様の付き合いというものがあるのですから。わかりますよね?」
 けれど、松岡の言葉は冷静だった。
「合宿にだって無理を言って付いていかれるのでしょう?」
「松岡さん、それは・・・っ」
 別に無理を言ったわけじゃない。自分だって一緒に、とそう思ったからそうしただけなのに、そんな言い方では雪人だけが責められる様で綾乃はやるせなくなった。
「綾乃様の時間を尊重なさらないと」
「松岡さんっ」
 そんなの――――綾乃がそう言いかけた時、雪人は無言のままで踵を返して。
「雪人くん!」
 唇を噛み締めたまま、食事も途中に走っていってしまった。
 その背を綾乃が慌てて追いかけようとして、松岡が行く手を阻んだ。
「松岡さんっ!」
「いけません」
「だって!」
 ―――――あ・・・、そういえばこないだもこんな事が・・・
「綾乃様。お気持ちはわかりますが、それでは雪人様を甘やかすばかりです」
「――――っ」
「最近の雪人様は少し綾乃様に甘えすぎています。それなのに、言い分が通らないとこんな風に怒って部屋へ戻ってしまう」
 ―――――怒って・・・?雪人くん、怒ってたんだろうか?
 綾乃は松岡の言い分に何か引っかかりを憶えた。
「反抗期にさしかかってるのでしょう」
 ―――――反抗期?本当に?
 松岡の言いに納得出来ないものを感じずにはいられなかったけれど、綾乃は松岡に向かってそれを口にする事が、出来なかった。
 なんだか・・・と、思うのに。
「ですから今は、放っておいたほうがいいのです」
 はっきりと形にならないけれど、なんとなく疑問が浮かんできても、子育てという意味では綾乃より松岡は何倍も経験があって、人生経験さえもっと長いから。
「――――はい・・・」
 松岡にこうキッパリ言い切られては、綾乃は従うよりしょうがなかった。






 その夜。
 皆が寝静まった頃に、ダイニングに雅人の姿があった。手元にあるのは、ウィスキーのロック。
「アメリカですか?それはいいですね」
 薫の予想通り、雅人はアメリカ行きを肯定的に受け止めて頷いた。そして、パスポートの指示を久保に出した。
「今回は完全に遊びでしょうが」
「でしょうね。しかし綾乃にはそういう事が必要でしょうね、きっと。やはり今の生活に、未だに戸惑いを覚えているようですから・・・」
「はい」
 カランっと、グラスに氷の当たる涼しげな音がする。
「雪人様ですが・・・」
「今回ばかりは我慢してもらうしかないでしょうね」
 そう言った雅人の口からは小さなため息が漏れた。
「海外に行くとなれば、さすがに陽子さんに言わないわけにはいきませんし、あの人が綾乃と2人でアメリカなんて許すとは思えませんしね」
「はい」
「いらぬ横槍を入れられては、綾乃が可哀相です」
 雪人の希望を叶えてやりたいとは、正直雅人とて思わないではないが。海外に行く機会はこれからいくらでもあるだろう。
 雪人がもう少し大きくなってからでも、遅くは無い。
「ただ、最近の雪人様は少し・・・」
「小学6年生ともなれば、あんなものでしょう?直人も結構反抗してましたよ」
「―――そうでしたでしょうか」
「ええ」
 直人の場合は、松岡に甘えて反抗していたので雪人の場合とは少し違うでしょうけどね、と雅人のその心のうちで呟いた。
 雪人は、決してバカな子供じゃない。
「もしかしたら、夏休みの間一度陽子さんが雪人と過ごしたいと言って来るかもしれません」
「許可されるんですか?」
「許可も何も、あの子の母親はあの人ですよ」
「しかし――――」
「松岡」
 ゴトンと音をたててグラスを置いて、雅人は立ち上がった。
 流れる冷えた空気と、有無を言わさぬ雅人から発せられるオーラ。
「お前が口を出す事ではない」
 そう言い切った雅人の瞳は、冷たく冴え、それはまるで氷河の短剣のように松岡を突き刺した。
 流れたのは、一瞬の静寂。
「口が過ぎました」
「いえ。私のほうこそ、キツイ言い方をしてしまいました」
 雅人と松岡。
 綾乃に出会って歩む道を変えた雅人と、今更歩む道を変える事など出来ない松岡の、それは決定的な違いかもしれない。
 雪人を、受け入れている雅人と。
 最終的には受け入れられない、松岡と。
 ある種、両輪で有り続けてきた2人の、もう越えられない壁なのかもしれない。
 許そうとする者と。
 許す事など出来ないと思う者の。
 愛を育もうとする者と。
 消え去りそうな愛を掻き集めて抱きしめる者の。
「では」
 雅人はそのまま静かにダイニングを出て行く。
 松岡はその背中を、ただ見送る事しか出来なかった。












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