・・・1・・・  


 都内某所。空には、12月の寒空がどこまでも広がっていた。
 明日からは都内全部の公立中学校が冬休みに入る。そんな今日。綾乃の通う中学校でも終業式を終え、ほとんどの生徒が待ちに待った冬休み到来になんとなく学校全体が浮き足立っていた。クラスメイトも嬉々として次々教室を出て行く。
 そんな中で一人、綾乃は浮かない顔でため息をついた。
 綾乃の両親は、すでにもう存在していない。
 綾乃が物心ついた時すでに母はこの世の人ではなかったし、父はその後、綾乃が小学校にあがる直前に行方不明になった。それ以来父からはなんの音沙汰もなく、今はもう生きているのか死んでいるのかすらも分からない。
 最近は、記憶に残るわずかな父との思い出も、随分と記憶の中から零れ落ちて失くしてしまっていた。
 そして一人取り残された綾乃は、ずっと叔父に面倒をみてもらっている。
 ――――はぁ・・・
 帰りたくない。ポトリと落とされる綾乃の本音。
 ふと気づいて見渡せば、クラスに残っているのは綾乃と、日直の二人。そしてその二人を待つ友人達だけになっていた。握り締めていた鞄には、汗で出来た濡れたシミがある。綾乃は、日直に急かされる前にと急いで教室を出た。
 シーン・・・っと、さっきまでの喧騒が嘘の様な廊下。そこに重たい綾乃の足音が、大きな音をたてて響いて 音をたてた。


 綾乃は高校に進学する事を諦めていた。
 これ以上叔父の家に負担になりたくなかったし、それ以上に叔父の家にいたくなかった。早く出て行きたかった。担任には住み込みで就職出来るところがないか探してもらってはいたが、なかなか上手く進まなかった。
 というのも、叔父がその事に反対だからなのだ。叔父は、高校は行きなさいと言って納得しなかった。
 それは、中卒は世間体が悪いから。
 そして、世間に"自分が行かせなかった"と思われるのが、嫌だからだ。中卒で追い出したと思われたくないだけなのだ。けれど、叔父が後見人である事は間違いなくて。その叔父が反対しているのに、担任が就職の話を進める事は出来ないらしいのだ。
 しかし、綾乃にはどうしても後3年もあそこに居続ける事は出来なかった。我慢できない。それこそ、気が狂ってしまうと思った。
 そんな叔父との話し合い、いや綾乃が一方的に言われ続ける日々が連日続いていた。それは叔父一家の冷ややかな目にさらされながら行われ、綾乃はその事を考えるだけで最近は食事も喉を通らなくなって来ていた。胃が痛み、吐いたりする事さえあった。
 そんな状態なのに、さらに明日から冬休みだなんて。
 ――――学校に休みなんてなければいいのに・・・
 冬休みは大嫌いだった。まず、すぐにクリスマスがやってくる。そしてお正月。夏休みや春休みよりもずっと、"家族"という物を見せ付けられる行事が多くて、綾乃はいつも居場所に困った。
 場違いなところに連れ出された、居心地の悪さ。
 いっその事完全に無視してくれたらいいのに、おざなりに声だけはかけてくる。
 クリスマスは何か欲しいものがあるのか?
 パーティーには出席するのか?
 初詣に行くか?
 親戚の集まりがあるが一緒に行くか?
 叔父のただの自己満足の言葉。
 叔父には、"こっちは誘ってやったのに断られたので仕方がない"いう大儀名文が必要なのだ。だから、綾乃も何か断る口実を考えなくてはいけない。叔父の機嫌を損ねないような、うまい断り方を。
 ――――本当に、帰りたくない。
 ・・・・・・もし、本当に・・・このまま帰らなかったら僕はどうなるんだろう?
 最近よくそんな事を考える。パッと消えてしまえればいいのに、と。あの日父が消えたみたいに。
 のろのろと歩く視線の先に見えてきた正門。あの門をくぐって、いつもとは真逆の方向へ進んだら一体どこへ行き着く事が出来るのだろうかとふと考えて、しばらくの間綾乃は門を眺めていた。
 けれど、そんな事が出来るはずもない。綾乃は所詮根性のない自分に嘲笑の笑みを浮かべて足を踏み出した。
 逃げる勇気も、逆らう勇気も、立ち向かう勇気も所詮自分には無いのだ。
 門をくぐって、いつもの道のりを通って帰って、そして何も変える事の出来ない日々が続く。諦めた様にそう思いながら綾乃が学校の門をくぐった、その時。
「夏川綾乃クンですね?」
「・・・っ!」
 いきなりフルネームを呼ばれて驚いて顔を上げると、綾乃の目の前にまったく見知らぬ男が立っていた。
 少し茶色がかった髪を後ろにきっちり撫でつけて、ダークブラウンの切れ長の、少しキツい印象の瞳にスッと通った鼻筋。それは大人の男っぽさを漂わせた整った顔立ちで、服は見るからに高そうなダークグレーのスーツをさり気なく着こなしていた。ドット柄のネクタイが少し意識しすぎて嫌味なくらいだ。
 そして道路には人目で高級車とわかる黒塗りのピッカピカの車が止まっていた。
「・・・誰?」
 綾乃の声が少し掠れていた。
 綾乃には目の前の男が堅気の人には見えない気がして、最近聞いた"人身売買"の文字が脳裏によぎる。
 実際綾乃はその筋の人を見たことがあるわけでは当然ない。漫画などで読む、かっこいい若頭のイメージに目の前の男がピッタリだっただけなのだ。だから実際のところからはだいぶかけ離れているのだが、綾乃はそれはわかっていない。
 ――――かっこいい人だなぁー・・・・
 だからこんな印象。けれど綾乃は、同じ男なのに自分との違いに見惚れていた。
 綾乃は中学3年生とはいえ、背は160に届かず、体つきはちょっと痩せぎすしてて貧弱で、少しクセのある漆黒の髪が伸び放題で毛先はくねって来ている。さらにでっかい瞳の所為で、お世辞にも男らしいとはいえない顔立ちをしていた。
「はじめまして。私は南條雅人と言います。私はあなたのお母さんと少し縁がある者です」
「・・・え・・・、母・・・?」
 まさか"母"という言葉が出てくるとは思っていなかった綾乃は、戸惑いの色をその顔に浮かべる。そんな綾乃に、南條雅人と名乗った男は、社交辞令の笑みを浮かべた。
「はい。それで、今回あなたの事を私の家で引き取る事になりましたので、本日迎えに来ました」
「はぁ・・・え!?は・・・え?あの、引き取るって・・・」
 あまりに想像と違う言葉で、綾乃は率直に驚いてしまう。
 ――――人身売買じゃないんだ?
「え・・・僕、あの・・・何も、聞いてないんですけど・・・」
「はい、私の方から直接お話をしたかったので、叔父さんにはその様にお願いしていたのです。綾乃くんには、いきなりの事で驚かせてしまって申し訳ないと思うのですが。それで詳しい話を今からさせていただきたいのですが、お時間よろしいですか?」
「今から、ですか?」
 綾乃が校内でぐずぐずとしていた所為でお昼は十分に回っているが、確かに夜までなら時間はあたっぷりある。しかし、今からとは急すぎる話だ。
「はい」
 けれど、雅人は何の躊躇いもなくキッパリ頷いた。
 ――――まぁ・・・、どうでもいいか・・・
 綾乃は雅人の態度に逆らう気にもなれずに、疲れたような笑みを浮かべて頷いた。
「わかりました」
 この目の前の男は確かに名を名乗ったが、それが本当かどうかも何もわからない。今の時点では十分怪しいとも思ったが、拒否したところでどうにかなるものでもないのだろう。むしろ、帰りたくないのだからついて行ってもいいかと思ったのだ。
 そう、本当にもうどうでもいいと思った。
 もしこの目の前の男が人攫いで綾乃を殺してしまうと言うなら、それならそれでむしろちょうどいい、そんな感情。
 綾乃は雅人に言われるままに車の後部座席、雅人の隣に乗り込むと、運転手は行き先も言わず車を走り出させた。綾乃はあえて、どこへ向かっているのかを尋ねようとは思わなかった。それぐらいなんだか投げやりな気分になっていた。そんな綾乃の横顔を、雅人は少し不審気な面持ちで眺めていた。
 ――――落ち着いている・・・というよりは、むしろ・・・
 雅人は今日ここへは、面倒な事を押し付けられたと思いながらやって来ていた。中々校内から出てこない綾乃には、正直かなりの苛立ちを覚えていた。
 しかしこの横顔を見た時、初めて綾乃という存在に興味を覚えた。この年齢で全てを諦めて捨てているその横顔に、心が微かに揺り動かされた。
 もちろん今は、雅人自身自分のそんな思いに気を止める事はなかったが。
「時間もあまりありませんし、早速説明を始めてもよろしいですか?」
「はい」
 ――――ああ・・・本当に説明、あるんだ。
 てっきり嘘だと思い始めていた綾乃が、少し驚いた顔になったのだが、その顔の理由を雅人は、自分がいきなり声をかけて驚かせたのかと思い、少し声のトーンを落としてしゃべりだした。
「実は、私たちはつい最近になって初めてあなたの存在を知りました。それで慌てて先日、叔父さんのお宅にお伺いしたんです」
「・・・・・・」
「そこで色々お話をさせていただきました」
「・・・」
「これは少し言いにくい事なのですが、叔父さんの経営なさっているベーカリーチェーンの方が、今あまり良い状態とはいえないようですね。ご存知でしたか?」
「いえ・・・」
 綾乃は雅人の言葉に驚きを隠さず、首を横に降った。だってまったく知らない事だったのだ。叔父の会社が苦しい状況だったなんて。だってその生活はいつもと変わりないように感じられていたし、高校だって行け行けとうるさく言ってきたのに。
「それで、私たちは綾乃さんを引き取りたいと考えていましたので、それだったらと言っては失礼なのですが、是非うちでとお話しますと、叔父さんも了承してくださいました」
 ――――えっ・・・、と?
「綾乃くんにとっては、大人の都合であっちに行ったりこっちにいかされたりと、ご不満に思う事もあるとは思いますが」
「いえ・・・」
 綾乃は、雅人の言葉に緩く首を振った。そんな事、自分が言える立場ではない事はわかっている。そんな言い方は、嫌味にしか聞こえない。
「もちろん、綾乃くんがどうしても嫌だとおっしゃるなら、私どもも無理にとは言いません。代わりに、叔父さんの方へ少し援助させていただく形で、あなたの事を見守っていきたいと考えています。もちろん高校へも進学できるよう手助けさせていただきます」
「いえ、高校へ行くつもりはありません」
 ――――だから、大丈夫です。
「そうなのですか?」
「はい」
 ――――あなたの、負担にも、ならないつもりですから。それは、少しは迷惑かけるでしょうが・・・
「実は我々の南條家では学校経営もしていまして、綾乃くんさえよければ、私たちの高校へ通っていただきたいと考えていたのですが」
「・・・」
 ――――・・・は?
「中卒が悪いとは言いません。しかし今の時代高校を卒業していることはあなたの将来にとって決してマイナスにはならないと思いますよ。それに、あなたの成績では勿体無い」
「・・・・」
 ――――・・・それは、あなたの見栄ですか?それとも、世間体ってやつ?
 そんなの、押し付けないで。もう、いらないから。
「まぁ、その事はまだ時間もありますし、ゆっくり考えましょう。それよりも、私と来ていただけるのかどうかの方が心配です。急な話で、綾乃くんが混乱されているのは承知のうえですが、お返事は今いただきたいのです」
「今?・・・返事」
「はい。私どもと来ていただけますか?」
 ――――・・・は、っはは・・・
 綾乃の瞳が一瞬歪んだ。
 返事?自分に選択権などあるわけがない。叔父が賛成していて、こうやって迎えに来ておいて、綾乃に返事をしろと言う。選ぶ自由などありはしないのに、そんなものがあるとも思っていないくせに、なんで大人はこんなに汚いのだろう。
 ずるくて。
 最低だ。
「よろしくお願いします」
 ただ、その言葉と共に綾乃には頭を下げる事しか出来なかった。それ以外出来る事は何もなかった。何一つ、無い。
 こんな事を繰り返すたびに、カタっとどこかで音がして綾乃の何かが欠け落ちていく。
 もう、壊れきっていると思っていたのに、心がキシっと痛んだ。
 自分でもなんてバカだろうと思うけれど、心のどこかで、叔父に少しは気にかけてもらっているのではないか、高校進学も、少し、ほんのちょっとくらいは自分を思って言ってくれているのではないか?そんな、淡い期待を捨てきれなかった。
 しかし、自分はこんなに簡単に捨てられる物なのだ。
 いや、しかしもし本当に叔父の仕事が順調でないなら、僕よりも自分の子を優先させるのは仕方ないのでは・・・そこまで考えて、綾乃は自嘲気味に苦笑した。
 自分は何を期待しているのだろう。叔父は厄介な物はほかに引き取り手があるなら、さっさと放り出すに決まっている。当然の事だ。
 分かっている、
 分かりきっている結論なのに、綾乃の瞳には涙が込み上げてきた。
 泣きそうになっていた。
 そして、まだ泣ける自分に驚いた。
「良かった」
 そんな綾乃の思いとはうらはらに、雅人はホッとしたように笑った。
「瀧、自宅へ向かってください」
「はい」
「自宅?・・・あの、自宅って?」
「南條家です。あなたの部屋はもう用意してあるんですよ」
「あの、叔父には?それに、着替えや荷物も・・・」
「一通りのものは揃えてありますから大丈夫です。残りの荷物は明日すぐに運ばせます。叔父さんにも了解はもらってますから、安心してください」
 ――――なに、それ・・・
「でも、挨拶くらいは・・・」
 ――――待ってよ・・・
「ええ、後日、一緒に挨拶にうかがいましょう」
 綾乃が見上げた雅人は、既にもう前を向いていた。その横顔に、綾乃はポツリと言葉を返す。
「・・・そうですね」
 綾乃の口を挟む余地なんてなかった。
 ほら・・・、また、カタって音がした。
 心が冷えてく。
 最初からこのまま南條家に行く事になってたんでしょう?叔父さんはもう僕に帰ってきて欲しくなかったんでしょう?なら、そう言ってよっ。
 面倒だって言ってよ。
 厄介だって言ってよ。
 それでいいから。
 嘘よりも、その方がずっとずっといいからっ
 南條さんだって、押し付けられちゃったんでしょう?
 何が嫌なら断っても、だ。結局、そういう事じゃないか。ちょっと優しそうな顔に騙されそうだった。この人だって所詮、僕の味方じゃない。そんな人、いるはずない。
 誰も、僕なんか必要じゃない。
 好きじゃない。
 好きになんてなってくれない。
 愛してなんて、くれない。
 僕なんか、愛されるわけがない。
 抱きしめてなんてくれない。
 きっと僕には、生まれてきた意味もない。  

 そうでしょ?





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