・・・2・・・  


 綾乃が連れて来られた家は、叔父の家よりも数段も立派な物だった。
 まず、レンガ作りの塀が屋敷を囲み、正面には大きな門扉。車が近づくとその門扉は自動的に開かれて、そのまま進むと、よく手入れの行き届いた庭木に彩られた玄関が見えた。
 その玄関の扉が中から開かれる。
 ――――だれ・・・?
 40歳を少し過ぎたくらいだろうか?穏やかな笑みを浮かべ黒のスーツをきっちり着込んだ男性が現れた。
「お帰りなさいませ雅人様。はじめまして綾乃様」
 男性はそう言って車から降り立った綾乃と雅人に頭を下げる。
「彼は松岡と言いまして、この屋敷の一切を取り仕切ってもらっています。何かわからないことがあれば、この松岡に聞くといいですよ」
「はい。よろしくお願いします」
 雅人の紹介に淡々と頭を下げた綾乃に対して、松岡と言われたその人は優しい笑顔で笑いかけた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 ――――・・・、っ・・・
 その初めて触れる様な穏やかな笑みに、綾乃は思わず戸惑うように瞳をさ迷わせて唇を噛む様に俯いた。わかっているのに、優しい笑顔を向けられるとつい期待したくなってしまう心が、ざわつく。
「さぁ、綾乃中へ」
 動揺していたのか、雅人の呼び方が少し変わったことにも綾乃は気づかなかった。
 足を踏み入れた玄関は大理石張りになっており、天井は吹き抜けになっていた。広い廊下はぴかぴかのフローリングで、壁に飾り付けられてある照明はかなり凝った百合の花の形を模った細工物だった。
 綾乃は20畳くらいあるだろう客間に通された。その客間も、見るからに高価そうな革張りのソファが、真ん中にはこれまたアンティーク物だろうか、高そうなローテーブルが置かれていた。床はふかふかの絨毯で、壁にもたぶん高価なのだろう絵画が飾られてあった。
 ――――別世界だ・・・・
 綾乃は、あまりきょろきょろするのはいけないと頭では分かっていても、あまりの物珍しさにそれを止める事は出来なかった。
 綾乃が雅人に促されるままに、その革張りのソファに座ってほどなくして、松岡が紅茶とおいしそうなケーキを運んでくる。
「雅人様、お部屋のご用意は整ってあります。荷物は明日の午後には運ばれてくる用、手配いたしました」
「ああ、ありがとう」
 松岡は必要な事だけを告げるとそのまま下がっていき、部屋には綾乃と雅人二人になった。
「さあ、さめないうちに。甘い物は嫌いですか?」
「いえっ」
 綾乃は慌ててかぶりを振った。綾乃がそれを口に出来る機会はめったになかったが、綾乃はケーキなど甘いものは大好きだったのだ。ただ、あまりに違和感のある空気になんだか手を出すのが躊躇われる。
 それに、大人の"良い"という言葉がしばしば反対の意味を持つことを知っている綾乃は、逡巡するように視線を泳がせた。
「遠慮する事はありませんよ?」
 そんな綾乃の態度が雅人は意外だったのか、声がその驚きを表していた。
「・・・はい」
 綾乃は、雅人の言葉に意を決したように手を伸ばした。
 どうせ嫌われるなら食べておいた方が良い、そんなしたたかな思いも少しあった。
 しかし、せっかっく口にした紅茶はあったかく緊張した体には染み渡たるはずだったのに。ケーキも、普段綾乃が口にするよりもずっとおいしく上品な甘さがさすがと言われる高級有名店の物なのに、今の綾乃は自分が思っているよりも緊張してしまっていて、味を味わう余裕などまったくなかった。
 そんな様子を見て雅人は、少し苦く微笑んでだ。
 綾乃の姿は、肩に力を入れて必死に立っている様に雅人の目には映って、15歳のその姿が少し痛い痛しく思えた。
 雅人は綾乃が一息つくのを待って、声をかけた。
「さて、綾乃には申し訳ありませんが3学期はここから通ってもらう事になります。少し遠いので近くまで車で送り迎えをさせましょう。先ほども言いましたが高校はできればうちの高校に通っていただきたいと考えていますが・・・まぁ、その事はこの冬休みの間に色々話をしましょう」
「あの、南條さんが経営されている高校って?」
「ああ、桐乃華学園です。一応、幼等部からの大学院まであるのですが、知っていますか?」
「・・・はい、もちろん」
 綾乃は雅人の口から出た言葉に、思わず目を見開いた。知ってるもなにも桐乃華学園といえば、レベルも高い上にお金持ちの通う学園として有名な男子校ではないか。お金持ちが多いとあって施設も充実していており、その上自由な校風なので、かなりの人気校となっている。毎年入学希望者が多く、一般の生徒の間でも人気の高い憧れ校の一つにあがっている。
 ――――それをこの人がやってるって・・・
「それと私には弟が二人いまして、一人はこの春大学を卒業します。南條家は学校経営の他にホテル経営もやっていまして、弟はホテル業を継ぐ予定で春からは修行の身に上になります。たぶんほとんどホテルに泊り込む事になり、あまり一緒に住むという感じではなくなってしまうと思いますが。もう一人の弟は少し年が離れていまして、今小学4年生です。両親は今、海外ですね」
 ――――凄い・・・僕とは本当に完璧に別世界だ。
 綾乃は内心げっそりして来ていた。こんな所で自分がうまくやっていけるハズがないと思うのだ。住む世界が違いすぎる。学校経営に、ホテル経営だなんて。
 ――――ん?・・・でも、1番下の弟が小4?
「あの、・・・・失礼ですが、南條さんって今おいくつなんですか?」
「わたしは25歳です」
 ――――え!?
 25歳!?・・・てっきり30超えたくらいかと思ってた綾乃は、雅人の返事にかなり驚いていた。見た目も雰囲気も25歳にしては落ち着きすぎていたのだ。
「その驚き方は、私の事をもっと歳上だと思っていましたね?」
 雅人は、ちょっと怒った様ないたずらっぽい目で綾乃を見つめた。口元に笑みが浮かんでいたので、怒っているわけではないようだと綾乃は思ったのだが、とっさの言い訳も思いつかずかなりしどろもどろの返事をしてしまった。
「あ・・・いや・・・そのなんか雰囲気とかが凄く落ち着いているので・・・それに仕事もなんだか、凄いし」
 綾乃のその反応に、雅人は含み笑いを漏らした。自分の周りにはまったくいないタイプの反応が新鮮に思えたのだ。そして、必死で自分を覆う中に見え隠れする綾乃の子供らしさや素直さが好感を持てた。
 ――――どうなるかと思いましたが、なんとかなりそうですね。
 正直先日会った、綾乃の叔父には辟易させられるものがあったので綾乃はどんな子供なのかと雅人は少し冷ややかな思いも抱いていたのだが、これで一安心という思いなのだろう。
 二人はしばらくの間たわいもない話をしてから、雅人は綾乃を用意させた部屋へ案内した。綾乃の部屋は2階への階段を上がってすぐの場所。
「どうぞ」
「はい」
 ――――・・・えっ・・・
「・・・これ、僕の部屋ですか?」
 促されるままに足を踏み入れた部屋は10畳ほどの広さだろうか。セミダブルサイズのベッドに勉強机と、小ぶりのソファとローテーブルがあり、テレビやDVDが見れるパソコンもある上に、大きなクローゼットには洋服まで用意されてあった。
 ――――なに、これ・・・すごい・・・
 叔父の家では4畳半ほどの小さな部屋にベッドと机しかなかったのに。昨日というより、今朝までそこで生活していたのに。一体この部屋はなんなんなのだろうか。
「ええ、そうです。何が必要かわからなかったので、うちの学生に聞いて揃えたのですがこれでよかったですか?何か、足りない物があったら遠慮せず言ってくださいね」
 綾乃は無言で首を横に振った。
「十分、すぎます。それに、パソコンまで……僕、使えません」
 あまりに信じられない光景に、綾乃は眩暈がしそうだった。
「今の時代パソコンは必須でしょう。細かな設定はしてありますからすぐ使えるようになりますよ。本棚にはパソコンの本も揃えて置きましたから。何かわからない事があったら、私でも、松岡にでも聞いてください。いつでもお教えしますよ。ああそれと、靴だけはサイズがちゃんとわからなかったので用意出来ませんでした。今度一緒に買いに行きましょう」
「いえ、そんな、靴は今までの物がありますし」
 綾乃はかなり慌てて首を振って、その申し出を断った。もうこれ以上は、恐ろしかった。今までとの違いにもさることながら、こんな至れり尽くせりなのは返って恐怖感を生んでいた。

 絶対に何か裏があるに違いない!!と、考えてしまうほどに今の自分の状況が信じられなかったのだ。






 その日の夕食の席で、雅人は二人の弟を綾乃に紹介した。
 雅人のすぐ下の弟が南條直人。外見は今風の髪を短くしてソフトモヒカンに近い様な型にピアス、服装もTシャツにGパンとかなりカジュアルな物だった。
 もう一人、一番下が南條雪人。くりくりの大きな目と、少しクセ毛らしく長めの黒髪の襟足がくるくるっと巻いて、女の子かと思うほどかわいらしい。背も、少し小さめの様だ。
 なんの屈託もなく笑うその顔を見て、綾乃は愛されて育ってるんだろうなぁと思った。
「ま、最初は戸惑うこともあるだろうが、そのうち慣れるよ。よろしくなっ」
 直人は気安く綾乃の背中をぱんぱん叩いた。
「よろしくお願いします」
 ――――この人が、ホテル経営・・・
「雪人も綾乃が来るのを楽しみにしていたんですよね」
「うん!よろしくねぇ。仲良くしてねっ」
「うん、よろしく」
 綾乃は内心思いっきり戸惑っていたが、なんとかそれを顔に出さないで挨拶する事が出来た。彼らのこの好意的な行動が本心なのか、それとも建前なのか綾乃にはさっぱり判断が出来なかったのだ。叔父の家とは違う雰囲気に違和感すら覚えて、自分がどう対応していいのかまだわからなかった。
 それでも、その日の食卓は綾乃にとって久しぶりに楽しい食卓だった。
 直人はひょうきんで面白みのある人らしく、話も上手で思わず笑ってしまったし、雪人が学校での事を一生懸命話している姿もかわいかった。雅人は聞き役に徹していたが、あまり口を開かない綾乃に話題を振ったりしてくれ、綾乃も会話に入っていく事が出来たのがなによりうれしかった。
 なんだか、叔父の家よりは上手くやっていけるんじゃないだろうか。そんな安堵した思いもあった。
 しかしその夜、綾乃はなかなか寝付く事が出来なかった。一日のうちに色んな事がありすぎて心身共にとても疲れていたのに、やはりこれから先への不安と期待が心の中を渦巻いていたのだろう。
 綾乃が寝付いたのは、空が少し白みだしてからだった。




・・・・・・




 次の朝、いやすでに昼という時間、綾乃は慌てて階下に降りて行った。昨夜はなかなか寝付けずすっかり寝坊してしまったのだ。なんと起きたら11時を少し回っていた。時計を見た瞬間綾乃は真っ青になって飛び起きた。
「綾乃様、おはようございます」
 ダイニングに飛び込んだ綾乃に、昨日と同じように、優しそうに笑みを浮かべた松岡が声をかけた。
「松岡さん、おはようございます。僕、すいません、こんな時間になってしまって」
「いえいえ、疲れていたんでしょう。いきなり生活が変わったんです、無理もありませんよ。雅人様も起きてくるまでおこさないようにとおっしゃって行かれましたから」
「そんな、本当にすいません・・・」
 綾乃は恥ずかしさと自分の至らなさに思わず俯いてしまった。
 それに、松岡がこうは言ってくれても、雅人や直人、雪人の本心がどうかはわからない。
 以前、同じような事をして叔父やその奥さんにさんざん嫌味を言われた記憶が鮮明に蘇えり、綾乃はその時の惨めさに唇を噛んだ。
 その様子を見て、松岡は眉をしかめた。
「さ、顔を洗って。おなかすいたでしょう。すぐ、食事の用意をしますね」
 松岡は綾乃の髪をくしゃりと撫でて優しく上を向かせた。その瞳が今にも泣きそうの揺れていて、松岡の気持ちを悲しくさせた。
 ――――雅人様のおっしゃってた通りだ。まだ子供なのに、こんなに気苦労してこんな顔をするなんて。
「・・・はい。すいません」
「何も謝る事はありませんよ」
「はい」
 それでも綾乃はうなだれた様子で洗面所に向かった。
 せっかく昨日はいい雰囲気だったのに。あと3ヶ月くらいの事でも楽しくやれるんじゃないかと期待していたのに。初日から寝過ごすなんてきっと呆れられてしまったに違いないという思いが綾乃の頭の中をいっぱいにした。呆れて嫌われたら、また叔父の家での様な冷たい視線にさらされて過ごさなければいけなくなるのだろうか。
 それを考えると、食欲など一気に失せていた。
 しかし、せっかく用意されたものを残してはさらに印象が悪くなるにちがいないと思い、綾乃は無理矢理胃に食べ物を押し込んだ。
 昼ごはんを食べ終わった後もなんとか朝の事を挽回したいと思い、自分が使った食器類を洗おうとしたが、松岡にそんな事はしなくていいのですと止められてしまった。確かに、よく考えれば自分などが洗って食器を傷でもつけたら大変な事だと綾乃は考えつき、自分の行動が凄く恥ずかしくなって、またひどく落ち込んでしまった。
 与えられた広い部屋の隅に、いつものクセで膝を抱えるように小さくなって座った綾乃が一人落ち込んでいると、叔父の家から荷物が届いたと松岡が呼びに来た。綾乃は急いで引き取りにに表に出てみると、小型トラックに荷台にはダンボールが二つ、所在無げに乗っていた。
 確かに、荷物といっても綾乃には持ち物がほとんどなかった。数枚の衣類に、教科書や辞書などの勉強道具。そして、数枚の両親の写真。
 その中に自分が移っている物は1枚もなかったけれど。
「これだけですか?」
 あまりの量に松岡は思わず、綾乃に尋ねた。
「・・・はい」
「そうですか」
 綾乃は、そのダンボールを部屋に運んだ。
 そして部屋にぽつんと置かれた二つのダンボールを眺めていると、むしょうに悲しくなってきて、綾乃はベッドに突っ伏して声を殺して泣いた。
 15年生きてきて、自分にあるのはこのダンボール2つだけなのだ。
 それ以外に何も無い。それが、あまりにも惨めだった。
 その日の夜、綾乃の部屋へ雅人がやって来た。
 今日の報告を松岡から聞き、さらに夕飯の時には青い顔をして、無理に笑っていたと聞かされれば話をしなければという思いにかられたからだ。
 ノックしても返事がなく遠慮がちに扉を開けて雅人が部屋へ入ると、綾乃はかなり驚いた顔をして、横になってた体を慌てて起した。
「おかえりなさい。すいません、帰ってこられたのに気付かなくて」
「いえいえ、かまいません。私も直人も帰宅時間はかなり遅いのが通常ですからね。そんな事気にすることはありませんよ」
 立ち上がろうとする綾乃の体をそのまま押し留めてベッドに座らせ、雅人もその横に腰掛けた。
「今朝も、すいません、すっかり寝坊してしまい、お見送りも・・・」
「綾乃」
 恐縮して、下を向いて言い募ろうとする綾乃を雅人はさえぎった。
 そんな言葉をききたいわけじゃない。
 そんな事は謝る必要はない。
 そんな風に思っている、他人に気をかけている自分が雅人には意外だった。
「はい」
 しかし、綾乃は思わず途中でさえぎってしまった雅人の声を怒っていると思ったのか、引きつった顔を雅人に向けた。
 雅人は引きつって青ざめた綾乃顔を見つめていた。
「そんな事謝らなくていいんですよ」
 綾乃を見ていると、なんともわからない、雅人の中にある庇護欲のような物を掻きたてられた。
 はじめは綾乃を引き取るように"命令"されて、面倒事だとしか思えなかった。部屋には色んなものを取り揃えておいて、わざわざ自分で出迎えにまで行ったのは、自分に命令した相手への当てつけという思いが強かったのに。純粋に喜んでいるらしい綾乃を見て、揃えておいて良かったと思えたのだ。
「ここでは、もっと楽にしていてください」
 ――――なんだろうか、この気持ちは。
「・・・らく?」
「ええ、そうです。――――ここを、自分の家だと思って」
 それを聞いて、綾乃の瞳がくしゃりと歪んだ。
「いえ?」
「そうです。家族だと思ってくださっても」
 "家族"
 ――――かぞく・・・?
 綾乃には生まれていままで、家族が居た事なんてなかった。いつも一人だった。それなのにそんな事を言われても、綾乃はそれこそどうしていいのか分からなかった。
 ここで生活する以上雅人の望む様でいなくてはいけないと思うのに、それは分かるのに、知らないモノになれと言われてはそれでは一体自分がどう振舞えば良いのかがわからない。
 どうすれば、気に入ってもらえるのか。
 せめて叔父の家でのような冷たい目にさらされないで生活したかった。そのためは、どんな我慢も、努力もしようと思っていた。その答えを必死で探そうと考えていたのに。
「綾乃・・・?」
 目を開いて見つめてくる綾乃の瞳に、涙が溜まっていく様に雅人は驚いて声を上げる。雅人には、綾乃に涙の理由がわからない。
「・・・僕、には・・・家なんてないから。家族とか、いないから・・・」
「・・・・・・」
「どうしていいのか、わかりません」
 だって知らないもの。知らないものには近づけないから。
 綾乃の中が絶望で一杯になって、留める事の出来なくなった涙が大きいな目から零れ落ちた。一生懸命我慢していたソレは、一端流れ出すと綾乃にもどうする事もできなくて、慌てて下を向いて目をこすった。
 ――――泣くなんて――――っ、かっこ悪い。しかも僕今、何を口走った!?
「っごめんなさい、ごめんなさい―――――!」
 慌てた声で謝る綾乃を、雅人は思わず強く抱きしめた。
「謝る事はありません。今の発言は、私が軽率でした。申し訳ありません」
 雅人は自分が、ここ何年と口にしたことのなかった謝罪の言葉をなんの意識もしないで吐き出した。それくらい、後悔していた。
 綾乃は雅人の腕の中で、必死で首を横に振る。その綾乃の体を、雅人はさらに強く抱きしめた。
「綾乃、聞いてください!私たちはあなたの家族になりたいんです。もちろん急には無理でしょうが、少しずつ少しずつでいいのです。綾乃の事を私たちに教えてください。そして、私たちの事を知ってください。焦ることはありません。時間はまだたっぷりあるんですから。ね?」
 何を口走っているのだろうかと雅人は思う。こんな血迷った言葉。
「家族・・・」
「そうです。私たちではダメですか?」
 綾乃は、雅人とは直接関係があるわけでもなくただ押し付けられた厄介ごとに過ぎないのに。雅人の仕事を増やそうとして、見つけられただけの存在なのに。
「・・・僕・・・」
 真っ直ぐに見上げてくる綾乃の視線を雅人は真っ直ぐに見つめかえすと、綾乃のその瞳が雄弁に綾乃の気持ちを語っていた。大きな不安と戸惑い、そしてかすかな期待とを。
「それから、あなたは謝りすぎですよ。松岡も心配していましたよ。それに遠慮しすぎです。話したい事があればなんでも話してください。一人で悲しんだり苦しんだりしないで」
「・・・・はい・・・」
 雨の日に捨てられて震えている子犬をそのまま見捨ててはいけないような、そんな思い。そんな思いに雅人は駆られていた。家に連れ帰って身体を拭いてやって、これも縁かと飼ってあげようかと思うそんな気持ち。
「私たちがそう思っている事を覚えておいてください。いいですね?」
「はい」
「良かった」
 雅人はもう1度綾乃を抱きしめて、その髪を優しく撫でた。
 綾乃が、泣きやんだのを見て、そのほほに優しくキスをした。
「っ!」
 その行為に綾乃は真っ赤になった。雅人としては、雪人にするようについ習慣でしてしまったのだが、家族にもそういう事をしてもらった経験のない綾乃は真っ赤にならざるを得ない。
「ああ、すいません。雪人にやるように、つい」
 すいませんと、全然悪いとも思ってない笑顔で言い、綾乃が少し落ち着いたのを見計らっておやすみなさいと言って、雅人は部屋を出て行こうとした。
「あ、あのっ」
「はい?」
「ひとつだけ・・・聞いてもいいですか?」
「もちろんですよ。ひとつと言わずなんでも聞いてください」
 雅人はうれしそうな笑顔を向けて綾乃のそばに戻って来た。
「あの・・・最初の時、雅人さんは僕を引き取るのは母と少し縁があるっおっしゃったんですけど、それは、どういう・・・?」
 それは、綾乃がずっと気になっていた事だった。しかし、中々聞けずにいたのだ。
「ああ、説明するのをすっかり忘れていましたね。その事なのですが、もう少し待ってもらえますか?実はこのお正月に、両親が一時帰国するのですが、どうしても自分から話したいと言っているんですよ。・・・かまいませんか?」
「・・はい、わかりました」
「すいません。ああ、それから、私たちにそんな敬語は使わなくていいですよ?私のしゃべり方は仕事柄クセですが、綾乃がそんなしゃべり方する必要はありません。いいですね?」
 優しく、いたづらっぽく、しかし絶対的な問いの言い方が、なんだか雅人らしく、綾乃の緊張を少し軽くしてくれた。
「・・・はい」
 だから、少し笑顔で返事が出来た。
「よろしい。では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 もう1度、綾乃の頬にキスをして、雅人は部屋を出て行った。真っ赤になった綾乃を残して。
 今日はなんだか、どきどきして眠れなさそう・・・・
 綾乃の心はなんだかふわふわしたいい気持ちに包まれていた。








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