・・・5・・・  


 高校への進学が決定となった綾乃は、冬休みの多く時間を机に向かって過ごした。そんな綾乃を直人や雅人も応援し、わからない所や何か聞きたい事はないかと、毎日にように部屋を覗くのが日課となった。
 自分からは聞きにきたりはしないだろう、綾乃の性格を分かっているからだ。
 そんな自分の状況に、綾乃は初めて『甘やかされる』という事を身をもって体験して、なんだかこしょばゆい気持ちを味わっていた。
 綾乃も世話になって甘やかされてばかりでは落ち着かないからと、松岡を手伝ってせっせと大掃除に精を出した。
 回りは、そんな事はしなくてもいいから勉強しろ!と言ったのだが、ただ机に向かうばかりでは返って申し訳なくて集中できない、という綾乃の断固とした主張が受け入れられたのだ。
 その綾乃がやるならと一緒になって雪人も手伝ったおかげで、南條家はすっかり綺麗になって12月31日を迎えた。



「あ、綾ちゃん」
 勉強に飽きた綾乃が、息抜きにと階下に降りていくと、リビングには雪人と松岡がいた。
「丁度いいところに降りていらっしゃいました。おやつの用意が出来ましたので、今お呼びしようと思っていたのです」
「うわぁ、今日はなんですか?」
「最近和菓子ばかりでしたので、今日は少し変えてゼリーにしてみました」
「うわぁ、すごーい、綺麗!」
「1番下がみかんのゼリーで、その上がレモンのババロア。それを生クリームとホワイトチョコでコーティングしてみました。どうですか?」
「「おいしそう!!」」
「それは良かった」
 二人の反応に満足したらしい松岡がにっこり笑った。
 松岡は、缶詰などは出来るだけ使わず旬の物を使って作るので、本当においしく味わい深い物が出来る。
 ここへ来てすっかり口が肥えてしまったと綾乃は思った。
 それをレモンティーと一緒に頂き、午後のひと時を二人はのんびりと過ごした。
「今日は、お二人ともそんなに遅くはならないとおっしゃっていましたし、明日は家でのんびりされるようですから、良かったですね」
「うん」
 松岡の言葉に、雪人はうれしそうに元気良く返事をしたが、それとは対称的に綾乃の顔には緊張の色が走る。
 『今日両親が帰国してきますので、一緒の帰宅になります』朝、雅人はそう話して出社していった。
 今夜、自分と南條家の繋がりがやっとわかる、それは知りたいと思う。けれど、綾乃はやはり緊張せずにはいられなかった。自分はどう受け止められるのか受け入れられるのか、どんな反応が返ってくるのか、綾乃は不安に思わずにはいられないのだ。
 そんな綾乃を松岡は優しく気遣う。
「綾乃様、大丈夫ですよ」
「・・・はい」
 綾乃は、苦笑を浮かべた。
 自分はだんだん表情を隠すのが下手になってきているらしい。以前は、こんなすぐにばれたりしなかったのに困ったものだと思う。
 ―――雅人さんや直人さん、雪人くんのご両親なんだもん、いい人に違いない。
 綾乃は自分にそう言い聞かせ、ゆっくり息を吐くと笑顔で松岡に言った。
「松岡さん、何かお手伝いする事ありますか?」
「いえ、大丈夫ですよ。おせち料理は仕上げを残すのみですし、後は今日の夕食の用意が少し残っているくらいです。ご自分の勉強は進んでいるのですか?」
「ええ、まぁ、大体は」
「それなら、僕と遊んで!」
 途端に雪人の顔がぱぁっと明るくなる。最近の綾乃は勉強に忙しく、兄や松岡からも邪魔してはいけないと言われていたので、雪人は綾乃に中々かまってもらえず寂しかったのだ。
「いいよ」
 それを分かっている綾乃も笑顔で応じる。が、松岡の一言が水をさす。
「いけません。それなら綾乃様、雪人様の勉強をみてあげてください。どうも冬休みの宿題がまだ半分以上残っているようなのです」
「そうなの?」
「・・・・・・」
 雪人は無言で、松岡をうらめしそうに見る。それが何よりの返事。
「はは、じゃぁ、宿題手伝ってあげるよ。ね?早くやらないと後で大変だよ。終わってから一杯遊ぼうよ」
「・・・遊んでくれるぅ?」
「もちろん」
「じゃぁ、する!」
「よろしくお願いします」
「はい。じゃぁ、部屋へ行こうか?雪人くん」
「うん」
 雪人は結局綾乃にかまってもらえるなら勉強でも遊びでも基本的には良いようで、ご機嫌で部屋へと戻っていった。
 その後姿を、松岡は嬉しそうに見ていた。今日も、雅人様に良い報告が出来そうだと思いながら。
 それから、綾乃と雪人はずっと部屋で宿題をしたり雑談をしたりして過ごした。
 夜、7時を少し回った頃、二人が部屋でテレビを見ていると門扉の開く音とともに、車が入ってくる音がした。
「帰ってきた!」
 その音に、雪人は大喜びで階下へ駆けていく。
 しかし、それとは対照的に綾乃の足は急に震え出して、立ち尽くしてしまった。門扉が開く音が聞こえた瞬間、心臓が飛び出すかと思うくらいドキっとした。
 ―――落ち着いて。落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから。
 綾乃は呪文のようにその言葉を口の中で唱え、深呼吸を何度もして、ようやく足を踏み出し、雪人の後を追った。それでも、胸のあたりできつく握り締めた両手が、かすかに震えていた。
 受け入れられている様に見える今のこの空間が何よりも大切に思えるから。守りたいと思う。そう、強く思うほどにまだ見ぬ二人への緊張と不安が膨れ上がるのだ。
 綾乃がようやく階段を降り終えた時、ちょうど玄関の扉が開かれた。
「おかえりなさい!!」
「おう、ただいまぁ」
「ただいま帰りました・・・綾乃は?」
 綾乃の姿が見えない事に雅人はすぐに気付き松岡に問う。
「あれ?僕一緒に降りてきたはずなんだけど・・・」
 雪人もてっきり後ろにいるものと思っていたので、その姿がない事に首をかしげた。その言葉に、雅人はさっと靴を脱ぎ階段へ向かう。
 その階段の影に綾乃は立っていた。
「綾乃」
 ほっとしたように、優しく雅人が笑う。
「あ・・・おかえりなさい」
 その顔色は緊張のためか真っ白になっている。緊張のためにこわばった顔が今にも泣き出しそうに雅人の瞳には映った。必死で握り締めた手も白くなってしまっていて、必死で浮かべた笑顔がぎこちなくて痛々しかった。
 雅人はその手を優しく握り締めて、笑う。
「大丈夫ですよ」
「うん・・・」
「何があっても、わたしは綾乃の味方です。絶対に。それだけは忘れないでいてくれますか?」
「はい」
 クリスマス以来、ずっと雅人が口にするその言葉。呪文のように、綾乃の心を落ち着かせてくれる想い。
「あー!ままぁーぱぱっ!!おかえりなさい」
「ただいま」
「ただいま、雪人」
 その声に、ビクっと身体が揺れてしまうのは仕方がない。
 雅人は綾乃の肩を抱き、玄関へと促した。
 するとそこには、50歳くらいの少し白髪交じりの男性と、40歳くらいだろうか、肩にかかる黒髪を後ろに流した女の人が立っていた。
 先に綾乃に気付いたのは、男性の方。
「ああ、君が綾乃君だね?」
「・・・はい。はじめまして。夏川綾乃です」
 喉がからからで、ちょっと擦れ気味の声で綾乃は言うと、頭を下げた。
「まぁ、あなたが綾乃君なのね!はじめまして。会いたかったわ」
 女性の方がその言葉につられる様に綾乃を見、笑いかけた。
「はじめまして」
 緊張のため、少しぎこちなく綾乃が笑う。ゆっくり背中を雅人がさすってくれているのに、そばについてくれているのに、やっぱり緊張してしまう。綾乃自身、そんな自分が情けなく思った。
「さぁ、玄関で立ち話もなんだ、とりあえず中へ入ろう」
「はい」
 男性を先頭に、奥のリビングへと入っていく。その松岡を直人はそっと呼び止めた。
「綾乃、大丈夫か?顔色真っ白だぜ。今日、どんな感じだった?」
「いつも通りでいらっしゃいました。午後からは雪人様の宿題を見てくださって。ただ、やはり少し緊張の色は隠せませんでしたが・・・」
「そっかぁ・・・うーん、でもそうだよなぁ。やっとちょっとは俺らに慣れたかなってとこだったもんなぁ・・・まぁ、兄貴がついてるから大丈夫だとは思うんだけど、陽子さんはなぁー・・・」
「はい」
 その直人の言葉に松岡も神妙な顔つきで頷く。
 松岡と直人には陽子に対して共通の思いがある。それは雅人も同じ事。今更ながらこの時、松岡と直人は陽子に対してどうか余計な事を言ってくれるなと、心の底から願わずにはいれなかった。





 少し遅れて直人がリビングに入った時、綾乃は、ソファの上で固まっていた。
 ―――おいおい、まじ大丈夫かぁ・・・
 つねに綾乃のフォローは雅人に任せていた直人だが、綾乃の事をかわいいと思っているし心配もしているのは雅人と同じ。
 中央の椅子に男性と女性が座りその隣の椅子には雅人が腰をかけ、その横に綾乃は座った。向かいには雪人が座っている。直人は少し距離をとって壁際に立った。
 松岡が人数分のお茶を運んでくる。
「綾乃君、そんなに緊張しなくていいんだよ」
「はい」
 そう言ったところで、綾乃が全身で緊張しているのは明らかだし、その一言で緊張がほぐれるような性格でもない。
「綾乃、こちらが私たちの父で南條高人(ナンジョウ タカト)。そしてこちらが陽子(ヨウコ)さんです」
「・・・?」
 その微妙な言い回しに違和感を覚えた綾乃が、思わず雅人の顔を見る。しかし、その疑問には雅人ではなく陽子が答えた。
「私は後妻なの。雅人さんと直人さんにとっては継母ね。雪人だけが私が生んだ子供。聞いてなかったのかしら?」
「はい」
「そうなの?雅人さん」
「はい。全て一緒にと思ったものですから。綾乃、私と直人の母は身体の弱い人で、直人を生んですぐに亡くなりました。それから、父が陽子さんと再婚されて、雪人が生まれました。陽子さんは元々父の秘書をずっとしてくださっていた方なのです」
「・・・はい」 
 ―――全然気付かなかった。本当の兄弟みたいに見えたのに・・・・・・・
 その時、この場に雪人がいる事を思い出した綾乃ははっとして雅人を再度みた。
「雪人も知っている事です」
「うん。でも、兄弟には変わりないからって。でしょう?」
「ああ、もちろん」
 直人がすかさず返事をする。
 義理がなんだと言うのだろうと心底不思議そうに訪ねる雪人と、兄弟だと断言できる直人が凄いな、と綾乃は思った。
「血とか、繋がりがどうとかじゃなくてもさ、そういうの関係なく俺たちは普通に兄弟だし、家族なんだよ。松岡だって家族の一人だって俺は思ってる。そういうもんなんじゃないか?綾乃」
 今言える直人の精一杯の言葉は、今の綾乃にどれだけ届いたのだろうか。
「・・・はい」
「さて、今話されますか?後に?」
「そうね、食事の前に話てしまいましょう。綾乃くん」
「はい」
 綾乃の声が、震えている。とうとう来たのだ。綾乃の知りたかったことが今明かされる。もし繋がりが強いものなら、綾乃はここにいる理由の一つをしっかり手にすることが出来ると、願いにもにた思いを抱いていた。
 それが少しずるい想いだと言われても、綾乃はそれほどにここに居場所を求めていたのだ。
「私はあなたのお母さん、綾子の姉なのよ。義理の、だけどね」
「え・・・・・・?」
「妹の母親、つまりあなたのお婆様はね、私の父の愛人だったの」
「・・・っ」
―――愛人?
「わたしの実家は田舎の旧家でね。父は使用人に手をつけて子供まで生ませた。その子供が綾乃君のお母さん、綾子。わたしの妹」
「・・・」
「それからは奇妙な生活だったわ。ひとつの家で、妻と子供と愛人とその子供が一緒に住んでいたんだもの。そんなのだから私の母は毎日綾乃君のお婆様をいびってね。私はそれが子供心に心底嫌だったわ。だから、妹とは仲良くしたいって思っていたんだけれど、綾子はそうでもなかったみたい。仕方ないのかもしれないけどね、ちょっと寂しかったかな」
――――なに・・・言ってるの?
「そんな生活が17年続いたある日、綾乃君のお婆様が突然倒れて、そのまま亡くなってしまったの。あっけない最後だったわ。そうなると綾子も家には居づらくなってしまったのね、四十九日がすぎた日、何も言わないで出て行ったわ。それ以来妹はずっと音信不通で」
 昔を懐かしむように淡々と話す陽子の顔を綾乃は、瞬きもせず眺めていた。呼吸すら忘れているのではないかと思うほどに微動だにしない。
「・・・・・」
「それが1年前、父が病気で倒れて、綾子の事捜してくれって言い出したの。綾子が出ていった時も、母が亡くなった後も一度も綾子の事を口にした事はなかったのに。やっぱり心のどこかで気にしていたのかしらね。でも、綾子の行方がわからないうちに、逝ってしまったわ。綾子の事が分かったのは半年くらい前かな。事故で死んだって」
「はい」
 陽子が身を乗り出し、同情するような視線で綾乃を見る。その目を綾乃は、ただ自分の瞳に写し、機械的に返事をした。
「それから、子供がいた事もわかって、居場所を捜してもらったの。まさか父親が失踪してるとは思わなくて。あなたも苦労したのね」
「いえ・・・」
「隠さなくていいのよ!あまりいい生活ではないようだって報告がきてびっくりしたわ。うちは旧家だから私もそんなお金に苦労とかしたこと無くて」
――――へぇー・・・
「まさかそんな事になってるなんて思いもしないで。私一人何不自由なく生活していたのよね・・・叔父さんの家での生活も、随分つらい生活だったのね」
「はい。僕はやっかい者でしたから」
―――・・・そう、いう、事・・・?
「そんな事!そんな風に思わすなんてひどい話だわ。綾子が死んでしまったのも、お父さんが失踪したのも綾乃君が悪いわけじゃないのに・・・」
「ありがとうございます」
――――この人は、おんなじなんだ・・・
 同情したふりをして同情もしていない。ただ、確かめたかっただけなの?
「何も知らないで、私が幸せな生活を送っている時、綾子は苦労してたのよね。愛人の子って言うだけでね」
「・・・」
「私、綾子には何もしてあげられなかったから、せめてあなたにだけではと思って南條家で引き取ってもらえないか、思い切って主人に相談したのら承諾してもらえて、本当に良かったわね?」
「はい、本当に感謝しています」
―――もう、わかったから・・・
「そんな、お礼なんていいのよ。綾子も高校を中退で家を出ていかざるをえなくなって、学歴も家もなくてその後結構苦労したみたいね。水商売を転々として、その挙句事故死。結婚した相手は失踪するような男だったって事は、そんなに幸せな結婚生活でもなかったんでしょうね、生まれからずっと不憫な子」
―――もう、いいよ・・・そんな言い方しないで・・・
「ずっと、安アパート暮らしで、そういう運なのかしらね」
「陽子さん」
 思わず、雅人が口を挟んだ。聞くに堪えられなかった。あれほど言葉を選んでくれとお願いしたのになんて女だと、この時雅人は歯噛みする様な想いに襲われて。直人は強烈な舌打ちをした、もちろん心の中でだが。
「陽子さん、つもる話もあると思いますが、8時を回ります。先に食事にしませんか?」
「ああ、俺もう腹減った。雪人もだろ?」
 雅人の意図に直人ものっかって、雪人を巻き込んだ。これ以上何も聞きたくなかった。
「うん。ぺこぺこー」
「そうね。そうしましょう」
 陽子は不満そうな顔を一瞬浮かべたが、すぐに笑顔で応じた。
「綾乃君、食事しながら綾子話を聞かせてくれるかしら?暮らしぶりはどうだったの?あの子幸せだったのかしら・・・」
「僕には母の記憶がないので」
 カタっと、またどこかで何かが欠けていく音を綾乃は聞いていた。この2週間でかき集めて張り合わせようとした欠片が、いとも簡単に散らばっていく音。
「そうかぁ。そうよね。じゃぁお父さんはどんな人だったの?アルバムとかないのかしら?是非見たいわ」
「すいません。父がどこかへやってしまって」
 綾乃は本当に申し訳なさそうな顔で、陽子に詫びた。
 しかし、本当は綾乃は小さなアルバムを持っていた。そこに自分は写ってはいなかったけれど、生前の母と父の写真が何枚かある。それは、ちゃんと幸せそうに笑っているもの。だから、綾乃はそれを見せたくなかったし、見せないほうがいいと思った。
 ―――だってこの人は、母さんが不幸だったことを確かめたいだけだ。
 ただ、優越感に浸りたかっただけ。この人は叔父さんと同じ種類の人。だから、大丈夫。こういう人は得意だから、うまくやっていける。
「そうなの・・・」
「すいません。せっかく色々していただいたのに、何もお話する事が出来なくて」
 綾乃は、会うまでの緊張はすっかり解け、いつもの自分をしっかり取り戻し、笑顔と恐縮を織り交ぜた顔を浮かべて謝った。
 こういう人種を満足させるすべを、自分は知っているから。
 その後、食事の席でも陽子はずっと綾乃に話しかけ続け、延々と色んな話をした。綾子との昔話や、自分の思い出話。自分の人生の華やかさと幸せ。それらの話を、綾乃は笑顔を浮かべ、時には質問をし、感嘆の言葉をはさんだり、興味があるように相づちをうったりしながら聞き、陽子の期待にこたえた。
 けれど、実際は綾乃は聞くふりをしていただけで、何も聞いていなかった。
 音が耳を通り過ぎていくだけ。
 こういう事は得意だから。聞き流す、聞いているふりをする、適当なところで返事をして、相手の優越感を損なわないようにして、機嫌を取って。
 そんな事、話を聞いてなくても出来る。
 慣れた行為。
 なんでもない事。
 はりついた笑顔で受け流していくだけ。
 時間がよどみなく流れていく。








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