軌跡 1
それは、1月の終わりに近づいたの金曜日の事だった。 6限目まで終わってやれやれと思い、先生の話にあくびをかみ殺しながら聞いていた帰りのHRも終わった後。 綾乃は教科書やノートを鞄に入れて、さて生徒会室へと向かおうかとすると、翔がちょうどクラスメイトの近藤に何か話しかけられてしまい、その会話が終わるのを薫と共に待っていた僅かな時間。 薫がコソっと綾乃に声をかけた。 「あのね」 「ん?」 「週末、暇?」 「うん、特に予定はないけど?」 久しぶりに、遊びの誘いだろうか?と綾乃が思わず笑顔で返事をすると。 「・・・土曜日うちに泊まりに来ない?」 「え?」 薫の口から出た言葉は、綾乃の思っていたものとは少し違っていた。そんなお誘いを受けたのは、夏休み以来だったのだ。しかもその時は、結局は予定が合わず流れてしまい実現はしなかった。 普段の時は、綾乃が週末家を空けると雪人が一人になってしまう事に、綾乃が心を砕いていたのを知っていたから誘いにくかっただけかもしれないけれど。 「無理・・・?」 案の定、薫は少し心配気な顔つきになる。 「ああ、ううん。行く。せっかくのお誘いだもん」 そんな薫に、綾乃は笑顔で首を横に振った。もちろん雪人のことは頭を過ぎったし、雅人にも許可してもらっていないことなんだけれど。 「良かった」 薫が、ホッと息を吐く。 そんな薫の様子に、綾乃は何か話したいことでもあるのかな?と、なんとなく思った。それも、学校ではどうやら話にくい話らしい、と。 「何時くらいに行けるかわかんないから、明日お昼過ぎにでも薫の携帯に電話する。それでもいい?」 「うん」 綾乃の言葉に安堵の色が見えた薫に、綾乃の思いが確信に変わる。 ――――やっぱり何か話があるんだ。でも・・・なんだろう? 綾乃は内心首を傾げたのだが、その思いを口にする事は無かった。なぜなら、ちょうど翔がやってきてしまったからだ。 「お待たせ、行こうぜ!」 「ああ」 「うん」 翔は自分が待たせていたくせに、薫と綾乃が遅いとでも言うように1番に教室を飛び出して行く。その後を、薫も少し早歩き気味に続いた。 綾乃たちは今から生徒会室へと向かうのだ。 実は、文化祭が終わった直後、生徒会長であった朝比奈透に呼び出された3人は、薫は次期生徒会長に、綾乃が会計に、翔が書記に推薦され決定されたのだ。 聞くところによると、朝比奈透から樋口薫へという移行は、小等部・中等部ともに同じだったらしく、云わば決められた流れの様で、周りからすればさして驚きもない事らしい。高校からの入学者だけが、1年で会長を引き継ぐなんてと驚いた程度で終わってしまった。 空白の副会長の座は、任命権を薫が一任されているのだがまだ決定には至らず、そんな不安定な状況ながら、3学期からは正式に引継ぎを行い薫は生徒会長として歩み出した。 ――――もしかして、副会長の事かな? 綾乃は、廊下を足早に歩く薫の背中を見つめて、今思い当たる事を色々と考え出していた。 ・・・・・ 薫との約束の週末土曜日、お昼を少し過ぎた頃。綾乃はわざわざ車に送られて、薫の家までやってきた。 車で来る事には朝からひと悶着あったのは、言わずもがなだろうか。車で送るという雅人と、そんな大げさな、電車で十分という綾乃の攻防に、松岡の、雅人様のワガママを聞いてあげてください、という鶴の一声で決着がついて。車で行くことは承知したものの、薫宅まで車に同乗すると言った雅人の言葉は断固拒否してやってきたのだ。 ――――過保護にもほどがある。 少し前なら、考えもしなかったそんな腹立ちを感じている今を、普通のように通り過ぎている現実を綾乃は何を気にすることなく過ごしていた。。 ただ、やはりなかなかなじめない現実もあるもので。 「綾乃」 「え?」 通された部屋を物珍しさにキョロキョロしてしまう綾乃に、薫は笑みを漏らしていた。 今いる薫の部屋は、かなり広くて12畳くらいだろうか。それに大きなクローゼット。当然ながらある液晶テレビとDVD。本棚には綾乃にはまったく分からないような分厚い本から、マンガまでたくさん並んでいて。セミダブルサイズのベッドに立派な勉強机。出窓になっている大きな窓からは日差しが差し込み、オフホワイト基調の部屋を明るく照らしていた。 そして綾乃が今座っているのは、たぶん海外のデザイナーものっぽい小ぶりながら座り心地の良い革張りのソファ。 「そんなに物珍しい?」 苦笑を浮かべて問う薫に、綾乃は思わず顔を赤らめた。 「あ、ごめん。なんか・・・友達の家に行くとかって初めての事だから、つい。ごめん」 自分の態度がぶしつけだったかと恐縮する綾乃に、薫は一瞬目を見張った。それは、綾乃の態度にではなく。 「友達の家とか、今まで行ったことないの?」 「うん――――小学校の時も中学校の時も、あんまり仲のいい友達っていなかったから」 それは、自然に回りに距離をとっていた自分の所為でもあるんだけれど。 「そっか」 「うん」 にわかに嬉しそうな顔になる薫が、綾乃が最初に来た友人宅という思いがけない事実に喜んでいるとは綾乃にはわからない。 ただちょっと、格好悪くて俯いてしまうのは、まだ綾乃に自信が少し足りないからだろうか。 そこへ――――コンコンとノックされる音。 「はい?」 「お邪魔します」 扉が開いて姿を見せた人は、ベリーショートの髪型に白いシャツの襟を立ててボタンは上3つ開けて、インナーに着た花柄のノースリーブをチラっと見せている。ボトムはカジュアルにデニムパンツ。首元にはシルバーだかプラチナだかのシンプルなネックレスをして、顔は完璧なメイク。抑え目な赤の口紅が色っぽい。歳は、30代中ごろだろうか。とにかく綺麗な人だった。 ――――誰? 「母さんっ」 「えっ、あ、お邪魔してます!」 綾乃が着いた時にはいなかった母の登場に、薫は多少驚いたようだが、綾乃はさらに慌てて立ち上がって頭を下げた。 「こんにちは。お茶とケーキをどうぞ」 「母さん帰ってきてたんだ?・・・っていうか、何めかしこんで」 「まぁ、薫!いつも通りでしょ!―――薫がお友達を連れてきてるって言うから、ご挨拶に来たのよ。お茶が沸く間にパパにもメールしておいたから、夕飯までには帰るって」 「ええ!?そんな・・・帰ってこなくていいのに」 「まぁ、薫ったら。そんな事言うとパパが泣くわよ」 泣きたければ勝手に泣いてくれて結構と、喉まででかかった言葉を薫は飲み込んだ。目の前で綾乃が目をぱちぱちさせて驚いていたからだ。 「母さん、綾乃が驚いてるだろう。早く出てって」 「あら、ごめんなさいね」 「いえっ」 綾乃は驚いて、ぶんぶんと頭を横に振った。 「アールグレイティーと苺のタルト。お口に合うと良いのだけど」 「ありがとうございますっ」 緊張の所為か、硬くなって見える綾乃に薫の母は目を細めて微笑んで、二人の前にお茶とケーキをセットして立ち上がる。 その時見えた指先が、綺麗に整えられてはいるけれど、マニキュアなどは一切つけられていなかった。 「お夕飯はパパが帰ってからにするけど、いい?」 「いいよ」 扉のところで名残惜しそうに振り返る母に、薫はあっさり言葉を返し、早く退散してくれと態度に表す。その空気にめげないのは、流石に母親だ。 「綾乃さんはお嫌いな物とかないかしら?」 「いえ。なんでも、食べます」 「そう、えらいわねぇ。薫も今はそんなに好き嫌いしないけど、子供の時はもう大変だったのよねぇー」 「母さん」 「あらぁ、だってあなたあれは嫌いこれは嫌いって・・・」 「か・あ・さ・んっ」 いつまでもしゃべり続けそうで、しかも余計な事を言いそうな母親に薫が口を挟む。そんな息子の態度に不満そうな顔は浮かべたが、今度ばかりは何も言わず肩をすくめて母は出て行った。 パタンと、扉が閉まった音を聞いて数秒後。薫はおもむろに立ち上がって、無言で扉を開ける。 「母さん!」 なんとそこには母が耳を澄ますように佇んだままだった。 「あらっ」 「あらじゃないよ!いい加減にして」 無邪気な妹を叱る兄の様に言う薫に、綾乃はもうビックリしすぎて言葉も出ない。綾乃が今までに見た母と息子というのは、叔母とその息子だけで、彼らは間違ってもこういう関係ではなかった。 「だって、気になったんだもの」 「気になったからって立ち聞きなんかして良いと思ってるの!?早く向こうへ行って!」 「・・・はぁ〜い」 息子の剣幕に、これが潮時と母はそれでも不満そうな顔ではあったが、階下へと降りていった。その足取りは名残惜しそうではあったけれど。階段からその姿が見えなくなるまで見送った薫は、ため息をつきながら扉を閉めた。 「ったく。――――ごめんね?綾乃」 「ううん」 「本当、いつまでたっても子離れ出来ないっていうか、あの調子で」 薫は心底迷惑しているように言って、再びソファに身体を大きく沈めた。 「でも、すっごく綺麗!薫はお母さん似なんだね」 「っ――――ありがとう。褒め言葉として受け取っておく」 純粋な綾乃の賛辞に、珍しく薫は顔を赤らめていた。母に似ているとはよく言われてなれているけれど、なんだかこんなに真っ直ぐに言われると妙に照れると、薫は内心ぶちぶちと呟いていた。 「まぁ、あんな母親だけど、夕飯だけは期待していいから」 「あんなって・・・もう」 綾乃、薫の照れ隠しの言葉に苦笑を漏らした。だって、薫のその口元はやはり幸せそうに笑っているから。 「確か、薫のお母さんって栄養士だっけ?」 「うん。もともと料理好きが高じて栄養士の資格を取ったんだけどね。最近では趣味と実益を兼ねて週に1回料理教室を開いたり、料理本出したりしてるよ」 「そーなんだ!凄いね」 「まぁー好き勝手やってるよ。ああ、このケーキも僕が綾乃を連れて来るって言ったらなんか張り切って昨日焼いてたものだから。口に合うかわかんないけど、食べて」 「ええ〜凄い。いただきますっ」 出されたタルトは山盛りに苺とブルーベリーが盛られた物で。こんなものが作れるなんて凄い!と綾乃は内心感心しながらフォークに刺した一切れを口に運ぶ。 「んん〜おいしぃ〜〜〜」 たぶん、相当良い苺を使っているのだろう、ケーキに負けない甘さと新鮮さが口いっぱい広がっていく。 松岡の料理に慣らされた舌を満足させられているのだから、薫の母の腕も相当の腕の持ち主という事になるだろう。ということは、必然的に薫の舌も肥えているのだろうが。 「良かった」 嬉しそうに食べる綾乃に、薫もまた嬉しそうにして、二人はしばらくの間目の前のタルトに集中することにした。 |