軌跡 2 


 その日の夕飯は綾乃にとって楽しいものだった。薫の父親が7時を少し過ぎた頃に帰ってきて。夕飯を待たせたことは綾乃に謝るところから始まった晩餐は、家族の仲の良さが滲み出るものだったのだ。
 テーブルにはさすが栄養士と思わせるほど栄養バランスを考えた料理の数々が並び、薫の父親も、その少しガッチリした体躯に少しグレーがかった髪、豪快かつ威厳のある風貌からは想像できないくらいに気さくな人だったのだ。飲みそうな風体なのに、お酒も弱いらしくビール1杯で顔を赤らめてたのも、綾乃から見ればなんとなく微笑ましい様な気になる。
 父曰く、昔はもうちょっと飲めたらしいのだが、健康のためと量を減らすように妻―――薫の母に言われて、そうしている内に段々と弱くなっていったらしい。そんな話も微笑ましくて。
 夕飯の席では、薫の話、学校の話、それに仕事の話や最近のワイドショーネタからスポーツにいたるまで、色々な話で盛り上がって。本当に、よく食べよく笑いよくしゃべるが実行された。
 楽しい時間はあっと言う間で、再び薫の部屋に二人が戻った時には9時になっていた。
 その後はまた、すぐに追い立てられるように風呂に入って。部屋に戻ってホッと二人が一息ついた時には、すでに10時を回っていた。
「ごめんねぇ。家の親はなんかああいう人たちだから」
 疲れたでしょ?と申し訳なさそうに言う薫に、綾乃はとんでもないと首を横に振った。
「ううん。凄く楽しかった!弁護士って聞いてたから、もっと堅そうなイメージだったからびっくりしたけど。全然明るい人で、良かった〜って感じ」
「なんかね。お爺様がそういう固い人で、父がまたそういうのが嫌みたいで。昔はそれで喧嘩してたりしてね、父さんは今でもお爺様があまり好きではないみたいだから」
「そうなんだ・・・」
「一緒にも住む気はないって言ってるし。――――って、ごめん、綾乃が聞いても仕方ないよね」
 少し翳った顔を打ち消すように、薫は苦笑を浮かべた。
「ううん!全然。っていっても、僕には話を聞くくらいしか出来ないけどね。でも、それだけでも楽になることもあると思うし。僕でよかったらなんでも話して」
 綾乃の真っ直ぐの心からの言葉に、少し薫の瞳が揺らいで見えたのも一瞬だけ。すぐにいつも通りの顔になって。
「ありがとう」
 少し大人びた笑みを浮かべた。
 ベッドに並んで横になって、お揃いの様なパジャマを着ているその外見は、綾乃も薫も同じように見えるのに。時々、薫はこんな風に笑うことがあるのだ。
 すっと、遠くを見つめているようなそんな顔に、綾乃は少し寂しさにも似たような焦燥に駆られたりする。薫の、その心の底に何が流れているのか、綾乃には知るすべがないからだろうか。
 湯冷めしないようにと入れてもらった暖かい柚茶をすすって、少しの沈黙の流れた部屋にズズ…ッという音が響く。
 ほぉ・・・とため息も漏れて。
「・・・で?」
「え?」
 沈黙に耐えられなくなったのは、綾乃が先だった。綾乃にしてみれば、今日1日ずーっと気になっていた事なのだ。もう待っていられないというところ。
「何か話があったのかなぁって思ってたんだけど、違った?」
 もしそうじゃなかったら、ドキドキし損だとちょっと思いつつ開いた口に、薫は少し目を見張って。けれど、どこかホッとしたように表情を緩めた。
「―――ううん。話があった」
 もしかすると薫は、綾乃が切り出してくれるのを待っていたのかもしれない。そんな思いを肯定するかのように、薫はフゥッっと息を吐いて口を切った。
「・・・、綾乃はさ、――――将来の事とか、考えてる?」
「将来!?」
 待ちに待った薫の口から出た言葉は、綾乃の予想のどれとも当てはまらなくて、ちょっと驚いた声を上がってしまう。綾乃の予想第一位は副会長の事だったのだ。
 けれど、薫はそんな綾乃に表情も崩さずに言葉を続けた。
「うん、将来。綾乃はさ、このまま南條家に留まっていくの?」
「え・・・?」
 薫の言葉が、綾乃の心にザワっと音をたてさせた。探られている?と思わないでもない言葉なのだが、まさか薫がそんな事をするわけもなくて。ただ、心の奥底に押しやった部分が不安感をかきたてられた。
 ――――薫の話って、これ?
 なんだか話の流れが全然わからないけれど、まあいいか、と綾乃はゴロンと仰向けになって天井を見上げて、今の思いを正直に薫に話した。
「うーん、まだ決めてない。僕ね、――――言っちゃうと、高校さえも進学する気がなかったんだ」
「えっ、そうなの!?」
「うん。僕が南條家に来たのって、中3の冬休みからなんだけど。その時は既に中学を出たらどこか住み込みで働けるところでも見つけようって思ってたんだ。でも、突然雅人さんが現れて。世界が180度変わっちゃって・・・――――説得されて高校へ行く事になって」
 言葉にすると、あの頃のことが脳裏に蘇ってきて、懐かしく思える。誰も何も信じられなくて、ただ表情を、感情を殺して日々がただただ過ぎ去っていくのを息を潜めて生きていたあの頃。
 ――――もし、あの時雅人さんと出会わなかったら、今どうしていたんだろう。
 なんだか想像も出来ないけれど、きっと、周りは全部敵なんだと小さく頑なになって、生きていたのかもしれない。
「そうだったんだ・・・てっきりもっと前から南條家にいるものだと思ってた」
「ううん。・・・だからさぁ、今は先のことか全然まだ考えてないっていうか、考えられないって感じかなぁ。雅人さんともまだそういう話、1回もした事ないし。――――僕は南條家の人間ってわけじゃないから、いつまでもあそこにいるのっていうのもやっぱり違うんだろうし・・・、でも・・・」
「でも?」
「でも――――初めて知ったあったかい場所だから。一日でも、一分でもあの場所に長くいたいって思ってるのも事実で。・・・まだ全然結論なんか出ないよ」
 綾乃は、ちょっと苦い笑いを浮かべながら薫を見た。
 無条件であそこの居続けられる存在じゃないから。家族の様でも、やっぱり血には叶わない事もあるから。だから、いつまでもいれる場所じゃないと思いながらも、いつまででもいたいと思ってしまっている自分もいて。綾乃は、自分の気持ちも決められないから怖くて雅人とそんな話も出来ないでいるのだ。
「そっか・・・」
 綾乃は本能的に、考えるのを避けているのかもしれない。
「うん」
「――――理事長との、事は?」
「雅人さん?」
 膝を立ててベッドに横たわる薫を、綾乃は見た。
 薫は、自分の目の前の空間というか枕をじっと見つめていて、その横顔からはその心のうちを読み取ることは出来なかった。
「そう・・・、ずっと、一緒にいるの?」
「えっ―――」
「ずっと、一緒に入れると思ってる?」
 首を巡らして綾乃を見た薫と、綾乃の視線がぶつかり合う。その薫の瞳が思いのほか真剣で、憂いていて――――揺らいでいた。
「っ、――――薫・・・どうしたの?」
 こんなに、頼りなく見える薫を知らないと綾乃は思う。思わず驚いた綾乃に薫は無理矢理な笑みを浮かべて頭を垂れた。
「ん〜・・・、なんていうのかな。――――なんて言えばいいのか・・・、綾乃は先のこと、不安にならないのかなぁって思って」
「先って・・・」
 ――――あっ!!
 そうだ!!自分達が生徒会を受け継ぐという事は、今3年にいる薫の恋人である朝比奈透が卒業すると言うことなのだ。
 2学期の文化祭までを終えて引き継ぎ、彼らは完全に受験一色のモードに入り。綾乃が彼らに接点を持つことはあまりなかったけれど。
「もしかしして・・・朝比奈先輩と何かあった?」
 綾乃の問いかけに、腕の間に頭を挟みこんで俯いたままの薫は、その顔を上げることも、返事を返すこともしない。
 それが、答えだろう――――綾乃の心がドクッと鳴った。だから今日、今、この場には翔がいないのだろうか?
 綾乃は内心ドキドキとした不安感を抱えながら、少し慎重に、口を開いた。
「確かに、―――確かに、先のことを考えると不安はいっぱいあるよ」
 薫が僅かに首を巡らして、腕の間から綾乃の方へ視線を向ける。
「僕は雅人さんのこと大好きだけど、本当に大好きだけど・・・いつまで一緒にいられるのかなって。考える時はある。南條家ってデカイ家みたいだし、雅人さんには地位とか立場とかあるし、やっぱり結婚とか跡継ぎとかさ・・・でも、そういう事ぐちゃぐちゃ考えるけど、なんか想像つかなさすぎて、わけわかんなくなっちゃうんだよね。悩んでても結論でないし――――難しすぎていつも考えることを途中で投げ出しちゃう」
 綾乃はばかでしょ?と苦笑を浮かべるも、その笑みは直ぐに消えて。
「綾乃・・・?」
「でも、――――不安だよ。凄く、不安」
 言うかどうするか迷って、綾乃はかすれた声で呟いた。
「ただ、さ・・・今、凄く幸せだから、その幸せを大事にしたいんだ・・・先なんか、考えたくないって、逃げてるだけもしれないけど」
 けれど、先を怯えるよりもまず、今を大切にしたいのだと綾乃は思っていた。
「―――綾乃、強くなったね」
 珍しく、弱い口調でポツリと落とされた薫の言葉に、綾乃は笑って首を横に振る。
 強くなんてないのだ。ただ不安に震えていればそれに押しつぶされそうになってしまうし、それにまだ綾乃には後2年、猶予があるからこんな風に思えるのだ。
「薫は、不安なんだ?」
 綾乃の問いかけに、薫の頬がピクリと動く。
 薫には、猶予がないのだろうか?
「――――理事長の場合はさぁ、もう大人だし。大人の判断ってやつがあると思うんだ。色々な可能性も考えて、それでもって思って今綾乃といるんだろうなって。でも、透さんはまだ、18歳で子供で・・・先なんか全然わかんないから」
「薫・・・」
 薫は寝そべったベッドの手元にある枕を引き寄せて、バスっとそこに顔を埋める。
「本当はさ、日本の国立大に行くって言ってたのに。親がアメリカで経済学を学んで来いって言って。――――透さんもだいぶ抵抗してたみたいなんだけど、結局お父さんには逆らえなくて・・・」
「アメリカ行っちゃうの!?」
「うん・・・」
 薫のくぐもった声。
「そっか・・・」
 それで薫は悩んでいたんだ・・・
 確かに、アメリカは遠い。昔みたいに船で行くわけでもないし、飛行機でひとっ飛びじゃないかと言われればそうだけれど、ても、電話してもすぐに会えるわけじゃない。
 傍にいて、抱きしめて欲しくてもそこにはいない。
「4年、離れ離れ。会いたくても会えなくて」
 無理に、何でもない事を言うように淡々としゃべる薫に、綾乃は眉をひそめた。
「正直、自信ないんだ・・・」
「気持ちに?」
「気持ちっていうか―――実際やっていけないんじゃないかなって。向こうはアメリカで、色んなお誘いもあるだろうし、行けば行ったで顔繋ぎにそういうパーティーとかにも出ろって言われるのは目に見えてるし、将来役に立つ出会いっていうのもお膳立てされたりするんだろうし」
「・・・・・・」
「それが全部僕の知らないところで行われてて。何もわからない。ただ遠くて――――たぶん信じきれなくなるんじゃないかなって。気持ちが繋がっていられる自信なんかない。ただ盲目に信じられるほど、僕は大人でもないしバカでもない」
 何かに急かされるように言葉を繋ぎ、何かを吹っ切るようにキッパリ言い切る薫の言葉。何か、思いつめてもいるようで。
「かおる・・・」
「大学に行くのすら自分の意思を通せないで――――将来なんて・・・・・・こんな関係を貫き通せるとは思えないんだ」
 薫は綾乃に話しているようで、自分の中に問いかけているようにしか見えない。
「結局子供なんて、無力だよ」
「薫」
 思わず、少し強い声をあげた綾乃に薫は視線を向けて。
「信じなきゃ・・・」
 綾乃の呟きは、薫には聞こえたのだろうか。二人の間に沈黙が流れた。それは僅かなようで、とても長く感じられた時間。
「無理だよ」
 ポツリとこぼされる呟き。 
 きっと、薫は何度も何度も考えたのだろう。
「いつまでも、子供のままじゃあいられない」
 大好きだから。
 本当に、大好きだから。
「僕、別れようと思う」








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