軌跡 3
「――――え!?」 なんでもない事を言うかのように吐き出された言葉に、綾乃は一瞬理解出来なくて。たっぷり10秒の沈黙の後、驚きのあまりに裏返った声を上げた。 「別れるって・・・っ」 だってそんな事――――― 「ずっと、色んな事を考えたけど、それが1番良い選択肢だなって思うから」 「ちょっ、ちょっと待ってよ!別れるってそんな・・・だってまだ好きなんでしょ?」 「うん」 好き。それは間違えようの無い事実。誰に何を言われても自信を持って言い切れるからこそ、だからこそ、別れようと薫は思った。 「ならっ」 けれど、綾乃にはその薫の心理は理解しがたいものだった。困惑の表情を隠そうともせずに、綾乃は薫を見つめる。 そんな綾乃に、薫は微かではあるけれど、笑顔さえ浮かべている。 「だからだよ。今ならきっと、綺麗に別れられるから。そしてもし、4年たって透さんが日本に戻って来て会う事があったら、きっと友人みたいに会えると思うから」 何でもなかったように、さらっと笑顔で会える為に今別れなきゃいけない。 ――――喧嘩して、どろどろになって別れて、もう会えなくなる、そんな風になってしまうのだけは嫌だ。 今なら、綺麗な思い出と優しい記憶だけが残るから。離れ離れになって猜疑心が募って信じられなくなって、喧嘩して、いがみ合ってなんて別れたくない。 好きだから。本当にどうしようもないほど好きだから。だからこそ綺麗に終わらして、そして友人としてでも繋がっていたい。 「薫、それは―――っ」 綾乃は、無言で首を横に振る。まだ乾ききっていない髪から、少し雫が垂れた。眉が切なげに寄せられる。 「もう決めた事だから」 そう言い切る薫に、それならば何故今自分に話すのだと綾乃は叫びたくなる。 「だってっ」 ――――だってそれって、止めて欲しいからじゃないの!? 「ずーっと近くにいたんだ。ずーっと・・・長い間、良い事ばかりじゃなかったけど。喧嘩もしたけど、でも幸せだった」 けれど、やはり薫は笑顔のまま。 「綺麗に終わりたい」 もう全てを吹っ切ってしまったかのように。 「一人っきりにされるのは、僕には無理」 ――――耐えられない。 「薫・・・」 「僕が始めて透さんって存在を知ったときは、こんな事になるとは思ってなかったけど。でも、後悔はしてないから」 薫は綾乃に話す事で、本当に全てを吹っ切ってしまおうとしているように見えた。自分に言い聞かせるように言葉を選び、そして何でもない事の様に別れを笑おうとしている。 「そんなっ・・・だって長い付き合いだったんでしょ?」 「うん。僕が最初に透さんを知ったのは、僕が小学校の時だった」 その時のことを思い出しているのか、薫の目が懐かしむように細められる。 「そんなに長いんだ。――――憧れの先輩だったとか?」 「ううん。全然。その逆」 「逆!?」 おかしそうに笑う薫に、綾乃の驚いた声が重なる。綾乃はてっきり薫にとって透は憧れていた先輩なのだろうと思い込んでいたのだ。 「うん。最初の印象は――――あんまり良くなったな」 ・・・・・ その出会いは、薫が桐乃華学園幼等部から通い、そのままエスカレーター式に小等部に進んでいた2年生だった。 桐乃華の小等部では、薫のように幼等部からのエスカレーター組と外部受験者が半々くらいに割合で、どちらかというと幼等部からのエスカレーター組の方が、なんとはなしに"上"という空気があって、それは薫も例外ではなかった。 特に薫は、学年でも成績が常に5番以内で、1年の時からクラス委員もやっていたのでなおさらだったのかもしれない。 クラスの中にも、まだなんとなくそれでグループ分けも出来ているようなそんな感じ。けれど、特に大きく揉め事があるというわけでもなく、それはそれなりにクラスの中でバランスを保ちながら過ごしていた、2学期が始まって直ぐの頃。 文化祭の事で会議が行われるために、全学年のクラス委員が生徒会から呼び出された放課後だった。 会議の冒頭、6年生で生徒会長だった小泉が立ち上がった。 「俺はこの文化祭を持って任期終了となり、生徒会長を辞めます。これは俺にとって最後の舞台なので、是非大いに実りのある文化祭にしたいと思います。成功のために是非皆さんのお力をお貸しください」 男らしい風格も伴って、人望のあった会長の挨拶に出席者からは拍手が沸き起こる。 「そして、その後の事なのですが、俺はこの生徒会長の椅子を4年3組のクラス委員である朝比奈透君に任せたいと思います。なお、その際の生徒会人事は彼に一任します」 ――――えっ!? 小泉会長の口から出た言葉に、拍手をしていた薫の手が一瞬止まる。 ――――時期会長は高原先輩しゃないの!? それは薫には少なからず衝撃的だった。だって、てっきり次期生徒会長は、現副会長で5年生の高原先輩がなるものだと思っていたのだ。幼等部からのエスカレーターで、人望も厚く、成績だって優秀な、薫の中で数少ない尊敬できる先輩だった。 それが、4年の朝比奈?って、誰? 並び立つ面々の顔を思わず見回して、その人物を探そうとすると、薫が見つけるより早く当の人物が立ち上がった。 「えー、来期から生徒会長を任される事になりました朝比奈透です。俺の代になっても、代わらぬご協力をどうかよろしくお願いします」 通り一遍のような挨拶をして、ぺこっと頭を下げた透を、薫は複雑な気持ちで見ていた。その表情に浮かぶなんとなく勘に触るような、ソツのない笑顔も面白くないと思いながら。 それまで薫にとって、朝比奈透という人間はまったく興味の対象外だった。正直、名前さえも知らなかった相手。 ――――会議でも目立った発言をしていた記憶がないのに、何故? 別に薫は高原と顔見知りでも懇意でもないのだが、勝手になんとなく憧れを抱いていただけにこの透の出現が面白くなく思えて仕方が無かった。 それなのに、生徒会長も副会長もこの流れが当然の事のようで。さて、最後の行事だからと張り切るぞーと声を上げて笑っている。 ――――どうして・・・ その時薫は、本当に身勝手なのだが、なんだか裏切られたような思いすら感じていた。 そして、薫は朝比奈透という人物がどういう者なのか興味を持って、色々と回りに聞いてみた。 その中には、何か、―――汚い言い方をすれば、見下せるようなそんなものはないかと思っていたのだ。 そして分かった事は、朝比奈透。桐乃華ではかなり珍しい2年からの途中編入組みで、自分と同じ学年に弟がいること。都内に飲食店を数店チェーン展開している本社社長の息子で、その会社自体立ち上げたのは現社長、すなわち朝比奈透の父親は、よく言えば成功者だかいわば成り上がり者。 ――――なーんだ、別に良い家柄とかじゃないんだ。 ただ、薫は知らなかったけれど、朝比奈透自身はかなり優秀で、成績も学年トップ。運動神経も良くて、特にバスケ部とサッカー部、フェンシング部から誘いがあるが本人はやる気がないらしく断っている。 という事実は少々面白くなかった。 身長158センチ、51キロ、視力は両目ともに1.5。家は最近新築したらしい。昨年のバレンタインチョコの数は28個。 「ふーん・・・」 薫は調べてもらった資料をパラっと捲り、目を細めた。 ――――おもしろくない。 子供らしく、ぷくっと頬を膨らましてその内なる思いを表に出していた。 4年で生徒会長を引き継ぐなんて前代未聞で、それも面白くない。 何故こんな中途編入の奴が会長なんだ。どうして高原先輩はあんなににこにこ笑っていられるんだろう。 薫は、よくわからない悔しさと苛立ちに、手にした書類を床に叩きつけた。 それはきっと、薫が透には負けていたからかもしれない。 成績も、薫はトップを維持するのは難しくて1番だったり3番だったり5番だったりとどうしてもばらつきがあって、スポーツもそつなくこなすけれど勧誘を受けるほどではない。 薫は、投げつけた書類を睨みつけて、悔しそうに歯を噛み締めた。 ・・・・・・ 代わり映えなく日にちが過ぎて、薫が3年生になった時だった。 ――――朝比奈、翔・・・ 張り出されたクラス替えの一覧を見つめる瞳に、その名前が飛び込んできた。自分と同じ区切りにある名前に、あの朝比奈会長の弟と同じクラスになった事を知った。 「樋口!」 「ああ、小林。おはよう」 薫は、後からかけられた声に振り返ると、そこには1・2年の時に同じクラスだった小林健二が立っていた。 「はよー。また同じクラスみたいだな、よろしく」 「よろしく」 ――――そうだったのか。 翔の名前に気を取られていて、そんな事に気づいていなかった薫なのだが、驚いた顔さえせずに笑顔で答えた。 ――――あ・・・ その瞳に、小林の後に見える翔の姿が目に飛び込んで来た。しゃべった事はないが、姿だけは既にチェック済みで。小柄な背に、黒の髪がやや短めに切られている。大きな瞳とよく笑う口。見るからに元気少年と誰もが思うその仕草。 「ああ、翔じゃん!今年は同じクラスだぜーっ、よろしくな」 「おう!よろしく〜―――えーっと?」 翔は満面の笑みを浮かべて小林に言うと、傍らに立つ薫を見上げて首を傾げた。 「ああ、こいつは樋口。樋口、こいつは朝比奈。こー見えて現生徒会長の弟だ」 「よろしく」 「よろしく!って、コバケンこー見えてってどういう意味だよっ!」 「いやぁ〜」 薫に挨拶を返しながら、小林にふざけた蹴りを入れる。その横からまた友人らしい相手に声をかけられ挨拶を交わしている翔を、元気な・・・と多少冷めた目で薫は見ていた。 ――――元気というか、落ち着きが無いというべきかな。 「あいつ、面白いやつだろ」 また違う友人に引っ張っていかれた翔を指差して、小林は笑いながら言うと、薫は薄く笑いながら、相槌を打った。 ――――面白いっていうか・・・、会長とはだいぶ違うようだ。 態度も、素行も、成績も。 それが、薫と翔の出会いだった。 |