軌跡 5
その日から3日後の土曜日。休みのはずなのに学校へと来ている生徒が何人かいた。それは、生徒会役員と、クラス委員の面々。 4月23日金曜日の遠足に間に合わせるために、行き先の説明やしおり作りなどの作業のために登校してきていたのだ。もちろん、その他の雑用などもあったのだが。 「3年は水族館かぁー」 しおりの原稿を見て、生徒会長の透が呟いた。言葉は、薫に向けられたものだったのだが、故意なのか本当に気づかなかったのか、返事は無くて、薫は黙々と作業に没頭していた。 「会長はどこへ行かれるのですか?」 見かねて慌てて口を開いたのは、4年2組のクラス委員。 「ん〜うちはねぇーなんだっけ、ナントカの王国とかってやつ。動物放し飼いの広場と、陶芸体験出来る工房があって、そこで動物に触れ合って来ようって」 「へぇーいいですね」 「ん〜どうかな。馬にでも乗れるといいんだけど」 3組のクラス委員と透の会話の横で、薫はしおりの原稿を書いていた。書いていたといっても、去年の物をほとんど丸写しているだけなのだが。 「樋口くんは、水族館で何が見たい?」 「え?」 名前を呼ばれてようやく気づいたのか、仕方ないと思ったのか、薫は顔を上げる。 「水族館。何見たいの?」 「別に・・・」 「別に?楽しみじゃないのか?」 薫はどうしても透が苦手らしく。本人はとりたてて意識しているわけでもないのに、ムスっとした表情になっていた。 「水族館に行く事は決まったことですから」 「そーだろうけど、でもさー・・・」 「なんですか?」 さらにムスっとなった顔にめげることなく、透は笑いながら水族館のパンフレットにも目を向ける。 「ペンギンが見たいとか、イルカショーが楽しみだ〜とか、なんかないの?」 「会長はそういうのがお好きなんですか?」 「いや、俺の話じゃなくてさ・・・」 透は苦笑を浮かべながらパンフレットを捲って、水族館の写真を指差す。 「ほら、綺麗そうじゃないか。ね?」 「・・・あの、すいませんが早く写してしまいたいので。いいですか?」 薫は、透との会話に意味を見出せないのか嫌なのか、なおも会話を続けようとしている透にそう言うと、また下を向いてしおりに集中してしまった。 「会長、邪魔しない」 そんな様子に高原が苦笑を浮かべてたしなめると、透はつまらなそうに肩をすくめて薫の傍を離れた。 「ちぇぇー」 小さな不満の声は、果たして薫に向けられたものか高原に向けられたものだったのか。 「朝比奈、暇ならこっち手伝え」 「えー」 暇そうな透に5年のクラス委員が言うと、透は不承不承ながらも呼ばれたのいる方へと行く。別に透としても暇だったわけじゃない。生徒会長ともなれば、その後の体育祭の事や、5,6年だけにある林間合宿の事、姉妹校との春の恒例行事など色々考えなければいけない事はあるのだが。 「これ、こっから最後まで写して。それが終わったらコピーに入れるからな」 渡された紙を見つめて。 「はいはいっと」 嫌々ながらも、ペンを取ったのだった。これが終わらなければ彼らも帰れないわけだから、しょうがない。そう思って、椅子に座る。 透は、チラっと薫を見ると薫はさっきからずっと同じ姿勢のまま。 それからしばらくの間は、教室にはペンの音だけが響いていた。 「おかえりなさいませ」 「ただいま。 薫は夕方辿りついた自分の家で、いつも通り家政婦に出迎えられて玄関を上がった。50過ぎの、もう3年くらい通って来てくれている人。 「お夕飯は6時にご用意で良いですか?」 「はい」 けれど、薫は何故か馴染めなかった。 「家庭教師の方が7時に参りますからね」 「わかってます」 「宿題は・・・」 「やってます」 自室へと向かうため、2階へ上がろうとする後から家政婦の声が追いかけてくる。毎日繰り返される会話に、薫はそっと息を吐いた。 どうして毎日同じ事を言うんだろう。言われなくてもわかっているのに。 薫は部屋に入って、今度は遠慮なく大きなため息をついた。 夕飯は何?とか。 今日はこんな事があったんだよ、とか。そんな会話は一切ない。 お母さんは?とも、お父さんは?とも、尋ねる気にもならない。どうせ今日も、帰りは遅いのだ。 薫の母親は、薫が幼等部に入ったのを機に栄養士の資格を取るために大学へと入り、卒業した今は本格的に料理を習うためとかで、有名な料理家の先生の元に通っている。父親は父親で、弁護士事務所を引き継いで、最近やっと祖父が引退したからと張り切っている。 朝、おはようと挨拶を交わすくらいにしか、父親とも母親とも顔を合わしていなかった。 寂しい、という言葉はどこかに置き忘れていた。 ――――・・・疲れた。 薫は鞄を机の上にドンと置き、ため息とともにベッドへと身体を投げ出した。白い天井が目の前に広がる。ベッドの柔らかさが、何故か酷く心地よく感じられた。 ――――今、5時過ぎだから・・・少し寝れる・・・ああ、でも宿題やらなきゃ。 そういえば、家庭教師に出された宿題の見直しもしておきたかったのだと、薫はぼんやりする頭で考えていた。けれど、身体が起き上がろうとしない。 最近どうしようもなくしんどいと思うときがある。 けれど、祖父が希望した、桐乃華。 祖父が疑いようもなく思っている、弁護士になるという事。 「がんばらなきゃ・・・」 がんばらなきゃいけない。僕しか子供はいないんだから。 僕が、跡継ぎなんだから。 ふっと、脳裏に透の顔が浮かんだ。 ――――会長も、跡継ぎなんだよな・・・よく考えたら。 「あーあ」 なんだかむしゃくしゃして、ぎゅっと枕を抱きしめて顔を埋める。 格好良くて人気もあって友達も多くて、生徒会長で。始業式最初の全校テストでも、学年1位だった。よその女子中学生まではわざわざ見に来るような人。 かたや自分は・・・ 揉め事もないけれど、特に親しい友人がいるわけでもない。別にそれがどうというわけじゃないけれど。テストでは、4位だった。特にもてる訳でもない。 ―――――なんだかなぁ・・・ 何がどうというわけじゃないのに、気になって。悔しい。 たぶんというか絶対、相手にもされないだろうけど、意識してしまっていてそれもむかつく。 ブブブブブブ・・・ 「あ?」 その時、薫の携帯が着信を告げた。薫は慌てて起き上がって鞄の中を探る。 ――――お母さん!?・・・ああ、お爺さま・・・ ドキっと胸が高鳴ったのは無駄に終わり、携帯の液晶画面には祖父の文字が照らし出されていた。 「はい。薫です」 『薫。今いいか?』 今年で71歳になるとは思えない、大きな力強い声が耳に響く。 「はい。もう家ですから」 『そうか。いやな、誠二から聞いたのだが今年もクラス委員に選ばれたそうだな』 「はい」 『ちゃんとやれているのか?』 「はい。春の遠足の場所も問題なく決まりましたし。順調です」 『そうか、そうか。それならいいんだ。今の生徒会長は4年で会長になったんだったな?』 「はい、そうですが・・・」 ざわっと、胸が鳴る。 『お前もなれそうか?』 「お爺さま・・・。僕には――――」 無理です。 『何を弱気な事を。他人に出来て、お前に出来ないはずは無い。ちゃんと努力しなさい』 「―――はい」 結構僕、がんばってるんですけど。 『良い報告を期待してるぞ』 まだ、足りませんか? 「はい」 『ちゃんと勉強もして』 でも、いつも1番にはなれません。 「はい」 『じゃあ、それだけだ』 期待に添えないと、僕はだめですか? 「はい。失礼します」 もう、これ以上は無理です。 そんな事は言えるはずもないから、薫は黙って携帯を切るしかない。 遠足。どこに行くかは聞いてくれないんですよね? 学校生活が楽しいかどうかも聞いてはくれないんですよね? ただ、結果が必要なだけ。 でも。 「・・・がんばらなきゃ」 薫は無意識にそう呟いて、のろのろと椅子に座って教科書を広げ出した。夕飯までにはまだ30分あるから、予習するにはちょうどいい時間だから。 がんばらなきゃいけないから。 |