軌跡 6 


 明日に遠足の迫った4月22日。薫は教室で集めたノートを職員室に持っていた帰り、ふと視線を向けた中庭にその背中を見つけた。
 ――――珍しい。
 こんなところであんな風に一人でいるタイプには見えないのにと、普段ならそのまま立ち去るのにどういうわけか薫は好奇心につられて、中庭へと出た。
 鯉の泳ぐ池の奥、ベンチに座る少年に薫は近づいた。
「朝比奈君」
「あ・・・、樋口」
 名前を呼ばれて弾かれたように顔を上げた翔は、人が近づいて来ていた事にも気づいていなかったようだ。
「どうしたの?こんなところで一人なんて珍しいね」
 その周りには、いつも人が群がっているのに。
「うん・・・」
「隣、いい?」
「ああ、もちろん」
 慌てて避けた翔の横に、薫は座って。餌がもらえると勘違いしたのか口をパクパクさせて寄って来る鯉を見つめた数十秒後。
 ――――・・・困った・・・
 好奇心に駆られて、何も考えずに横に座ってはみたものの、薫と翔はさして仲が良いわけでもなくて、ましてや薫は饒舌な方ではない。翔に黙られると、いたたまれない沈黙しか流れない。
 手持ち無沙汰に鯉を見つめていたところで、鯉が芸でもしてくれるわけではなくて。
「あ・・・ごめん。僕―――やっぱり行くよ」
 沈黙に耐えなれなくなった薫が少し腰を浮かす。
「なんで?」
「いや、なんでって・・・朝比奈君、一人でいたかったんでしょ?」
「別にそういうわけじゃないよ」
「ああ・・・そうなんだ」
「うん」
「―――じゃぁ・・・」
 そう言われてしまえば、薫はせっかく浮かせた腰を再び落ち着かせるしかなかった。
 ――――いたたまれない・・・
 そう思う沈黙が流れた数秒後。ザーっと音を立てて木々が揺れたその音の合間から。
「あのさ・・・」
 翔が口を開いた。
「うん」
「――――もしさ、今、親が離婚するってなったらどうする?」
「えっ!?朝比奈君のところ、そうなの!?」
 ――――ええ!?
「あっ、いや違う。うちじゃない。これはその―――たとえばの話!そう、例えば」
「そ、そう?」
「うん」
 ――――・・・、びっくりした。
 薫はまだ驚いた顔で翔を見つめた。例え話にしては何か思いつめた様にしか見えない翔の様子に、薫はどう対応して良いのか内心ドキマギしながら、座りなおした。
 本当に、例え話?
「なぁ・・・、どうする?」
「・・・どうするって言われても、僕らにはどうすることも出来ないんじゃないかな?」
 薫は慎重に、けれどハッキリとそう告げた。
「え・・・?」
 少し翔の方が小さい所為か、下から窺うように大きな瞳が薫の顔をまじまじと見つめた。
「だって、僕らは子供だし。親には親の人生っていうのがあるし」
「でも、そいつは離婚なんかして欲しくないんだぜ?」
「たとえそうでも、止める事は出来ないよ。僕らは、親の決めたことに従うしかないんだから」
 そう思う薫の脳裏に、自分の両親の顔が浮かび上がる。
 一緒にいて、とか。お休みにどこか行きたいとか、言いたい言葉を何度諦めただろう。約束が破られた時だって。
「子供だから?」
 トクンと、胸が鳴る。
「そう」
 子供には、嫌だなんていう権利はきっとないんだ。
「でもさっ、そいつはお父さんの事もお母さんの事も大好きなのに」
 好きなんて、関係ない。
「朝比奈君。そういうのはワガママだよ」
 ワガママは言っちゃいけないんだよ。ワガママを言う子は、悪い子だから。
「なんでだよっ!」
 だって、好きだからって好きでいてもらえるわけじゃない。たとえ好きでいてくれていても、自分の人生ってヤツの前ではそんな気持ちも無力だ。
「家族が一緒にいるのは当たり前だろ!!」
 ――――あ・・・
 感情が高ぶって、立ち上がって怒鳴った翔を薫は見上げる。
「なんで、朝比奈君が泣くの?」
「えっ、あっ―――泣いてなんかないっ」
 いや、朝比奈君、今、君、自分の手で目を擦ったじゃないか。
 だいたいにして・・・
「例え話でしょ?」
「そーだよ!」
「朝比奈君の話じゃなくて、他の誰かの話だよね?」
「そうだよ!」
 ――――あのね、それってたとえ話じゃないよ?まあいいけど。
「なんで他人なんかのために泣けるの?」
 不思議だ。いや、むしろ不可解だ。
「――――っ!」
 ――――僕は自分の事でだって泣けないのに。
「僕ら子供は、自分の親にだって何かを言えないのに、ましてや、他人の事に僕ら子供が出来ることなんてまったくないよ」
「じゃぁっ、黙って見てるしかないのかよ!」
「ないよ」
 何言ってるんだろう?
「そいつが悲しんでんのに!?」
「それはその子の家の問題だろ?」
 何をそんなに熱くなっているのか、薫にはまったく理解出来なかった。本当に、わからないのだ。けれど、そんな薫の態度が翔にはどうしようもなく、腹が立っていた。翔にはまた、薫の言動が冷たく薄情にしか思えなくて。
「〜〜〜バカ!!」
 ――――はっ?・・・ばか?
 仁王立ちに立って、両手をぎゅっと握り締めて翔は叫んだ。
「樋口がそんな冷たいヤツだとは思わなかった!!見損なったからな!!」
「・・・・・・」
 ――――・・・・・・
 翔はそう言い残すと、唖然とする薫を残して泣きながら走っていってしまった。とっさに追いかけとかの反応も、薫には出来なかった。
 ショックだったからではない。
 ――――ばかって。見損なうって。
 なんでテストのたびに10点20点で、いつも先生に怒られている朝比奈君にバカ呼ばわりされなきゃいけないんだ。
「――――」
 薫は、ぎゅっと両手を握り締めた。本当によくわからない、理解出来ない思考回路と言動だった。だから、きっとこれは一笑して終わりのはずなのに。
 ――――なんだろう・・・
 翔の涙が、もやもやする。
 別の僕が悪いわけじゃないのに・・・・・・
「あーあ、俺の弟泣かしたな?」
「っ・・・、会長」
 いきなり声がして驚いて振り返ると、奥の木々の間から生徒会長であり兄である朝比奈透が顔をだした。その顔は、どこかバカにしたように笑ってる。
「盗み聞きですか?」
「いーや、寝てたので。バカって怒鳴り声で目が醒めたから、話の内容は聞いてない」
「・・・・・・」
 その言葉に、薫は疑わしそうな視線を透に向けた。けれど、嘘とも言えない。
「で、何の話?」
「朝比奈君から聞いてください」
「見損なったって言われてた」
「そうですね」
 薫は、透が近づいてくるのを察したのか、すっと立ち上がった。
「いいのか?」
「別に。見損なわれるほど親しい友人でもないし。何を基準に言っているのかわかりません」
 それは本当。だから、そんな事にショックだったわけじゃない。ショックなんか、受けない。
 一歩近づく透に、薫は一歩下がる。
「樋口って、友達っているの?」
 そんな薫の態度に、透は苦笑を浮かべて尋ねた。
「――――友達?」
「そう。自分のために泣いてくれそうな、そんな友達」
「・・・必要ですか?」
 友達なんていらない。
 ――――お爺様が、友達なんて作らなくていいって、言っていたから。
 だから、薫は何を言っているのかわからないとでも言いたげな顔を作る。それを見ていた透は、ため息をついた。それは、随分大人びて見えて、小学生には見えなかったけれど。
「可哀相だな」
 そう呟いた言葉に、薫はカッとその顔を赤らめた。そんな、哀れみのような言葉は侮辱だ。
「そんな事、会長に言われる筋合いありません!」
 薫は、わななきを押さえた口調でそう言うと、キツい顔を残してきびすを返して立ち去って行った。
「・・・樋口!」
「――――」
 薫は振り向かなかった。振り向けなかったのだ。涙が、込み上げてきて、泣きそうだったから。
 透の視界から、薫の背中が木々の間に隠れて見えなくなった時、頭上でチャイムの音が鳴り響く。休み時間の終わりを告げていた。
 透は、薫の去っていったほうを見てなんとも言えない笑みを漏らした。それは、少し辛そうにも見えて。
「可哀相だよ――――」
 透の呟きは、チャイムの音にかき消された。








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