軌跡、そして…10



「理事長っ!?」
 この出現に慌てたのは中村教諭筆頭に教師陣だ。声が裏返っていた。
 職員室の空気も一変する。こんなゴタゴタが理事長の耳に入るとは、その責任者は処分を免れないのではと、色めきたったのだ。
 しかし当の雅人はそんな教諭達には目もくれず、3人の生徒に理事長室へ来るように告げた。
「あの、理事長がお出になるほどではっ・・・」
 いつの間にやってきたのか、教頭が小さい声で提案する。
「こういうゴタゴタは早く解決したいだけです。それに、生徒から話を聞くのも私の仕事ですからお気になさらずに。もう始業の時間ですから、先生方はいつも通りに授業をしてください」
 雅人はまるで取り合わないでそう言うと、ではと軽く挨拶をして3人を促して職員室を出て行った。その後、職員室がどんな騒ぎになったかはまぁ、おいておいて。
 連れられた3人も想像もしていなかった人の出現に、流石に口を開く気にはなれず押し黙って廊下を歩いていた。
 校舎の奥にあるのが理事長室だから職員室からはそう遠くない。
「どうぞ」
 扉を開けられて、3人は口々に"失礼します"と言いながら中に入る。理事長室は思いのほかこじんまりしていたが、床には足長の絨毯が敷かれ、応接セットは革張りの重厚な雰囲気。カーテンの開けられた窓からはグラウンドが一望出来た。
 雅人は、3人を振り返って自身のデスクに腰をもたれさせて立った。
「さて、私が今朝から聞いた話では―――樋口君が倉田君を怪我させた。その理由が次期生徒会長の座を巡ってという事なのですが」
「それはまったく違います。その件について説明させていただいてよろしいでしょうか?」
 真っ向から雅人に視線を向けて堂々としている透とは対照的に、倉田は青い顔でたた立ち尽くしていた。
「聞きましょう」
 薫も青くなるまでなかったが、流石に驚きは隠しきれていなかった。
「まず、樋口君は倉田君を怪我などさせていません。それは私が断言出来ます。なぜなら、土曜日に倉田君が樋口君を突き飛ばし怪我させた現場に居合わせ、その後樋口君が高熱で倒れた事を知っているからです」
「なるほど」
「また、私は自分の後を倉田君に、などと話したことは一度もありませんし考えたこともありません。私の希望は一貫して後任には樋口君と思っております」
 雅人は黙って頷いて、続きを促した。
「何故倉田君ではダメなのか補足させていただきますと、倉田君はクラス委員すらきっちり出来ていないからです。どういう理由があるのかは知りませんが、移動の連絡や持ち物の連絡などを樋口君には故意にしていない形跡があります。そのことで樋口君は迷惑をこうむり、中村教諭の様にそれが樋口君本人の問題だと考えている方もいらっしゃるようで、樋口君の名誉を傷つけています」
「倉田君は、何か言う事がありますか?」
 雅人はまったく表情を変えずに、視線だけを倉田に向けた。
「あ・・・、僕は何も、そう、何もしてません!」
「何も、というのは具体的に何を指しているんでしょうか?樋口君に暴力を振るったという点ですか?」
「そ、そうです。僕は何もしていのに樋口君が勝手に転んだんです」
 ここまで来て、ようやく薫も冷静さを取り戻していた。ある意味、倉田の言い訳があまりにもずさん過ぎて呆れてしまって、緊張感が抜けてしまったとも言えたが。
「じゃぁ、どうしてあの時逃げたんだ?―――二人がいない事に気づいて私が戻って行ったら、倉田君は慌てて逃げました。樋口君が勝手に転んだだけなら逃げる必要はないと思います。大丈夫?と言って助け起こせばいいのではないでしょうか?」
 前半は倉田に、後半は雅人に向けて言う。
 倉田がきゅっと唇を噛み締めて俯いた。
「樋口君は何か言う事はありませんか?」
 雅人の問いかけに、倉田の顔がより一層青ざめる。その様子を見ていると、薫はなんだか憐れに思えてきた。
「僕は・・・、特に言う事はありません」
 気づくと、そう口にしていた。
「何も?しかし今倉田君と会長の意見は真っ向から違いますよ?どちらが正しいのでしょうか?」
「それは会長の意見です。でも、僕は当事者でもありますので・・・」
「弁明には向かない?」
「はい」
 このときの透の顔に台詞をつけるなら、バカかお前は!ちゃんと言う事言え!!というところだろうか。
 しかし、そんな薫の様子に雅人は少し笑みを漏らした。
「私の知っている事実も、朝比奈会長の話と同じです」
「っ!!」
 咄嗟に見た倉田の顔は今にも泣きそうになっていた。
「この件については、他の先生方とよく話し合い処分を決定したいと思います」
「処分・・・?」
「当然でしょう。嫌がらせをした挙句、罪をでっち上げ悪意のある噂をばらまいたのです。処分されてしかるべきだと思いますよ。それとも、こんな事はしてはいけませんよ、と注意されるだけで済むと思っていたのですが?」
 雅人の言葉は一件丁寧だが、その響きは容赦なく冷たかった。倉田にもそれがわかるのだろう、顔の色を失っている。
「理事長・・・」
 何か弁明しようかと何故か薫が口を開いたとき、倉田が崩れるようにしゃがみ込んだ。
「倉田君っ!?」
 気分でも悪くなったのかと、これまた何故か薫がしゃがみ込む。が、背中でもさすろうかと差し伸べた薫の手を倉田は跳ねつけた。
「樋口がっ!―――樋口がいなかったらっ」
 この期に及んでまだ言っている。けれど―――――
「ここに入るって決まって。凄い学校だぞってお父さんに言われて、日本の学校に通うの初めてだったからドキドキして、嬉しくて。色々調べたんだっ。学級新聞とかも取り寄せてもらって。―――その時、朝比奈会長の記事も読んだ。凄いかっこよくて、みんなの憧れだって。写真も載ってて―――――僕、僕・・・、一目ぼれだったんだ!」
 倉田はそう言うと、小さな子供の様にわんわんと声を上げて泣き出した。
 ―――ああ、そうか・・・
 僕と倉田君は一緒だったんだね?
 薫は跳ねつけられた手をもう一度伸ばして、泣きじゃくっている倉田の背中をさすってやった。
 ばかだな、と思う。
 そんな風に思われたって、所詮自分だって遊びの相手なのにと思う。
「あの、処分って重いですか?」
 薫の声に、透はかなり呆れ顔になっている。
「話し合ってみないとわかりませんが、最悪の場合退学もあります」
「!!」
「そんなっ・・・、そこまで大きくなったら僕もこれからの3年間凄くやりにくいですし、軽く停学とかにしてもらえませんか?」
「処分はこちらで決めます。ただ――――樋口君はいわば被害者ですから、その被害者の意見は参考にはさせていただきましょう」
 実は倉田はこれでも外交官の息子で、しかも代議士の娘婿。そのうち政治家になるかもしれない相手だけに、雅人も退学にするつもりはなかった。ただ、この件で親には恩を売っておこうとは思っていたが。
「ありがとうございます」
 そんな事を知らない薫は、ホッとした顔になった。
 顔色を変えない透は、たぶん倉田の親のことくらいは知っているのかもしれない。いや、透はそれ以上の事も知っていた。雅人が教師陣を一層させようとしている事を。その為にきっと今回の件を利用しようとしている事も。
「まだお礼を言うのは早いですが。さてもういいですよ。1限目は始まってしまいましたが、3人とも教室に戻ってください」
「はい」
「失礼しました」
 雅人の言葉に薫は倉田を支えるように立ち上がって、透は無表情に頭を下げた。
 廊下に出ると倉田は保健室に行くと言い出して、薫の腕を拒絶して一人歩いて行ってしまった。
「つーか、お前は甘すぎ」
 その背中を見送りながら透は言うが、薫はその言葉には返事をしなかった。
 自分と同じだから同情した、とは言えない。口にするのは、もっとそっけない言葉。
「では、僕も戻ります。ご迷惑をおかけしました」
 どうして透が倉田絡みのごたごたを知っているのか、どうしてこんな風に言ってくれたのか、疑問はいっぱいあったけれど、それよりも前に薫はこの場を立ち去りたかった。
 朝から避けまくっていた相手なのだ。薫は透に頭を下げて回れ右した。
「待てよ。話がある」
 けれど、透はそれで終わらすつもりは毛頭なかった。その声を振り切るように薫は足早に目の前の階段を登る。1年の教室は2階なのだ。
「樋口っ」
「授業中です」
 2階についた途端に透に腕をつかまれた。
「離してください」
 透は薫の言葉を無視して3階へ登る。
「会長っ」
 強い力に引っ張られる。
「静かにしろ。授業中だぞ」
 なら離してくれっ、そう思うのに本気で抗えない。
「どこに・・・」
 3階も通り抜けてさらに上へと透が上がる。そこには屋上しかなくて、屋上は立ち入り禁止なはず・・・
「それっ」
「屋上の鍵」
 透はポケットから取り出した鍵でなんなく扉を開けて薫を屋上に放り入れた。後ろ手で扉を閉めて、鍵をかける。
「なんで鍵を持ってるかなんて野暮なこと聞くなよ?」
 何がどう野暮なのか、薫にはちっともわからないがそういわれると聞きにくくて、しょうがなしに黙って顔を背ける。
「熱、もういいのか?」
 声とともに、じりっと一歩、透が薫に近寄っていく。
「はい、もう下がりました」
 反射的にじりっと一歩、薫が下がった。
「それは良かった」
 さらに一歩、透が出る。
「ご迷惑おかけしました」
 さらに一歩、薫が下がる。
「迷惑なんかかけられてない。ただ、心配しただけだ」
 当然、透は一歩前に出る。
「お花、ありがとうございました」
 当然、薫は一歩下がる。
「会いたかったのに」
 次の一歩は少し大またに出る。
「・・・っ・・・」
 薫も大きく下がらざるを得ない。
「カーテン閉められて、正直凹んだ」
 さらに大きく一歩前へ足を踏み出す。
「・・・、・・・っ」
 薫はつられて大きく下がる。
 ガシャン!
「あっ」
 ガシャン!!
「―――っ!!」
 薫の背中がフェンスに当たって、逃げる前に透の腕がフェンスを掴んで薫の逃げ場をなくした。薫の目の前には透の肩。両脇は腕が伸ばされて、腕の中に閉じ込められてしまう。
「・・・どいて、ください」
「嫌だ」
「会長っ!」
 声は、悲鳴の様。
「なんで、逃げる?」
 顔もまともに見れない。
「――――」
 答えなんか、言えない。
「薫」
「・・・っ・・・」
 無言で激しく首を横に振る薫。
  ――――呼ばないでっ  呼ばれるたびに心臓が痛くなるから。
 目の前にある透の胸にすがってしまいたくなる。
 好きです、と言って終わりにしたい。
 けれどもし今好きって言いさえしなければ、ずっとこうやってかまってもらえるかもしれない。
 それは、苦しいけれど甘い誘い。
 あと1年、透が卒業するまでそれもいいのかもしれないと。きっとそんな事耐えられないとわかっているのに、考えてしまう。
 倉田に同情したのは、自分と同じだと思ったからだ。
 振り向いてもらえない人を、好きになってしまったから。
 その苦しさがわかるから。
「薫・・・」
 お願い。
 そんな、そんな声で呼ばないで――――
「っ」
 透の手が、薫の髪に触れる。優しく梳かれる感覚に、涙が頬を流れ落ちた。
 もう、どうしようもなく。
「薫」
 好きだから――――――
「――――お前が、好きだ」







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