軌跡、そして…15



 月曜の昼休み、薫と綾乃は二人で生徒会室にやって来ていた。本当なら翔もいるはずなのだが、3限目の英語の小テストが白紙に近くて、先生に呼び出されたのだ。
 二人きりの生徒会室で、なんとなく当たり障りのない会話をしながらお弁当を食べていたのだが、綾乃が耐え切れなくなって本題に触れた。
「・・・週末、どうだった?」
 それでもその言い方は、少し聞きづらそうだけれど。
「うん、楽しかった」
「そっか・・・」
「うん」
 短い言葉しか返さない薫はどうやら今は何も語りたくなさそうで、その態度に綾乃の決心がちょっと鈍りそうになるのだが、それでも言わなきゃと思い、思いきって口を切った。
「薫の決心は、揺らがないの?」
「綾乃・・・?」
 綾乃が見つめた薫の顔は、少し逆光になっていてよく見えない。だから、今薫がどんな顔でいるのかは綾乃にはわからなかった。
 ただその声は、なんとなく堅かったけれど。
「ごめん。でもね、見えない先を今決めなくてもいいんじゃないかなって思うんだ」
 それは綾乃が一生懸命考えて、やっぱり辿りついた思い。けれど、薫は何も言わない。
「こんな事言ってごめんね。薫が、僕に何か言って欲しいとか、して欲しいなんて思ってない事もわかってる。ただ、話を聞いて欲しかったんだろうなって思ってる」
 外は冬空で、綾乃が黙れば音も消えるような空気。
 薫は、やはり何も言わない。
「でも、僕は言わずにはいれなくて。だって、薫のしようとしてる事は・・・、悲しいことだよ」
 綾乃にしてはかなりの勇気のいる行為なのだろう。言っている声が少し、震えて聞こえる。
 いつしか箸を動かす薫の手が止まっていた。けれどやはり何も言おうとしない薫に、綾乃はなおを口を開く。それは、雅人から貰った勇気。そして、綾乃の僅かばかりの経験から。
「――――ごめんね、こんな事言って。・・・でも、僕は、何かしたいんだ。だって薫はやっぱり、間違ってると思うから。間違ってるなんて・・・、偉そうだけど・・・、僕は薫の友達だって思うから・・・、薫に好きな人と、幸せって言って笑ってて欲しいから」
 恋人ではなかった、あの人は父だったけれど、あの時感じた好きな人が傍にいなくて捨てていかれる、その悲しさを知っているから。そして、好きな人と一緒にいられる喜びも知っているから。だから、綾乃は薫のしようとしている事がただ切なかった。
 一人がどれだけ寂しいのか、その寂しささえも感じられなくなる程に知っているから。だから諦めないで欲しかった。それを、伝えたかった。
 数分の静寂のあと、黙っていた薫が口を開いた。
「分かってる。自分が間違ってることも。あの人を傷つけることも・・・自分を傷つけることも―――全部わかってるよ」
「薫」
 口を開いた薫の声は――――震えていた。何かを、押し殺すように。
「自分が、卑怯だって事も、わかってる――――」
 ――――卑怯・・・?
「―――ずるくて、汚い・・・」
 吐き出された言葉は、なんだかとても投げやりに聞こえて、綾乃には言葉の意味が分からなくて首を横に振る。
 だって薫は汚くも、卑怯でもない。そう思うから。
「綺麗なままで別れたい。そうしたらいつか友達として会える。繋がっていられる。それでいい。そう言ったよね?」
「―――うん」
「そう、思ってるのも事実だよ。でも――――でもそれだけじゃない・・・・・・」
 ――――泣いて、る・・・?
「僕はあの人がなんて言うか知りたいんだ」
「薫!?」
「別れを告げたとき、なんて言うのか知りたいんだ。じゃなきゃ・・・、4年も待てないよっ・・・!」
 薫の声が、息遣いまでもが、苦しそうで痛い。
「かおる・・・」
 綾乃は薫の、そのもう一つの真実に何を言っていいのかわからなかった。4年、薫にとってそれはそんなに重いものなのだろうか?4年、まったく会えないわけじゃないのに?
「何もかも捨てて、―――攫ってくれたらいいのにっ」
 薫はそう言うと、両手で顔を覆い隠した。押し耐えていたものが、堰を切ったかのように吐き出された様な強い口調。
「僕は一人っ子なんだ。僕が結婚しなきゃ、子供を作らなきゃ事務所は僕の代で終わる。お爺さまの作った城も、夢も僕が壊してしまう。あの人だって長男で、ご両親は将来に凄く期待をかけてる。お前の代でもっと会社をでかくしてみろって言ってるのを何回も聞いたよ。きっとおじ様様やおば様には透さんの子を、孫を抱くって夢だってあるはずだよっ」
 ――――薫・・・
 薫から吐き出される感情に、綾乃は、何も言えなかった。綾乃に何が、言えただろう。大学進学と言う目の前の事にもまだ目を瞑っている自分に。それさえ決めれない、自分に。
 薫の背負ってる思いなどまったく気づけなかった自分に――――何を言う資格があったのだろう。
 今日子さんはわかっていたのだろうか、貫き通す事の苦しさを、その意味を。
「会長に、そう言えば?全部、言っちゃえば―――」
 何も、薫一人で悩んで考えなくていい。二人の問題なのだから二人で話さなきゃと綾乃は思うけれど。薫は僅かに、首を横に振った。
「好き過ぎて・・・」
 言えない。小さな声が、綾乃の心に刺さる。
 ああ・・・・・・
 だって、分かるから。
 自分も一人考えて、結論を出したことがあったから。
 顔を覆って、肩を震わしている薫に綾乃はそっと近づいて、ただその身体を抱きしめた。それしか出来なかった。泣かないで、とは言えなかったし、泣いてもいいよなんて無責任に言えなかった。
 言葉なんか、何の役にも立たない。
 薫が、涙と一緒にどれだけのものを我慢しようとしているか。薫がどれだけ苦しいか。何もわかっていなかった。
 ―――――ごめんね・・・・・・
 そんな言葉さえも、無責任で言えない。





・・・・・・





「お帰りなさいませ」
 何故か小さめな声で松岡が雅人を出迎えたのは、夜の10時少し前。いつも日付をまたいだ時間にしか帰ってこない雅人にしては、異例な速さと言える。
「綾乃の様子はどうですか?」
「お夕飯の後からずっとお部屋です。雪人様の前では普通にされていたのですが―――絶対何かあったと思います」
 玄関先で大の大人がこそこそと語り合う図は明らかに変だが、本人達はいたって真剣。
「帰ってからずっとですか?」
「はい。大変落ち込んでいらっしゃるご様子です」
 雅人がこんな時間に帰ってきたのは、綾乃の様子がいつもとは違う事に心配した松岡が雅人に連絡をしたからだ。
「わかりました。とにかく様子を見てきます」
「お願いします」
 雅人がそう言うと、そっと2階へと上がっていく、その背中を松岡は心配そうに見送ったのだった。

 コンコン。
「綾乃?入りますよ?」
 声をかけた室内からは返事はないが、中にいないはずはないと雅人はドアを開けた。
「綾乃。ただ今帰りました」
 雅人は布団の盛り上がりに声をかけて室内へと足を進めた。声は聞こえないから、もしかしたら寝入ってしまったのかもしれないと思い出す。
 けれど、確認したくて雅人がそっと布団に手をかけると、中からぎゅっと引っ張られて、まだ寝入っていないことを知る。
「綾乃?おかえりなさいって言ってくれないのですか?」
 雅人はそう言いつつベッドの端に腰掛ける。
「あーやーの?」
 あやすように言って、布団をポンポンと叩けば。くぐもった、おずおずとした声が聞こえた。
「おかえりなさい。・・・今日は、早いですね?」
「はい。たまには早く帰って綾乃と話がしたかったのですが――――顔を見せてもくれないのですか?」
 どだいにしてこういう言い方をするのは卑怯だろう。綾乃が断れないように言葉を紡いでいるのだから、布団の中で綾乃はどんどん追い詰められている。
「顔は・・・だめ」
「どうしてです?」
 その質問には、しばらくの沈黙が流れた。雅人は急かすでもなく、無理に布団を剥がすでもなく、ぽんぽんとゆっくり布団を叩いてなだめながら待つ。
 グズっと密かに音が聞こえてくるから、きっと泣いていたのだろう。一体何があったのだろうか。
「・・・あのね」
「はい」
 結局布団からは顔を出さないで、話しかけてきた綾乃。
 ―――――もし、邪魔になったら捨ててもいいよ・・・
 なんて、思っていても言えない。だって、一人は怖い。
「意思を、貫き通すって難しい事だよね?」
「そうですね?」
「あのね・・・、周りは絶対認めない事なんだ。でも、自分は絶対そうしたい。けどそうすると周りの人をみんな傷つけちゃうんだ」
 雅人は、そっと息を吐いた。良かった、そんな事だったのかと綾乃には悪いが安堵したのだ。
「はい」
 綾乃の叔父達の動作は常に注意しているが、もしかして何か接触があったのだろうかとか。学校で虐めにでもあったのだろうかとか。色々考えてしまっていた。
「その時雅人さんは、・・・どうする?」
 けれど、これはこれで大切な事だ。
「私は、自分の意思を貫きます。たとえ誰に認められなくても。誰一人にも認められなくても、私は大切な意思を選びます」
「・・・・・・それで、相手の人の将来を困難にしても?」
「はい。だって、その人を失くしたら生きていけません。生きては、いけないのです。この思いはエゴかもしれません。そう言われても仕方がありませんが、私にはどうする事も出来ない」
「・・・・・・」
「綾乃はどう思いますか?」
「僕はっ・・・、僕はわからない。わからないよ――――」
「どうして?」
「だって、その人の将来を奪うかもしれないんだよ。その人を不幸にしてしまうかもしれない。その人は、いつかその事に後悔してしまうかもしれない。――――苦しめるかもしれないっ。そんなの・・・」
「綾乃」
「そんなの僕にはわかんないよっ」
 薫の話のはずだったのに。いつしか問題は摩り替わって自分の話になっていた。いや、自分達の話に。
「では、綾乃は私を捨てていくんですか?」
 雅人はぎゅっと布団ごと綾乃を抱きしめる。その声が、雅人らしからぬ―――悲痛な響きに綾乃の身体が動きを止める。
「捨てて、出て行くんですか?」
 ――――わからない・・・・・・
 本当ならもう社会で働いていると思っていたのに。そして、いつかアパートでも借りて、一人ぼっちで生きていくのだろうと思っていた将来。その時はその先が見えていたはずなのに。今はその将来が見えない。
 2年後の卒業すらまだ遠くて―――――わからなのに――――
「綾乃・・・?」
「わからないっ・・・、」
「綾乃」
「わかんないよ」
「なら、分からなくていいです。まだ何も決めないでください。お願いですから、早計に先を決めてしまわないで下さい。・・・まだ、時間はあるでしょう?」
「でもっ―――時間の、ない人もいる・・・」
 薫の声。
 薫の涙。
 薫の切なさ。
 薫の苦しさ。
 薫の背負ってる思い。
 薫の耐えている思い。
 全部が全部、綾乃の脳裏に残っていて。切なくてやりきれなくて、何も出来ない自分が不甲斐なくて腹立たしい。
 自分に置き換えたら、ばかみたいに苦しくなって涙が止まらなくなった。
「そんな事は、ありませんよ」
「・・・っ」
 綾乃は布団の中で首を横に振る。
「4年なんて先は、確かに長いです。私と綾乃が出会って1年と少ししかたっていませんからね」
「・・・・・・」
「私は4年前、綾乃に出会うなんて想像もしていませんでしたよ。あの頃は、大学を卒業したばかりで、学園を継いで。ああ、私はこの学園を守ってそのうち家柄に見合う人をあてがわれて結婚するんだろう。子供も作らなければならい義務もある、それくらいにしか思っていませんでした。ところがどうです?1年前運命の人に出会いました。男の子です。到底子供は出来ません。周りは賛成するはずもなく、家柄もありません。けれど、今の私にとって家や地位よりもその相手が1番なのです。その人に会って初めて分かったのは、今までの世界がいかに空虚で色褪せたものだったかという事です。自分がどれだけつまらない世界に生きていたかを知ったのです」
「・・・・・・」
「ねぇ、綾乃?―――そんな先の心配をして、今の幸せを壊さないで下さい。先の事はその時考えませんか?そんなわかりもしない先の事を理由に、綾乃に捨てられるのは我慢出来ませんよ」
「っ捨てるなんて・・・、そんな事言ってないもん」
「それは良かった」
 くすっと雅人が笑って、その声に綾乃はハッと我に返った。
 よくよく考えたら・・・どっかから話がずれてる――――?
 ――――えっ、えっ・・・僕もしかしてなんかとんでもない事口走ってない?っていうか、言われてない!?
 綾乃は、カーと顔が熱くなっていくのを感じて、思わず顔を枕に埋める。いや、全体を布団で覆われているのだから隠してもしようがないのだが。
 ――――うー・・・薫の事相談したかったのにっ
 でも、結局僕の出来ることなんか何もないのかな・・・
「綾乃?」
 雅人は綾乃が布団の中で一人葛藤中とは知らず、静かになってしまった布団に心配そうに声をかけた。
「・・・なに?」
「顔。見せてください」
「・・・うー・・・」
 意味不明の声を漏らして、綾乃がおずおずと顔を覗かせた。見せたのは、目まで。
「やっと見れました。ただいま、綾乃」
「おかえりなさい」
 瞼が赤いから、それだけでどれほど泣いたかと思うとやりきれなくなって。雅人はちゅっと瞼にキスを落とす。もちろん、両方。
「まだ、スーツ・・・?」
 ネクタイさえも解いてない様子に、綾乃は改めて目を丸くする。
「ああ。忘れてました」
 雅人はそう言うと、おでこにキスをして。
「では少し着替えてきます。ああ、一言だけ――――綾乃は、綾乃が正しいと思ったことをしたら良いと思いますよ。朝比奈翔君を見習えとは言えませんが、たまにはあれくらい単純に突っ走るのも必要です。樋口君や綾乃は少し悩み過ぎです」
 最後に布団からもうちょっと出て来た鼻や頬にもキスをして、部屋を出て行った。
 この後結局、雅人が着替えて軽く夜食を食べつつ松岡に経過報告をして。風呂に入って室内に戻ってみると、自分の枕をちゃっかり持ち込んだ綾乃がベッドの上で気持ち良さそうに眠っていたのだった。







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