軌跡、そして…19



「薫、・・・顔色悪いよ?」
 そう、綾乃が言ったのはバレンタインから1週間と少しが過ぎていた水曜日。卒業式の始まる直前だった。
「ちょっと、疲れてるかな」
 薫は笑ってそう言った。けれど、上手く笑えていない事は自分でもわかっていた。この週末は家で親戚が集まるとかで、透とは会えなかった薫。
 昨日卒業式の前夜祭という事で、在校生代表などから送る会が催されて久々に会ったけれど、個人的に話す機会は恵まれなかった。それは薫が、なんとなく避けていた所為もあったけれど。
 少し離れた場所から見つめた透は、いつもと変わらない様子で。明るくて、友人と盛り上がり先生からも特別に声をかけられていた。
 本当にいつもと変わらなくて。
 1週間後にはアメリカに行ってしまう空気など微塵も見せない。それが現実とは受け止められないくらいに、いつも通り過ぎて。別れを寂しがるそぶりさえも見えなかった。
「大丈夫?」
「うん」
 薫はそう言うけれど、綾乃には緊張に青くなった顔が見えていた。
 ――――こんな薫、見たことないよ・・・
 綾乃は心配のあまり、ハの字になった眉で薫の背中を見つめる。けれど感傷に浸る時間は、今の綾乃たちには許されていなかった。
 チャイムの音が鳴り響いて、卒業式がもうすぐ始まることを知らせ、薫と綾乃は慌てて体育館へと向かったのだった。




 ――――薫・・・、なんて顔してるんだ・・・
 透は下から、狂おしいほどの切ない思いで壇上の上で送辞を述べる薫を見つめていた。本調子からは程遠い顔色。その空気。きっと、他の者で気づく人は少ないだろうが、透には十分すぎるほど分かっていた。
 伊達に4年の付き合いじゃない。見つめていた時間はもっと長かった。
 ずっと、何かを抱えている薫。
 気づいたのはいつだったか。アメリカ行きが本決まりになった、少し後だっただろうか。アメリカ行きに対して何も言わず、むしろ将来の為には良い事だとさえ言って喜んだ薫が、何かを考えて勝手に結論を出したように見えた。
 透には、その答えがなんとなく察しはついて、だから言いやすいように水を向けてみたこともあったのに薫は一度も乗っては来なかった。たぶん、言葉は喉元まで出ているはずなのに飲み込んでいる。
それはわかっていた。痛いほどに。
 ――――苦しめるつもりなんて、一度もなかった。
 壇上の薫はわざと透の座る位置へ視線を向けることを避けている。きっと薫の事を何も知らなかったら、無表情の冷静な顔にしか見えなかっただろう。
 ――――なぁ・・・何が足りない?
 言葉は告げた。指輪も渡した。それ以上に、何が必要なんだ?何を求めている?
 透にはそれがわからなかった。
 見つめ続けた顔が、スッと後ろに下がって一礼した。挨拶が終わったようだ。壇上から降りていく薫をずっと透は見つめ続けた。
 しばらくは、中々見ることが叶わなくなるその最愛の人の姿を目に焼け付けるように。
 そしてその姿が、視界に捕らえることの出来ない場所まで行ってしまうと。
「卒業生答辞。―――卒業生代表、朝比奈透」
「はい!」
 声に反応して、透は立ち上がった。薫よりも完璧なポーカーフェイス、一切を遮断するかの様な空気を身にまとって壇上へと上がっていった。その透が実は内心苛立っていることに気づいた者などいない。
 ただ一人を除いては。  そしてその原因に心当たりがあるのも、その人ただ一人――――
 けれどそんな交差する思いなど関係なく、卒業式は粛々と進んでいった。





 遠くでざわついた音が聞こえる。卒業式を終えた生徒達が正門のところで盛り上がっているのだ。庭先で空を見上げる薫の耳にも、その声は届いていた。
 ――――後1回。
 今週末、泊りではないけれど少し会える二人。デートはそれが最後なのだろうかと考えて、心臓が痛くなって思わず胸元のシャツを掴む。
 指先に感じるリングの感触。切なさに頭の芯が熱くなる。
「薫っ!」
「――っ!・・・会長」
 ドキっと脈打った心臓を無理矢理なだめる様にして、普通を装った顔で振り返る薫。
「ここにいたのか」
 探したぞ、と苦笑を浮かべて近寄る透にも先ほどの空気は微塵も無い。
「はい、すいません。お見送りをしなければいけなかったのに」
「そんなのいいさ。それに、本当の見送りは来週だろ?」
「そうですね」
 軽く言う透に、薫は穏やかな表情で頷く。互いに、さっきの青い顔の原因も、苛立ちの原因にも触れようとはしない。ただ、穏やかなまま今をやり過ごそうとしているのは、既に狐と狸の化かしあいとでも言えば良いだろうか。
「ご卒業、おめでとうございます」
 薫が足をそろえてビシっと立って、深く頭を下げた。
「ありがとう。後は、任せた」
「はい。お引き受けいたします」
 きっともっと、他に言う言葉はある。それは互いに分かっているのに。4年という付き合いが長すぎたのか、互いに頭が良すぎるのが悪いのか。今はただがむしゃらなだけでいい言葉が、出てこない。
 ――――アメリカに、遊びに来い。
 その言葉も喉につかえる。無様に、透は怖かった。愛されている自信も想われている自信もあるのに、何かが怖かった。どこかに地雷が埋まっているかのような、そんな道を歩かなければならない様な怖さ。
「薫―――」
 ――――4年なんて、あっという間だ。
 そんな言葉は今更か。浮気はしないから、なんていうのは馬鹿馬鹿しい。しかし、だったら何を言えばいい、何をすればいい。
 目の前にいるお前が、何故こんなにも遠い――――?
 手を伸ばせばそこにいるというのにそれも出来ず、どうしてお前のこととなると俺はこんなに不器用になっちまうんだろうな。
 言葉もなく、ただ見つめあうこの時が永遠にも感じられる。
「樋口―!」
 静寂は、無粋な教師の声に邪魔された。
「はい!?」
 2階の窓から覗いたのは、学年主任だった。
「悪い、ちょっと聞きたいことがあるから職員室に来てくれ!」
「わかりました!!」
 薫は返事をして、透に視線を戻すと透は変わらず笑みを浮かべていた。
 ――――何かを言わなければ。
 それは苦しすぎる切なさでもって、薫の心を締め付けて焦らす。けれど言葉は見つけられない。
「じゃぁ、もう行きますね」
 口から出たのは、そんな言葉。
「ああ」
 返って来る返事は、当然引き止めるものではない。
 何を期待したのだろうか?
 分からない。
 もう何も、何一つ分からない。
「じゃぁ・・・」
「ああ」
 後ろ髪は引かれる。心残りは山のように積まれている。その山を、乗り越えることも突き崩す事も出来ない。今はただ、目を背けて逃げることしか。
 薫は瞳を逸らして軽く頭を下げて。逃げるように校舎へと戻っていった。
 透の足は動かない。ただじっと佇んでその背中を見送ることしかしなかった。ため息は、聞く人もなく空気に消える。
 戻ってくるはずの無い、消えた先を見つめていた。
 何を期待していたのだろう?
 何を期待してるのか、それさえももう分からない。
「しょーがねぇな・・・」
 ――――俺も。
 透は振り切るようにきびすを返した。
 正門の、声のする方へ足を向けて数歩進んだ時だった。
「会長っ!」
 呼ばれて振り返った先には、綾乃がいた。
「なんだ、夏川君か」
 声で違うと分かっていたのに、もしやと思った自分に苦笑しながら透は綾乃に声をかける。
 綾乃は、少し辺りを見回してから小走りで駆け寄ってきた。
「ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
 ぺこっと下げた頭を上げて。綾乃はそこで押し黙ってしまった。その顔は、言いたい事はあるのだけれど言いにくい、という心の内をしっかりと物語っている。
「なんだい?」
 薫相手じゃなければ、こんなに普通に言える言葉。
「はい」
「用がないなら行くよ?」
 第2ボタンでも欲しいの?そんな冗談を言って和ませてやるほどの余裕はなかったけれど。
「いえっ――――あの・・・、・・・」
 綾乃も慌てたように顔を上げる。
「何?」
 促す声に多少苛立ちが混じっているのは、間違いなく八つ当たり。
「薫の事、です」
 ――――薫?
「――――」
「薫、なんか色々・・・悩んでるみたいで」
 透の目が少し見開いた。まさかここでその話題だとは思っていなかった。
「会長にお願いです。あの・・・・・・薫の事、ちゃんと――――っ」
 ―――――・・・・・・。
「ちゃんと、捕まえていてください」
 真摯な瞳が透を真っ直ぐに捉えた。
「――――ああ。わかってる」
「・・・ホント、ですか?」
「ああ」
 ――――ああそうだ。絶対手放したりしない、そう決めてるんだ。
 それなのに、何を一瞬でも揺らいだのか。透は自分の馬鹿さ加減に苦笑を漏らす。
「薫は会長のこと凄い凄い好きなんです」
「夏川君が理事長のこと好きなくらいにね」
 一瞬にして真っ赤に染まった綾乃の顔。その反応のよさに思わず透は笑ってしまう。
「・・・そうです。それくらい、です」
 ――――・・・・・・へぇー、黙って俯いちゃうかと思ったのに・・・
 気丈に返事を返した綾乃に透は少し目を見張った。強くなった、そう思う。
「だから、ちゃんと。――――ちゃんと・・・」
「うん。わかった」
 ――――目が醒めた。
 なんだか夏川君に元気と勇気を貰ってしまったな、と透は目の前の綾乃の強さに笑みをこぼした。こういう真っ直ぐさが、俺にも薫にも少し足りないと思う。
「なぁ?その事で、出来れば一つお願いがあるんだけど、協力してくれるかな?」
 今度会う時に何もなければ、薫が何か仕掛けてくるのは最後の時だ。
 そうと分かれば、話は早い。
「僕がですか?」
 大体にして、透は薫を手放す気は無いのだから。
「そう」
 透はそう言うと、耳に手を添えて綾乃の耳元に内緒話をした。
 耳を寄せて言われた言葉に、綾乃はちょっと目を見開いて驚いた顔をしたけれど。見上げた透の顔に安心して、大きく頷いた。
 思い切って透に言って良かった、そう思えた。
「わかりました。任せておいてください」
「ありがとう。助かるよ。じゃぁ当日に」
「はい」
 嬉しそうに大きく頷いた綾乃の顔は晴れやかで、透の顔は何かたくらんでいそうな瞳をしていた。

 空は、そんな門出を祝うように綺麗な碧が広がっていた。








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