軌跡、そして…23



 腕の中で眠る薫の髪に、透は優しく指を差し入れた。まだ起きるには早すぎる時間だから、起こさないように密やかに髪を梳いてやる。
 かなり激しく責め立てて、身悶えさせて泣かせた。焦らして焦らして、欲しくて仕方が無くて腰をくねらせて泣くまで焦らして。しがみついてくる強さと、心地よい背中の痛みに酔いしれた。その強さの分だけ、欲しがっているのがわかるから。
「・・・ごめんな」
 まだ涙の痕の残る顔にそっと囁いて、キスをする。
 ――――初めは興味だった。
 小等部で出会った勝気な、プライドの高そうな瞳。それが面白くなくて、砕いてやろうかとそんなガキな発想で徐々に近づいた。
 それが恋になったのは、いつだったのだろうか。
 勝気なところがかわいいと思い、プライドの高さが虚勢だとわかった時だろうか。友達のいない、周りに壁を作ってしまうところに自分と似たものを感じた時か、それが可哀相だと思えた時か。
 咄嗟にかばい立てたあの日、震える手にしがみつかれた時だろうか?
 初めて、笑顔を向けられた時には完全にハマっていた。
「でもな・・・」
 好きと自覚したからにはどうしても手に入れたくて、出来るだけ優しい先輩で通して信頼されるように振舞って。最後のとどめにキスをした。意識させたくて。結局それが裏目に出て、随分遠回りしてしまった。
 そうしていつも、傷つけているのかもしれない。
「もう・・・」
 アメリカ行きだって、結局こうやって苦しめたのかもしれない。
「もう、手放せない・・・」
 ――――俺の心は決まってる。
 だから、薫にも心を決めて欲しかった。揺らいで欲しくなかった、いや、揺らいでもいい。でもそれもこれで最後にして欲しかった。もう迷わないで真っ直ぐ自分の下へ歩いてきて、傍にいて欲しい。だからあえて何も言わず、薫の心を待った。それが苦しい事も、傷つけた事もわかっていて見てみぬ振りもした。
「ごめんな・・・」
 好きになって罠を張って。好きにさせて巻き込んだ。きっと平穏で普通の、ありふれた未来はもう来ない。いつの日か、家族とどっちを取るのか迫ることになるのかもしれない。
 そんな事をさせるかもしれない。
「・・・なんで?」
「薫っ」
 てっきり寝ていると思っていた薫がうっすら瞳を開けて、透を見つめた。
「何故謝るんですか・・・?」
 その瞳が不安気に揺れている。
「無茶、させたかなって」
 わざと軽く言った言葉は、この不意打ちの状況に慌てたのか。透にしては珍しく声が動揺していた。そんなあからさまな変化が薫には分からない訳がなくて、じっと次の言葉を待つように透を見つめる。真っ直ぐに、目をそらすことなく。
「―――、泣かせたから、な」
 透は気恥ずかしそうに目を逸らした。
「?」
「これからも、泣かせるのかもしれない」
「透さん?」
 薫が僅かに身じろいで、少し向こうを向いた透の頬に指を伸ばす。そっと触れると、その肌触りが気持ちよい。
「でも、もう離せないから。他の誰かになんか、やれない」
 きっぱりと言い切った言葉とともに、透は薫に強い視線を向けた。それはどこか、内なる激情を無理矢理押さえこんで、わざと冷たく感情を押し殺した様に見えた。
「もし、他の奴なんかと浮気したら――――俺は自分がどうなるか、わからない」
 暗い炎を燃やす視線の先で、薫は場違いなほど穏やかな楽しそうな笑顔を浮かべた。
「そんな心配してるんですか?」
「――――」
「そんな事、あり得ると思ってるんですか?」
 くすくす笑う薫は、きゅっと透の背中に回した腕に力をこめる。
「・・・不安なのは、僕だけかと思ってました。僕が好きなほどに、透さんは僕を思っていないのかと」
「馬鹿か。俺はお前よりもずっと強くお前を想ってる」
 ちょっとムキになる顔に、薫は目を丸くする。
「だって。最初は遊ばれてると思ってから。―――つい」
 そう言うと、透の顔が途端にバツの悪そうな、苦虫を噛み潰したような顔になって。誤魔化すように薫をぎゅっと抱きしめる。
「それはもう、忘れろ」
「はい」
 やっぱり薫はクスっと笑ってしまう。
「絶対、幸せにするからな」
「はい」
「もう俺の事を疑うな。ただ信じて着いてきてくれ」
 言葉が胸に染み渡った。
「はい」
 ――――はい。もう迷ったりしません。
 薫は透の強さに負けないくらいぎゅっと透を抱きしめ返した。
 いつもいつも遠回りしているような気がするけれど、もう大丈夫。もう、迷ったり見失ったり、不安になったりしない。この腕をとって、その横に並んで、胸を張って一緒に歩いていける。
 その場所は、もう誰にも渡せない。
「まだ時間あるから、もうちょっと寝ろ」
 まだ外は暗い。透はあやすように薫の頬に触れるだけのキスを落とす。
「ん・・・」
 そのまま頭やら背中やらをさする透の手は、優しすぎて心地よくて。愛してる、そう囁かれる言葉は甘い子守唄。
 もう少しこのまま甘い空間に漂っていたいと、薫は必死で意識を繋ぎとめようとしたけれど、いつしか透の腕の中で、満ち足りて穏やかで、甘い甘い夢の世界へと静かに落ちて行った。





・・・・





 頭上では、スピーカーからひっきりなしにアナウンスが流れ、そこら住に人が溢れかえっていた。大学生はもう休みなのだろうか、大きなリュックを抱えたバックパッカーの姿も目に付く。
「・・・・・・」
 ゲートから少し奥の片隅で、椅子に座った二人の姿。薫は何か言わなければと何度も口を開きかけるけれど、言葉が見つけられなくて開いては閉じるの繰り返し。気ばかりが焦って、時間だけが刻一刻と過ぎ去っていく。
 見つめた先の透は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
 好きと言う気持ちはもう迷わない。互いを信じる気持ちも、もう揺らぐことは無いとわかっているから、不安があるわけじゃない。
でも、やはり寂しさは大きくて、それは拭い去れるものじゃない。時間ぎりぎりまで部屋にいたから、もう別れまでの時間はいくばくも無いだろう。
 ただ寂しくて。何度目だろうか、言葉も浮かばぬままに薫が再び口を開きかけた時。
「薫」
 透が声を発して。
「・・・はい」
 寂しさに震えた声で返事をすると、透の真摯な瞳が真っ直ぐ薫を射抜いた。
「ホワイトデーは何もいらないから、傍にいてくれ」
「え・・・だって・・・」
 ――――学校が・・・
「もう試験休みに入ってるだろう?それに週末だ。来られない事は無い」
 それは確かにそうかもしれないが、アメリカまでの距離をたった1日の為に往復しろと言うのだろうか。
「仕事だって・・・」
 入学式までに生徒会として仕事もあるし、副会長も決めなくてはいけないから、やらなくてはいけない事はたくさんある。
「薫。仕事なんて夏川や翔に押し付けてしまえ」
「えっ?」
 ――――綾乃はともかく、翔の場合かえって二度手間になるのでは・・・・・・
 そんな事は兄である透も十分わかっているはずなのに。
「俺に会うよりも生徒会の方が大事なのか?」
 自分が後を押し付けておいて、拗ねたように言う言い草は無いような気もするが。それを薫が口にする事は無く、ただ苦笑を浮かべた。
 だって、こんな風に言われたことがないから、なんだかこそばゆいくて嬉しい。
「分かりました。じゃぁ次に会えるのはすぐですね」
「ああ、―――それまでに痕が消えてないといいな」
「―――っ」
 先ほどまでの真摯な瞳はどこへやら、にやりと笑う顔に薫は思わず耳を赤く染めた。その薫の様子を、どうしようもないほど愛しそうに見つめる透。
 ころころ変わる表情は、他の人にはわからないくらいなのだが薫には分かってしまうから、やっぱり照れて困った顔になる。
 通路向こうに立つカップルのように肩を組むことも、売店でいちゃつきあうカップルのように手を繋ぐことも出来なくても、きっとそこら辺のカップルの誰よりも愛し合って、強い絆があるのだと今は思えても、おおっぴらに何も出来ないのが少し寂しい。
「薫」
 そんな気持ちがわかったのか、ふっと呼ばれた声に顔をあげると。
「―――!!」
 それは触れるか触れないかくらいの、本当に素早い一瞬の―――――キス。
「そんな顔するな。飛行機に乗れなくなる」
「・・・っ」
「・・・このまま押し倒したくなるだろう?」
 真面目な言葉の後にからかいを含んで言う声に、薫は切なさを押し殺して笑顔を作った。
「もうっ。そんな事言うと会いに行きませんよ?」
「それは困る」
「本当に、困る?」
「ああ。薫が足りなくて、禁断症状で暴れる。そして薫の携帯にずーっと電話かけてやるっ」
「あは、ストーカーですか?」
「そ。海を越えてストーカーする」
「それは困りますね」
「だろ?だから絶対会いに来い。一緒に本場のディズニー行こうぜ」
「あっ、行きたい!連れてってくれますか?」
「ああ。ブロードウェイもカジノも。国立公園も、西海岸にも全部連れて行ってやる」
「本当?じゃぁ行こうかなぁ」
「ああ。そうしろ」
 くすくす笑う薫に、偉そうに言う透。けれどきっとそんなものより、部屋で二人抱き合っていたいと思っているのかもしれない。実際そうなるのだろう。だって、ただ触れ合う距離にいてくれさえすれば、それでいいのだから。
 ふと言葉が切れた瞬間、絡み合った視線。
「・・・透さん・・・」
 思わず呟いてしまった、寂しげな声に透は笑顔で軽く頭をぽんと叩いた。
 その頭上に最終通告のアナウンスが流れる。
「さて、行くか」
 ちょっとそこのコンビニまで、とでもいう様な口調で言って、透は身体を一伸びさせて立ち上がった。
「いってらっしゃい」
 薫もそれを見送るくらいの気軽さで、声を発した。
「ああ。着いたらメールするから」
「はい。気をつけて・・・」
 笑って旅立とう、笑って見送ろう、そんな思いが溢れていた。
「薫も気をつけて。変な新入生とかには近づくなよ」
「なんですか、変なって。そんなの大丈夫ですよ」
「そうか?薫はそういうところ警戒心がちょっとぬるいからな」
 透は心配そうに眉をひそめてそう言うと、スッと腕を伸ばして薫の頬に手の甲を滑らせた。
「じゃぁ行ってくる」
「はい」
 透が何でもない事のように笑うから、薫も一生懸命笑った。
 手が離れて、透が一歩薫から離れた。そのまま2,3歩下がって、ふっと笑ってから背を向けた。その背中を薫は唇を噛み締めてただじっと見つめていた。
 不安なわけじゃない、怖いわけじゃない。ただ、どうしようもない寂しさと切なさが込み上げてくるのはどうしようもなかった。このまま走って抱きついて、馬鹿な女みたいに行かないで、とすがり付きたくなるのは、どうしようもない。
 その背中がゲートをくぐって、とうとう視界から消えそうになった時、透がくるりと振り返った。
「忘れてた!英明が帰ってくるらしいぞ。来年は副会長にしてこき使ってやれ!」
「ええ!?」
 最後の最後、別れの言葉がそれは無いと思うけれど。
「じゃぁ、またな!」
 透らしいにやりとした、人の悪そうな笑みを浮かべて消えていく辺りはあまりにらしくて。薫は思わずその場で笑い出してしまった。一人笑う薫を行きかう人は不審な目で見ているけれど、そんな事はどうでもいい。
 次に会うのは、来週か。その時先輩のことをちゃんと確かめよう。連絡を取り合っているなんて知らなかったと、拗ねてみるのもいい。薫はそんな事を考えながら、笑ってしまう顔をなんとか引き締めて第一ターミナルの展望台へと向かった。
 空に羽ばたく、透を乗せた飛行機を見送るために。

 それはきっと、未来へと繋がる空だから。目一杯の笑顔で、見送ろう。








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