軌跡、そして…8
「大丈夫か?」 額にうっすら汗をかいている薫に、透は声をかける。その頭は、透の肩にもたれかかっていた。 「・・・はい」 声が苦しそうで、透は眉を寄せる。 そんなにしんどいなら、車に乗る乗らないで押し問答なんてしないでさっさと乗ってくれればいいのに。どうしてこんなに頑固で、意地っ張りなんだろうかと、透の中に苛立ちが沸き起こる。 体調が悪いとわかっていたら、もっと早く切り上げたのに。どうして少しも弱いところを見せてくれないんだと、透の愚痴と後悔の入り交じった思いは尽きることなく胸の中をどんどん渦巻いていく。 「・・・・・・」 透はそっと腕を回して薫の肩を抱く。触れる体温は、さっきよりも上がった気がするのは気のせいだろうか? こんな事ならもっとゆっくり歩けばよかった。薫が紙袋を受け取ったことが思いのほか腹立たしくてイライラして。気がつけば随分早足になっていたのだ。 いつもなら、もっと早く薫の熱っぽさに気づいていたはずなのに。 「・・・すみません」 「何を、謝ってる」 「迷惑、かけてますから」 「・・・ばか。そんな事気にするな」 謝るなら、そんな事じゃないだろう? 薫の肩を抱く透の手に、ぎゅっと力がこもる。その強さに、薫の顔が苦しそうに歪む。心が、苦しいとでも言うように眉は切なそうに寄せられている。 熱の所為じゃない、心臓音が透に伝わりそうで怖い。 「もう着くからな」 「・・・・・・」 「家には電話しておいたから、お母さんもきっとすぐに帰られると思う」 「・・・はい」 苦しそうな声は、熱の所為ばかりでない。薫はもう何も聞きたく無くて、そのまま、うっすら開けていた瞳を閉じた。優しい言葉も、思いやりも。期待してしまうような温もりも。全部が、残酷に心に突き刺さるから。それがどうしようもないほどに苦しい。 遊びだよ、という警告の声に耳を塞いで期待したくなる。それが、馬鹿なことだとわかっているのに。 「寝てていいぞ」 その優しい声に誘われたわけじゃない。ただ、車内の振動が眠気を誘う。あまり眠れなかった昨夜のツケだろうか。寝ちゃダメだと思うのに、瞼はどんどん重たくなって意識は遠ざかって。薫はそのまま深い眠りへと甘く誘われるように落ちていった。 抱きしめられた温もりと、優しい声が安心させてくれたのだとは認められないまま。 頬に伝い下りた涙も無意識で。 その涙を透がどんな顔で見ていたのかも知らない。悔しげに、切なげに唇を噛み締めていた事も。 ただ今は、この眠りに身を任せてしまった。 薫は浮き沈みする意識の中で、暖かい腕の強さを感じていた。 誰かが、泣き出したくなるほど切ない声で"薫"と呼んで。 ふわぁっとした物に包まれて、腕が遠ざかるのを無意識に引き止めた。 その手が頭を撫でてくれて。 "大丈夫"と囁いた。 ――――手を・・・と、言った気がする。 次の瞬間にはぎゅっと握られて。安心して。 また"大丈夫"と囁かれた。 自分は頷いただろうか?返事をしたかどうか、記憶は定かではない。 ただ、唇に何か、優しく押し付けられた。やわい、甘い感触。 それが何か知りたかったけれど、目を開ける事は出来なくて、意識はそのまま暗闇に落ちて行った。 夢は見なかった気がするのに、何故かとても幸せな気分だった。 「・・・んっ」 額に冷たい感触を感じて、薫は暗闇から意識を急速に浮上させた。 「あ、目が醒めた?」 「―――かあ、さん?」 なんとか瞼をこじ開けて見た先に、母のほっとした顔が広がった。 一瞬何か、目の前の存在に違和感を感じた。違う・・・、そんな思い。でも、何が違うのかはわからない。 「良かった。全然目を醒まさないから、心配しちゃったわ」 「・・・ごめん」 ――――なんだろう・・・、このもやもや・・・ 「あらやだ、謝らなくていいのよ、ばかね」 "何を謝ってる"イラついた声が、耳に残っていた。 母は立ち上がって、クローゼットの中から衣服を取り出す。 「ついでだから着替えちゃって。汗かいてるでしょ?」 「うん・・・」 薫は、のろのろと身体を起こすとパジャマのボタンを取り出して―――・・・・・・ 「これ、着替えさせてくれたの、お母さん?」 そういえば、僕はどうやってここまで帰ってきたんだったかと薫はまだ回らない思考で考える。何か、あったかい記憶が微かに残るのだけれど。 「いいえ、朝比奈くん。お兄さんの方ね」 ――――えっ・・・ 「・・・・・・かい、ちょう?」 母の言葉に、薫の唇が震えた。 「そうよ」 母の朗らかに軽い声に、反応を返せない。ボタンを外す指が、無様なくらいに震えた。 だって、思い出した。 優しい声を確かに聞いた。 ――――薫、案外重いね。 声は、なんとなく笑っていた気がする。 ――――もうちょいだから我慢して。・・・ほら、下も脱いで それが、会長の声、だった気がする。 力強い腕をで抱きしめられて、僕は服を着せられた・・・? 吐息を肌に感じた気がする。 心臓の音が聞こえて、ひどく僕は、安心した――――? 「どうしたの?早く着替えて?」 「あ・・・っ、うん」 心臓が、ドキドキした。いや、ドキドキなんて生ぬるいもんじゃない。壊れた機関車の様に縦横無尽に暴走して。 「会長サン、とっても薫の事心配してたわよ」 「え・・・?」 動かないどころかフリーズした思考を抱えたまま、薫は状況反射の様に聞き返した。その言葉は、イラつくぐらいにゆっくりしか頭には入ってこない。 「自分が色々仕事を押し付けてしまったって。無理させてしまって申し訳ありませんでしたって」 ――――会長、が・・・ 「頭下げるんだもん、びっくりしちゃった。怪我をさせたのも自分の所為だって。手のひらはたいしたことないかもしれないけど、足は捻挫じゃなきゃいいけどって、それはもうすっごく心配して」 ――――無理させた・・・って?頭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ねんざ、・・・捻挫!? 「えっ」 「え?」 「あ、ううん」 右足。気づいてないと思ってたのに。 「足痛い?」 「ううん、全然。ちょっと転んだだけだし、捻挫なんて・・・」 ――――おおげさだよ・・・ 「あら転んだの?薫もそんなことするのね」 「・・・うん、まぁ」 のろのろとやっと着替え終わった服を母に渡し、薫は再びベッドに横になる。 「会長さん、ずーっと付いててくれたのよ」 「え?」 「母さんね、先方がお留守で少し待たされてしまって。帰ってくるのが遅れたのよ。そうしたら会長さん、それまでずっと薫に付き添って。たぶん、手を握ってたんじゃないかしら?」 ――――手・・・、って 「私が来て、きっと照れくさかったのね。慌てて外していたけどね」 会長さんもかわいいわね、なんて的外れな言葉は薫にはもう聞こえていなかった。 "手、握って・・・" そう、呟いた記憶があるのは何かの間違いだと思いたい。 "子供だな" そう笑って、ぎゅって握り締めたくれた事は夢だと思いたい。 思いたいのに―――――― その手の甲に、キスされたような記憶が――――――・・・・・・・・・・・・ 「あら、顔赤いわよ?熱上がってきた?」 母はどこまでも見当はずれだ。けれど今はそれがホッとする。ツッコまれたら、上手く言い訳する事はできないくらい動転していた。 とりあえず頭をぶんぶん横に振って、布団に潜った。 ――――ああっ 自分は一体何をしただろう? 何を口走ったのだろう? 記憶が中途半端で曖昧で。確認したいようでしたくもない。 けれど、憶えている。ただ嬉しかった事。あったかいと、思ったこと。どうしようもないほどに、切なかった事。 離れていく腕が、悲しかったこと。 「これ、洗濯籠に入れてくるわね。で、すぐお粥持ってくるから」 少しホッとして、息子の友人――正確には友人ではないのだが――との事を垣間見れた母は、息子が熱だというのにどうやら上機嫌な様で。 それは最近段々何も話さなくなっていた息子と関われた喜びもあるのかもしれないが。 薫の身体は、だいぶ寝ていたからだろうか熱っぽさはだいぶひいて楽になっていた。お粥と言われて、忘れていた食欲もなんだか沸いては来ていたのだけれど。 別の意味で食欲を無くしそうだった。 今はまだ、母に言われた言葉が全部飲み込めないけれど、でも既に恥ずかしくて憤死しそうだ。 そのくせ、手を洗わないでおこうか、なんて考えてる僕は、たぶんもう壊れてる。 ・・・・・ その翌日の日曜日。 透が、見舞いにやってきた。 「上がってもらうわね」 「だめっ!」 上機嫌の母の言葉に薫は咄嗟に声を上げた。そして、薫は今はまだどうしても誰にも会いたくないんだと頼み込んだ。母は居留守なんて嫌だわと言ったけれど説得して。渋々だけれど了承してくれた母は、透を2階に上げる事はしなかった。 部屋のドアを少し開けて盗み聞きすると、母がしきりに謝って、透がいいんですと恐縮していた。ただ一目だけでも会って謝りたかったのだけれどと、名残惜しそうに言う言葉が薫をさらに動揺させた。 透が帰って行った後、母は大きな薔薇の花束を抱えて来た。 「お見舞いにって。凄い豪華ね」 それには、流石の薫もちょっと笑った。母も笑って。花瓶を持ってくるわと、花を置いて出て行った。たぶん、花瓶1個じゃぁ入りきらない気がする量だから、半分くらいは別の部屋にでも飾る事になるだろ。 薫はベッドから立ち上がって、そっと花に触れる。 「お見舞いに、薔薇って・・・」 らしくて、本当に笑える。 ――――そういえば、車の音がしなかったけれど・・・会長歩いてきたのかな? こんな花束を抱えてそんな事はあり得ないはずと、ふと疑問に感じた薫は窓に近寄って下を見下ろし―――――― 「っ!!」 薫は咄嗟にカーテンを閉めた。 心臓が、爆発音を立てた。 だって。 そこに。 道路に。 透がいた。 じっとコチラを見上げて立っていた。 「・・・んで・・・」 声が洩れて。薫はそのままその場にずるずると崩れ落ちた。掴んだカーテンがキツい皺を作り出していた。 ――――どうして・・・ わけが分からなくて。錯覚かもしれない等と、ありもしない事を本気で考えていた。けれど、もう1度外を見たかったけれど。薫にはその勇気が無くて。 場違いなほど陽気な鼻歌を歌いながら上がってくる母の足音が聞こえて来るまで、薫はその場を動けなかった。 |