現実的な未来 ―前―


 12月24日。残念ながら月曜日のクリスマス・イブ。それでも、朝比奈透は穏やかでいて隠し切れない嬉しさを湛えた顔で、ホテルの部屋で一人ソファに腰を下ろして外を見つめていた。
 既にシャワーを浴びて、バスローブ姿という格好でくつろぐその姿は、20代というには、落ち着きすぎている気がしないでもない。
 テレビは付けていなかった。こんな時にそんな音は無粋でしか無いのだろう。ただ一人、じっと息を潜めているのだ。まるで、廊下の足音を聞き逃したくないとでも言うように。
 そんな時間がどれくらい過ぎただろうか、不意になったチャイムの音に透はフッと笑みを浮かべて扉を開けた。
「お疲れ様」
 そこにいた、世界で1番愛しい人。
「お待たせしました」
 クスっと笑って見上げてくる顔は、いつ見ても可愛くて切ない愛しさを掻きたてられる。
「いや。――――仕事は大丈夫だったのか?」
 時刻は、約束から5分過ぎた8時5分。
「はい。こんな日に残業も、無いから」
「そうか」
 もしかしたら、色々無理して帰って来てくれたのかもしれないと思う。けれど薫がそれを口にしない以上、こちらもそんな野暮な事は口にしないで静かに扉のロックをかけた。
「それにしてもどうしてわざわざホテルなんです?しかもまた、――――こんないい部屋」
 透が中へ薫を通すと、その薫は嬉しそうに笑みを浮かべながらも勿体無いと呆れた様に小言を口にする。
「今日は特別な日だから」
「クリスマス?――――ああ、ごめん」
「いや、――――それもあるな」
 薫のスーツ姿もそそられるけど、今は一時も早くリラックスさせてあげたいとスーツの上着を手に掛け脱がせてやる。
 そしてゆっくりネクタイを解いた。
 その時、薫の唇の両端が持ち上がった。
「なんだ?」
「いえ、―――なんか、透さんがするといやらしいなぁって」
「お?このまま押し倒して欲しいか?」
「誰もそんな事言ってません」
 スルっとネクタイを解く。確かにこのままシャツのボタンを外してその肌に口付けるのも、決して悪い考えではないと思う。
 けれど今は、実行する時では無い様だ。
「それは残念だな」
 チュっと軽いキスを薫の口に落とすと、そんな軽いキスにも当たり前の様にちゃんと答える仕草をする薫が、嬉しい。
 そして、ちょっと残念そうな顔も。
「先にシャワー浴びるか?」
「そう、ですねぇ」
「後1時間くらいで夕食が運ばれるけど」
「そうなんですか?」
 夜景を目にしてふら〜っと窓辺に寄って行っていた薫が、驚いたように振り返った。
「ああ、二人っきりでイチャイチャしながら夕飯食べれるように、な」
「何言ってるんですか」
 薫が呆れたように苦笑を吐き出す。一体何度、一緒にクリスマスを過ごしたと思ってるです?と呆れた声も聞こえた。
 けれど、何度したって、何年たったって飽きないのだから仕方が無い。
「なんだ?薫は俺と二人っきりのクリスマスの不満なんだ?」
「そんな事言ってませんよ」
 わざと拗ねた口調で言うと、薫は笑みを漏らす。
「じゃあ問題無しだ。とりあえず、シャワー浴びて来いよ。お風呂は後でゆっくり、な」
「はい」
 言外のいやらしいお誘いが分かったのだろう、薫は諦めたのかクスっと笑ってバスルームに向った。
 パタンと音を立てて扉が閉まる音を聞くと、脱がした上着とネクタイをハンガーに掛けて、頃合いを見計らって洗面所に入り脱ぎ捨てられた衣類も全てハンガーに掛けた。これで薫はバスローブで出てくる以外に道は無い。
 その姿を思い浮かべて、思わず笑みを浮かべてしまう。どれほど色っぽいのだろうかと思うと、それだけでどうも暴走してしまいそうな下半身に、思わず苦笑を零した。
 別にこれが初めて見るわけでも無いのに。




「また豪勢ですね・・・」
 しょうがなくバスローブ姿でいる薫は、目の前の料理に思わず息を漏らした。
 料理は普通のルームサービスではなくて、上の懐石料理の店の特注らしかった。繊細な前菜3種に始まり、お造り、椀物、揚げ物に紙鍋、和え物などなど、豪華10種の料理が並ぶ。
「フレンチやイタリアンにしようかと思ったんだけどな、夜だしあっさり目の和食がいいかと思ったんだが」
「その方が良かったです」
 だって昨日は日曜日だったから、透の部屋で薫と透で作った真似事フレンチのディナーにワインでイブイブをちゃんと祝ったのだ。
「なら良かった。酒は軽いシャンパンで」
 透はそう言うと、手馴れた仕草で栓を開けて薫のグラスにシャンパンを注ぐ。その、シュワシュワっと音を立てるグラスを薫はふっと見つめた。
「ん、どうした?」
「いえ―――ああ、僕が」
「そうか?なら」
「はい」
 手酌で入れそうだった透を薫が止めて、薫は隣に座る透のグラスにシャンパンを注ぎいれる。今二人はソファに並んで座っているのだ。
 乾杯をするためにグラスを手にとって視線を上げると、薫と透の目線が絡み合った。
「――――メリークリスマス、薫」
「メリークリスマス」
 カチンと、繊細で綺麗な音が目の前で響いた。
 料理は、さすが南條家の取り仕切るホテルと言っていいだろう、素晴らしく美味しい料理だった。薄い色にしっかりと付いた味付けと、繊細な技巧を駆使した盛り付け。そしてなにより、素材本来の美味しさが堪らない。
 司法試験ストレートで受かったとはいえ、薫は駆け出しの弁護士で当然薄給。この料理が一体いくらなのか、想像したくないなとは思ったが。
 それに引き換え透は、30歳手前で既に会社内で専務の位置にいたりする。
 いつもいつも、この人の背中を追いかけている気がすると、横目で盗み見た透の横顔を見て薫は小さくため息を吐いた。
「かおる。何、考えてる?」
「いえ」
 フッと息を漏らした。こうやって直ぐに見破られる。ポーカーフェイスには完全な自信があるのに。
「薫」
「はい?」
 逃げるように窓の外へ向けていた視線を透に戻すと、大好きな真っ直ぐの視線に囚われた。
 ドキっと嫌でも心臓が鳴る。
「愛してる」
「――――っ」
 言い様の無い切なさに襲われるのは、こんな時だ。
「ん?言ってくれないのか?」
 余裕の笑みも、優しい顔も、甘い言葉も、聞き飽きたし見飽きたと言ってもいいくらい、一緒にいるのに。
 何故こんなにも、この人しか見えないのだろう。
「・・・・・っ、僕も、――――大好きです」
 飽きることなんか出来ない。
 幼い反発も、憧れも、そして青い恋慕も過ぎ去って。今のこの気持ちは、なんと言えばいいのだろうか。
「例の仕事、大変なのか?」
「例?―――――ああ、いえ順調ですよ」
「なんだ、それで暗い顔をしてるんじゃなかったのか」
「暗い顔なんかしてないです」
「そうか?」
「はい。そんな顔する、理由がないでしょ?」
「そうか?」
「はい。こんなに美味しいもの食べてるのに」
「それだけ?」
 ほらやっぱり、思ったとおりに返って来た不満そうな声。
「うーん、ああ!こんな素敵な夜景が見れるのに」
「・・・薫」
 ダメだ、楽しくなる。
「はい?」
「それだけじゃないだろ?」
 それだけですよ?って答えたら、どんな顔をするんだろう?ああダメだ、顔が笑っちゃう。
「後はーこんな素敵な部屋?」
 頬が、緩んじゃって戻らないっ。
「お前、後で覚えておけよ?」
「そんな事言うと、脅迫罪で訴えますよ」
 弁護士ですから、って笑ってやる。
「ついでに、強姦罪も付けさせてやるっ」
 ニヤリと笑うその顔は、昔から変わっていないと思う。すかした様な、人を食ったような笑み。そして、蕩けるような優しい眼差し。
「それは実刑ですね」
 この顔が、大好きだと思う。
「おいおい、執行猶予を勝ち取ってくれないのか?」
「えぇ〜?」
 こんなどうでもいい、たわいの無い会話がなんともくすぐったい。
「お願いします」
 そう言って、透は薫を抱きしめてキスをした。少しだけ執拗に、でもまだ火は付けないで離れていくその唇。
 すっと離れて行く透の肩に、薫がコツンとおでこを乗せれば、透の腕が優しく薫の肩を抱いた。
 ああもう、本当に大好きです。
「そうそう、今日綾乃からメールが来てました」
「急用か?」
「いえ。ハッピーメリークリスマスって」
「ああ。あっちも相変わらずだもんな」
 ゆっくり髪を透かれる感触に思わず瞳を閉じた。
「はい」
「仲のよろしいこった」
「ほんとに」
 そう言って、視線を上げて顔を見合わせて思わず笑う。あっちも相変わらずだけど、こっちも相変わらずだと思うと、なんだか可笑しくなったから。
「俺達も、な」
 透はそういうと、フッと笑って薫の頬にキスをする。
「んっ」
 目の端に、おでこに、耳に、そして――――――――唇に。
 絡み合った瞳が、今度は確実に二人に火を付けた。
 まだ全てを食べ終わっていないその料理を視界の端の捕らえながらも、この付いてしまった火を消す事は到底出来なかった。
 優しかったキスが、瞬く間に獣の様に荒いキスに変わった。











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