空の向こう・前




 その日。3月18日。空は春らしい、抜けるような蒼い空が一面に広がっていた。雲もなくて。少し、風だけがまだ冷たさを保ってはいたけれど、十二分に穏やかな日差しが降り注いでいた。
 綾乃は今日で最後になるであろう中学校の制服に袖を通す。
 心の準備が出来ないままに時間だけは追い立てるように過ぎ去っていく現実に、綾乃はまだついていけなくて、心の準備も整わなくて。先への決断も迷うまま今日を迎えてしまった事に、少し青い色した顔を鏡に写してた。
 コンコン。
「・・・はいっ」
「失礼します」
 洗面所の扉がノックされて、雅人が中を覗く。振り向いた綾乃の瞳には、いつも通りのスーツ姿に穏やかな笑みが映された。それは、ここ一ヶ月変わることなく綾乃を見つめ続けている瞳。
「用意は済みましたか?」
「はい」
 綾乃の頬が少しぎこちなく動いて、微かな笑みを作り出す。作り笑いじゃない笑顔を浮かべなきゃと思うのに、そう思うほどに笑みが引きつって上手く出来なかった。
 綾乃は、卒業したら、ここを出て行くことを何度も考えた。高校には受かってしまったけれど、別にだからと言って行かなければならないわけでもないと、何度も自分に問いかけて。
「では、そろそろ行きましょうか?」
「はい」
 高校の制服ももう注文していて、教科書も受け取っている。きっと入学金や授業料も支払ってしまっているかもしれないけれど。
 それでも逃げ出すことは出来る。そんな思いは綾乃を捕らえて離さなかった。
「忘れ物はありませんか?」
 ただ、決心が付かない。ここを、出て行く決心が。
「はい」
 玄関まで出て、見送りに来た松岡に尋ねられた言葉に綾乃は首を横に振った。
 今日は卒業式で、何も持っていかなければならないものはない。綾乃は中にはほとんど何も入っていない鞄を手にして、玄関を出た。いつも通り車が待っていて、綾乃と雅人の姿を認めて扉が開かれる。
「綾ちゃん、いってらっしゃい」
 車に乗り込んだ綾乃と雅人に雪人が笑顔で手を振る。
「いってらっしゃいませ」
 直人の姿が見えないのは、いつも通りまだ起きてきていないのだろう。
 綾乃は見送りに出てくれている二人に軽く頭を下げて挨拶を返すと、それを合図に車が走り出した。
 3学期が始まってから、学校のある日には毎朝行われた行為。その事に綾乃は慣れなくて、いつも困ってしまうのだが。
 それでも車内、最初の頃のようなぎこちない空気は随分なりを潜めた。
「とうとう卒業ですね」
「はい」
「おめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます」
 きっと雅人は穏やかで優しい瞳で見ているのだろうとわかっているのに、綾乃はその顔を上げることが出来ず、俯いたままで返事を返す。
 そうなんだ。今日、卒業なのだ。今日が、一区切りなのだと綾乃は思う。
 あの、お正月の日から、雅人は時間を見つけては綾乃と向き合って色んな話をしてきた。それは些細な日々の出来事であったり、たまにはテレビや映画の話題であったり、漫画の話であったり。
 そして、雅人の思いや、これからの話だったりした。
 高校を受かった時は、おめでとうパーティーが行われて、みんなに綾乃は祝ってもらえた。中学校でも、綾乃が桐乃華を受かった事が話題になって、なんだか注目が集まったりもした。
 それが、むずがゆいようななんとも言えない幸福感を綾乃に運んだことは間違いなくて、そんな心のぬくもりに綾乃は戸惑っていた。
「ああ、そうそう、綾乃が好きで読んでいる作家の方に今度会う事になりましてね」
「え?」
 信じていいのか、がんばっていいのか、前へ進んでいいのか、答えがまだ見えないから。
「ほら、"桔梗の堤"を書かれた・・・」
「あっ!あの?―――うわぁー凄いっ」
 雅人の言葉に綾乃は思わず顔を上げて雅人を見つめる。その瞳には少しの羨ましさと興奮が浮かんでいた。
「ええ、その方の以前出された本が今度映画になるとかで、うちも少し出資するんですよ」
「へぇー」
 綾乃が感嘆の声を上げて、雅人を見つめる顔にも羨望の色が浮かぶ。映画に出資なんてなんだか凄い!と、少し瞳がきらきらしているのが雅人には微笑ましく思えた。
「その時サイン本もらってきますね」
「えっ!!」
「楽しみにしておいてくださいね」
 驚いた顔になる綾乃に、雅人はにっこりと微笑んだ。気難しい事で有名で、あまりサイン会などもしないその作家のサインを入手する機会はかなり少ない。けれど、そんな事も雅人にかかれば簡単な事だ。まして、映画に出資することは雅人にも前々から興味があったので一石二鳥だった。
 いや、出資を頼みに来た出版会社社長にも恩を売れたのだから、一石三鳥かもしれない。
「・・・はいっ」
 そんな少し打算的なところもあった雅人の思惑など知りもしない綾乃は、ただ雅人の言葉に、久しぶりにはにかんだような自然な笑みを浮かべて、頷いたのだった。









 卒業式は9時半から体育館で始まった。
 日差しが遮られたその室内は底冷えして、少し寒かった。綾乃は椅子に座って、見たこともない人々の挨拶や、祝辞などをぼうっと聞いていた。
 おめでとうと通り一変に告げられる言葉を、何がめでたいのだろうかと思いながら。
 だって、ただ生まれて、義務教育だからここに今いるだけで。結局この先に保障も何もなくて、ただ放り出すだけなのに。ただ、放り出されてしまうだけなのにと、そう思ってしまうから。
 何が待っているのか、どうなってしまうのか。未来を夢見るよりも不安の方が、綾乃には大きいから。
 在校生の祝辞の挨拶も、卒業生の答辞の挨拶も、なんだか耳に通ってすらこなかった。
 淡々と予定通りに行われる卒業式。
 それを綾乃は傍観者のように眺めていた。
「卒業生、起立!」
 式の途中。号令が響いて綾乃は立ち上がった。卒業の歌を歌うために。
「回れ右!」
 ――――・・・・・・っ、え・・・!?
 回れ右をして後ろを振り向いたその時、綾乃の前に立ちはだかる生徒の合間から一瞬見えた、その人の姿に綾乃の目が大きく見開かれた。
 ――――えぇっ!?
 綾乃はもう1度ちゃんと確認したいと、今見えたものがただの願望じゃなくて事実なんだと知りたくて首を巡らすけれど、背もそんなに高くない綾乃には前の人々が邪魔でその姿を確認出来ない。
「ねぇねぇ、なんかちょーかっこいい人いるんだけど」
「まじまじ!?」
「えー見えないっ」
 斜め前にいる女子の囁きあうような声が綾乃の耳に聞こえる。
 ――――だって、そんなの何も聞いてないっ
 今朝だっていつもと変わらない様に起きて、変わらない様に用意して朝ご飯を食べて。相変わらず直人は起きていなくて、松岡も雪人も、雅人も、綾乃には何も言わなかった。
 歌が始まって、綾乃も歌いだしてはみたものの、頭の中はその今目にした事で一杯だった。歌詞を間違えてしまった事ももうどうでもいい。
「卒業生回れ右!」
 歌が終わって号令を聞いて、その姿を確認できずに綾乃は前を向きなおさざるをえなくなる。
「着席!」
 ガタガタと椅子の音がして着席するが、やはり振り返ることは出来なくて。
「どこらへんだった?」
「中央より少し右の通路側」
「あー見たいっ」
 囁かれる声に綾乃の全神経が注がれる。
 ――――そうだ、そこらへんだった・・・
 それからの式後半は、後を向く機会のあるたびになんとかその姿を確認しようと思うのに、3列前にいる太った生徒がどうしても壁になってその向こうが見えなかった。
 そして、ようやく式が終わりを告げる。
「卒業生、退場!皆様拍手でお見送りください!」
 その声と共に綾乃は拳をぎゅっと握り締めた。ドキドキと心臓が鳴り出す。
 順々に生徒が立ち上がって出て行く。
 その列が綾乃に近づくにつれてドキドキと高鳴る心臓はより一層けたたましくなっていく。
 だって、誰も来ないと思っていた。
 来るなんて思ってもいなかった。
 小学校の入学式も、卒業式も、中学校の入学式にも誰ひとり来なかった。周りの子供たちはお母さんやお父さんに囲まれているのに、自分だけが一人で、教室でポツンと取り残された。
『なんで一人なの』
 小学校の入学式の後、教室につれられていく中で一人だった綾乃にクラスの男の子は声をかけてきた。
『お母さんとはぐれたの?』
 かけられた言葉にただ無言で首を横に振って、俯いて歩いた。周りのにぎやかな声も笑い声も、全部が全部耳を塞ぎたい音にしか聞こえなかったあの日。
 参観も、運動会も、誰かが来てくれる事はなかった。仕事だから、用事があるから。理由は色々あったけど。たった一つわかっていたのは、綾乃のために誰かが来るなんて奇跡は起こることはないってこと。
 他にも家族の誰も来ない子はいたけど、それは両親が働いているからであって、いないからじゃない。その違いは子供心にも明確で、子供社会でも区別されていて、いつどこにいても疎外感を感じて、苦しくて辛くて、悲しかった。
 そうして、いつからか。
 一人でいるのが楽だと思う様になった。
 小学校の卒業式の帰り道、一人で帰る時のあの言いようのない孤独感はきっと体験しなければわからないだろう。
 中学校の入学式も当然一人で。小学校から同じ生徒以外からも、色々言われるのが面倒で嫌で、綾乃は回りから距離を置きだした。どんどんどんどんその溝は広がって、結局3年間友人らしい友人も出来なかった。
 綾乃は息を潜めるように当たり障りなく3年間を過ごし、結局はただただ砂が零れ落ちるように日々が流れて行っただけ。
 別れを悲しむ相手もいないし感慨のふける思いもなく、ただこの時間が過ぎ去れば思い出しはしないだろうと思う。
 そして今日だって当然一人で、何もなかった普通の日と同じように帰るだけだろうと思っていた。
 それが当たり前だと思っていて、何の違和感も持たなかった。そんな日々が、変わるだろうなんて想像出来るはずがない。
「起立!」
 ――――っ・・・!!
 ドキンと大きく心臓が跳ねた。
 とうとう綾乃の座る列の順番がやってきたのだ。立ち上がって、順に前に出て、生徒が座る周りをぐるりと1周して、中央に設けられた通りへと進み出る。
 心臓が高鳴った。
 怖かった。
 自分の気持ちが、期待しているのがわかるから。もし誰もいなかったらと思うと、握り締めた手のひらには汗が滲んでいる。
 けれど、綾乃は勇気を振り絞って、思わず下を向いてしまっていた顔を、恐々と上へと上げた。










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