直人の恋物語T−1



 その日は、快晴のわりに少し空気に肌寒さが残っている日だった。4月だ春だと言ってもまだ冬の残りを引きづっているのだろう。車内や屋内にいれば、その日差しだけを感受して春の温もりを感じられたが。
 しかし木々や草花は、人にはまだ感じられない春を受け止めることが出来るのだろう、綺麗な色を付けて花を咲かせていた。
 車内から見る風景も、冬のものとは違って見える。
 自然や生命の中で、人間が一番季節の変化へ鈍感になっているのかもしれない。室内には冷暖房が完備され、外の空気を遮断して自然の理に反した道を進む。
 そしてそれは屋内だけでなく、車とて同じこと。首都高を抜けて静かな郊外へと走っているその車の中も、快適な温度へ調節されていた。
後部座席に乗る彼が、窓を開けて春の風を感じたいと思っても、安全面からそれは却下される。ただ、車内から綺麗に整備された緑を見るしかない。それが、どこか作り物くさくても見目には十分美しさを感じさせる。
 それが面白くないのか、ふんと軽く鼻を鳴らすのにその目線は外へと向けられてしまう。
 景色は梅が終わり、五分咲きの桜がちらほらと山を桃色に染めていた。
 花見の季節がもうすぐそこだ。
「本当にいらっしゃるんですか?」
 静かだった車内に、車の助手席からバックミラー越しに窺う視線とともに声がかかった。
「ああ、間違いねーよ」
 後部座席からの返事は、投げやりでぞんざいな声。その視線を助手席に座る有能で頼りになる秘書へ視線も向けもしなかった。
 その身を深くシートに埋め、やりきれない表情を浮かべたまま。
南條直人は窓の外を見つめながら一人呟いた。

 ――――10日の今日は、月命日だからなぁ。

 遥か昔というのはあんまりか、しかしかなり前に亡くなったのは事実。けれど彼が、家族の誰よりもこの日を大切にしているのを知っている。
 家族の誰よりその人を―――――――――




・・・・・




「少し桜が咲きましたよ―――五月様」
 墓苑の中でも奥の、一際良い場所に立てられた墓の前で松岡は一人佇んでいた。墓の前には、美しいマーガレットの大きな花束。
 それを、雑草一つなく綺麗に整えられた墓に飾る。
「貴方のお好きな季節がまた巡ってきましたね。そちらでも、桜は咲いているでしょうか」
 墓石も、これ以上無いというほど綺麗に磨きあげられていた、もちろん松岡の手によって。
 墓標に刻まれている名は――――南條五月。
「春になっても、雅人様は相変わらずお忙しくしていらっしゃいますが、以前に比べて随分雰囲気が変わられました。大阪の方で進めている専門学校も来年より立ち上げが決定したようで、順調のご自分の立場を固めていらっしゃいます」
 松岡はそって、墓石に手を触れて慈しむようにゆっくり撫でる。
「直人様も、2年目をつつがなく迎えられました。ホテルの方も経営は順調で、GWは既に予約で一杯なんですよ。なんでも直人様が引き抜いてこられた企画マネージャーの方が大変優秀な方らしいです。今月末には政治家の方々の大きなパーティーもされるそうですよ」
 ふっと目を細めて立ち上がると、風が、ざぁーっと吹き抜け線香の細い煙が揺れた。
「これでまた、強力な繋がりを築いていかれるでしょうね」
 その口調がどこか、寂しそうにも聞こえた。
「雅人様も、関西での繋がりも作っていっていらっしゃいますし。愛する人とも順調です。貴方の大切な二人の息子は、なんの心配もいりませんから安心してくださいね」
 その囁く声は蕩けるように甘く、聞くものを悪酔いにでもしそうな程だ。その声は、きっと他の誰にも向けられる事は無いのだろう。
 その時、ジャリっと足を踏みしめる音が聞こえた。
「なに、毎月そんな報告してんの?」
 軽い、呆れたような声。
「――――直人様。・・・どうされたんですか?」
 松岡が僅かに目を開いて、その驚きを表した。
 10日という月命日。十年以上も前に死んでしまった母の月命日にまで、直人が姿を出す事はまったく無い。もちろんそれは雅人も同じであり、夫であった高人もだが。
「携帯が繋がらないからだ。今日は1番フリーの時間がある俺が駆り出されたわけ。・・・ったく、携帯切るなよなぁ」
「ここでは、あのような音は似合いませんから」
 ここに似合わないんじゃなくて、そんなものに邪魔されたく無いだけだろう。大体バイブにしてたら音もしねーよ。と、そんな込み上げた思いは、賢明にも口にする事は無かった。
「一昨日親父が家に顔を見せたんだって?」
 言ったところで、目の前のこの男が黙殺するのは目に見えている。
「はい。何でもこちらで会合があるとかで帰っていらして、お寄りに」
「その時、茶色の封筒持ってなかった?」
「ええ、お持ちでした」
「それ、親父どうしてた?」
「ヴィトンの鞄の外ポケットに仕舞われていましたけど」
 その言葉に直人は顔を顰めて、胸ポケットから携帯を取り出した。
「――――親父?俺。・・・うん、その事だけどさ、ヴィトンの鞄の外ポケットに親父が仕舞ってたって言ってるけど。―――――ああ・・・・・・はぁ!?あったって、あのさぁっ、・・・・・・そんな軽い言葉で、あ、ちょっ、まてっって――――――クソ、切りやがった」
「直人様、言葉遣いが乱暴ですよ」
「いいんだよ。ったく・・・・・・悪かったな、邪魔して」
 直人は忌々しそうに言うと、携帯を乱暴にポケットに仕舞って松岡に背を向けた。用が済めば長居は無用とばかりにまるで、逃げる様に。
 その背中を、松岡が呼び止めた。
「直人様、一体どういう事ですか?」
「んー、あの茶封筒がなんか今日いるらしくて。でもボケた親父は自分がどこへやったか忘れてしまい、松岡に聞こうとしたら携帯が通じない。それでどうしたものか兄貴んとこに電話があったんだけど、兄貴は今から予定がびっちりで動きようが無い。で、お鉢が俺に回ってきたわけ」
「それは、すいませんでした」
「別に〜〜〜たまにはのんびりドライブもいいさ。じゃあな」
 ふっと笑って肩を竦めて、足を一歩踏み出した。しかしまたも、松岡が呼び止めた。
「直人様、せっかくですからお母様に手を」
「・・・・・・」
「折しも今日は月命日なのですから」
「―――――はいはい」
 直人は松岡に背を向けたままため息を吐いてから、くるりと踵を返し母の墓前でしゃがみこんだ。
 直人にとって、母との思い出は無かった。もちろん一緒に遊んだ記憶も。僅かに、ただベッドで寝ている姿を見たような気もするが、物心がはっきり付く頃には母はこの世の人では無かった。そんな母に、今更語りかけることなど直人は持ち合わせていなかったのだ。
 それが、薄情と罵られ様とも仕方が無かった。だって知っているのは、写真の中で笑う顔だけ。正直、母と言う実感さえ薄かった。
 ただ手を合わせて、直人は思うことも無く無心のままに頭を下げたがそれも一瞬で終わり。心に語りかける言葉など浮かんでは来ない、申し訳ないが。
 そのあまりの短さに松岡は僅かに眉を顰めたが、小言は言わなかった。
「じゃあな」
「はい。――――お気をつけて」
「そっちも」
 直人は軽い足取りで、手まで振って松岡と別れた。その仕草の全てが芝居がかっているように見えたとしても、今更止める事も出来ない。
 そうでなければ、やってらないから。
 静かな空間に、石段を降りる直人の足音だけが響く。
 松岡はたぶん、昼過ぎまであそこにいるだろう。一体毎月毎月、何をそんなに語る事があるんだか。
 いや、語る必要など無いのだろう。ただあそこにいて、母を身近に感じたいだけだ。
 まったくつまらなねぇと、直人がイライラした視線の先に黒塗りの車が見えてきた。
「―――あいつ」
 その横に、久保の姿。中で待っていれば良いと言ったのに聞いてないのか。いつもそうだ、人のいう事をちっとも聞かない、優秀な秘書。
 生真面目な顔でこっちを見て、ほっとした様に肩を上下させる仕草も腹立たしく思う。それがただの、八つ当たりだと自覚はしていても、止められない。
 本当に、あっちもこっちもみんなむかつく事ばかりだ―――――そう、思った。
「どうでしたか?」
「ああ、もう終わった。帰るぜ」
「はい」
 それ以上何も聞かずにそう言って、直人の為に恭しく扉を開ける姿が誰かと重なった。
 ――――ちぃっ
 心の中でついた舌打ちが、現実にもしていた事に直人は気づかなかった。
「・・・っ」
 だから、一瞬久保の顔色が変わったことにも当然気づかなかった。もちろん久保も、いつまでもそんな表情を浮かべているはずも無い。
 直ぐにいつもの表情に戻して、静かに助手席に乗り込んだ。
 そして車は一路来た道を戻り、午後の仕事の為にホテルへと急いだ。

 美しい現実の空とは程遠い、重苦しい空気のまま―――――――――――――









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