直人の恋物語T−10
「直人さん、結婚のお話が出てるの?」 電話を聞いていたのか、寝室に戻った高人にベッドの上で身体を起こした陽子が声をかけた。 「そこまで具体的な事じゃないさ」 高人はそう言うと、ベッドに腰掛けてタバコを手に取った。寝室は暗闇に、サイドランプが一つ灯されただけ。張り詰めた静けさの中にシュっとライターの音がして火が灯る。 「そう・・・」 陽子は高人の返事に少し不満そうな声を漏らした。その瞳が一瞬空を睨んで、何かを思案するように揺れた。 「それで、お相手は――――」 「陽子」 「―――?」 「この件、お前は手を出すな」 陽子に背を向けたままの、高人の反論を許さない声だった。その声に、陽子の顔色もサッと変わる。伸ばそうとした手が空で止まり、僅かに震えた。 ぐっと何かを飲みこむように微かに喉を上下させて、精一杯冷静な、それでいて甘えるような声を出した。 けれど――――――――― 「あなた?」 「いいな?」 返って来た有無を言わさない声に、陽子は口惜しそうに唇を噛みながらも、反論を許さぬ背中に肯定の言葉を口にするしか無かった。 胸に沸き立つ、憎悪の炎は消せないけれど。 ・・・・・ よく晴れた空の下。一般従業員も入れないホテルの屋上に二人の姿があった。 「昨日はすいませんでした」 昨日、直人の発言に目の前が暗くなってそのまま久保は意識を失った。ホテル医が言うには、疲れと睡眠不足、それに心労も影響しているとの事だった。 意識を戻した久保は、すぐに仕事に戻ると言ったのだが、直人はせめて今日だけは休めと譲らず、昨日久保は1日寝て過ごす時間を貰ったのだ。 寝ていられるはずも、無いのに。 結局久保は睡眠薬の力を借りた。 「いや。俺も悪かった。色々お前に押し付けてた部分もあったんだろう」 「いえ、そんな事は」 「秘書の数を増やすか?」 「いえ、今のままで十分です。今回の事は、私の自己管理の至らなさなので。本当に申し訳ありません」 今でも、秘書は5人も雇っている。全ての件を久保が把握し、誰に何をやらせるかを管理して仕事を割り振る。人手は十分に足りていたのだ。 原因は、そういう事では無い。 そうじゃない。 「そうか?」 「はい」 「まぁ、お前がそこまで言うならいいけど。ちょっとでも辛くなったら遠慮なく言えよ?お前は一人で頑張りすぎるところがあるからな」 ふっと、直人が優しい笑みを浮かべて久保を見た。 ドキっと心臓の跳ねる音が、空気の溶けた。 「そんなに一人で頑張んなよ」 その笑みは、今から20年も前に見たあの庭での、屈託の無いものと変わりが無くて。 切なさに、胸が抉られた。 「えっ、おい!?・・・おまえ」 やんちゃで茶目っ気のある、笑みで。大好きな、笑顔。 「直人様・・・っ」 ダメだ、――――――― 一気に何かが突き上げてくる。 「ばか、なんで泣くんだよっ」 「っ、・・・すい、ません・・・っ」 ―――――ああもう、どうしようもない。どうする事も出来ないほどに愛してる。 「泣くなよ。・・・ったく、お前は昔っから泣き虫だよな?」 「そ、な事・・・」 ない、と久保は首を横に振る。直人の前でより、直人のいないところでの方がずっと、自分は泣いているはずだから。 それなのに。 「何言ってんだよ。俺がほら、最初の女と別れたとき。俺と付き合ってるってステータスだけで俺といたんだってわかってさ、そん時もお前は怒ってる俺の前で酷い最低だって泣いたくせに」 ――――・・・そうだった、だろうか。 確かにあの時は、どうしようもなく腹立たしかったのは憶えているが。 「俺がちょっと荒れてさ、わけわかんないとツルんでる時も、溜まり場に乗り込んできてこんな事しちゃダメだってわんわん泣いたじゃねーか」 ――――それは、なんとなく・・・憶えてる・・・・・・ だって、あんな連中に直人様の名前を汚して欲しくなかった。 「俺だって知ってたさ。あいつらが、なんかあってサツの世話になるような事があったとき俺みたいなんがいた方が便利だって分かってて、俺を仲間にしてるってな」 「・・・っ」 ――――知って、らしたのだ・・・・・・ 耳に入る前に連れ出そうとしたのに、自分の努力は無駄だったことを知って、久保は呆然と直人を見つめた。 「それでもさ、あん時はあそこが逃げ場だったのに。お前がわんわん泣くから、至極真っ当な正論並べ立てて、こんな事しちゃいけないとか言うから。なんか毒気が抜かれちまって止めたけどな」 照れた様に直人は笑うと、ポケットからハンカチを取り出して久保の顔を拭ってやる。 「あの時から、俺はお前に泣かれんのは、つれーよ」 間近にいる、直人の顔を久保は熱で犯されたように見つめていた。そんな風に、直人が思っていてくれただけで、天にも昇るほどに嬉しい。 自分が少しくらいは、この人の役に立っていたのだと思うだけど至極幸せな気分になれた。 「ごめんなぁ。俺はお前に心配かけてばっかだな」 そんな事は無いと、久保は首を横に降る。 「ほら、もう泣くな。俺が虐めてるみたいだろ?」 「すいま、せん」 ちょっと困った声も、やっぱり変わらない直人のそれで。それだけで嬉しくて愛しさがこみ上げてくる。 「直人、様」 「ん〜?」 「ずっと、傍に置いてください」 お願いです。 「傍で、使ってください」 それだけは、どうしても譲れない想いだから。 「ばーか。当たり前だろう?ガキん時に約束しただろう。俺の秘書はお前だけだ」 ――――ああ。神様ありがとうございます。 この人のそばにいられる人間に、僕を選んでくださって。 「なぁ、午後もこうやって空眺めてようぜ」 直人はそういうと、久保の頭に手を掛けて自分の肩に引き寄せた。 「ダメ、です」 その態度に久保の心臓が、バク!!っと跳ね上がる。 「ええ〜いいじゃねーか」 直人が、あやすように久保の頭をぽんぽんと叩く。 「ダメです。見て、頂く書類、後、フロアも見て回って、頂かないと」 「ちぇー」 直人の本当に不満そうな声が響いて、久保は思わず笑ってしまう。ああ、これが直人様だと安堵を込めて。 自分の一番大切な人はちゃんとここにいると思う。 「あ、お前今笑っただろう?」 ああ、神様。 僕の思いは叶わなくてもかまいません。 こうしてお傍にいて、お力添えできるだけでかまいません。 ですからどうか。 どうか。 直人様を幸せにしてあげてください。 立場や、地位や名前じゃなく、戦略でもない。本当に直人様を愛して、直人様が愛せる人を直人様にお与え下さい。 お願いです。 どうか、この人に。 愛を上げてください。 僕はその為だったら、命だっていらないから。 ・・・・・・ 雅人の元へ電話が入ったのはそれから数日後のGWも終わった頃だった。 久保兄の取次ぎに雅人は不愉快さを隠しもしなかったが、電話に出た声にはそんな気持ちはおくびにも出さなかった。 「はい。――――お久しぶりです」 『お元気そうね。貴方のご活躍は海を越えてこちらにも聞こえていますよ』 「そうですか。それで、今日はどういったご用件で?」 前置きはいいと、雅人は用件を問うた。どだい、こんなくだらない会話に付き合うほど暇ではないと思っていた。その態度に久保は一瞬眉を顰めたが、電話の相手はくすっと笑っただけだった。 『直人さんのご結婚の話、お伺いしましたよ』 「そうですか」 『あら、否定なさらないの?』 「否定した方が、よろしいですか?」 その返事の仕方に、久保兄の方がはらはらした顔で雅人を見ていた。以前はもう少し、もう少しは丁寧な受け答えをしていたはずなのに。最近開き直った所為か、雅人の陽子に対する態度はどんどんぞんざいになっている。 『なんでも、お見合いの話も多数寄せられているそうじゃないですか』 「・・・・・・」 雅人は、そうなのか?と上目遣いで秘書の久保兄に視線をやる。曽我嬢だけじゃなかったのか、と。 『雅人さんが身を固めないうちに直人さんが、という事かしら』 「陽子さん、直人の結婚は直人の話ですよ。貴方には、関係の無い事です。父が傍観の構えの中、陽子さんの口出す事ではないと思いますが?」 受話器越し、ヒュっと息を吸い込んだ音がして。 父の意向は知っている、こんな電話を勝手にしてきていいのですか?と暗にほのめかす。陽子は、雅人にとって大嫌いな女でも、馬鹿な女ではないのだ。 それだけが救いともいえ、それゆえに面倒とも言えたが。 「ご用件がそれだけなら、失礼いたします」 雅人はそう言うと、相手の言葉も待たずに受話器を置いた。陽子が我に返って、言葉を発してくる前に、と。 「よろしいのですか?」 「ああ、かまわない」 雅人はそう言うと、忌々しそうに眉を顰めて大きく息を吐き出した。 ――――可哀相な女だ・・・・・・ 同情すべきところはあるんだろうが、だからと言って立場が違う以上どうする事も出来ない。敵ならば、潰していくしか道は無いのだ。 「あの方は、やはり今でも恨んでいらっしゃるのでしょうか」 「だろうな」 そう、彼女を支えている大半のエネルギーは恨み。 「しかし、ならば父に言えばいい。自分を捨てて、親の言いなりに母と結婚した父に。それで、こっちを恨むのは筋違いだろう」 たぶん、昔はあんな性格じゃなかったのかもしれない。けれど、正妻にはしてもらえず愛人になり、それでも別れる事も出来ずズルズルと付き合い、やっとの思いで正妻になれば事情を知っている親類からは後ろ指を指され陰口を叩かれる。 可哀相だ。 憐れだとは思うが、雅人の母は五月であり。そして陽子は、無神経に綾乃を傷つけた。 雅人にとって理由はそれだけで十分だった。 「それにしても気になるのは、見合いの話だ。直人にそんな話があるのか?」 「申し訳ありません、まだ把握しておりません。すぐに――――」 「ああ。明日中には結果が欲しい」 「かしこまりました」 |