直人の恋物語T−5
「では、明日の朝お迎えに上がりますので」 車が南條家の門をくぐったところで、後部座席にそう声をかけた。その声がとっても冷たくて、直人は小さく息を漏らした。 「なぁ、悪かったって変な事言って。もう怒るなよ」 久保は決して怒っているわけでは無かった、そうじゃないのだかそれが直人にはわかっていない。 ただ直人は、朝のベッドの中"何かあった?"は流石に不味かったらしいと思い、珍しく機嫌を伺うような声を久保に向ける。 そもそもそんな事を疑う方がおかしかったのだ、相手は久保なのに。いや、見ていた夢の所為もあるし、なにやらやや元気だった息子の所為もあるのだがと、心の中で訳の分からぬ責任転嫁をしてみる。 「怒ってませんよ」 ――――その声が怒ってるだろうがっ とは、言えない。 ここは沈黙を守るしか無い様だと諦めた。休み明けにはきっと久保の機嫌が直っていることを、確信しながら、今は触らぬ神に祟りなしにする。 車はほどなくして玄関に横付けされ、直人は自分で後部座席の扉を開けた。 「久々だなぁ」 見つめた玄関にそう思っていたら、思わず声を発していた。 「では、私はこれで」 「ああ」 律儀に降りて一礼する久保に直人も軽く手を上げた。 そして車が走り出す音を聞きながら、玄関を開けた。 ――――おっと・・・ 「お帰りなさいませ」 「ただいま」 松岡の出迎えに、直人は軽く肩を竦めた。 「お酒臭いですね。昨夜はだいぶ召されたんですか?」 「あー・・・ちょっとな」 「ほどほどになさってくださいね。お体に触りますから」 「はいはい」 直人は松岡の小言に軽い返事を返して、そのままリビングへと顔を出した。すると、そこには誰の姿も無い。 「――――誰もいねーの?」 「いえ、雅人様はお部屋に。綾乃様は体育祭の準備とかで学校へ行ってらっしゃっていまして、雪人様はそれに付いていらっしゃいました」 「なるほど。じゃあ俺も部屋にいるわ」 つーことは誰もいないのと同じかと、ちょっと残念に思う。 「わかりました。・・・コーヒーをお持ちいたしましょうか?」 「ああ、頼む」 直人はそう言うと、自室へと上がっていった。二人のいない静けさに少し寂しさを感じながら。 とりあえず服を全部脱いでラフな服装に着替えたところで、松岡がコーヒーを持ってやってきた。 「さんきゅ」 「いえ。他に何か御用はありませんか?」 「んー今のトコ無し、だぜ」 「では何かあったらお呼びください。お昼は―――」 「あーさっき朝昼兼ねて食べたからいいや」 「わかりました。では」 松岡が、閉じていく扉に視線を向けずコーヒーに口を付けた。僅かばかり感じる甘さに、ふっと笑みを漏らしてしまう。 ――――だからさ、優しさが罪って事もいい加減憶えろよ。 自嘲気味に笑って、直人は置かれたソファに腰掛けた。普段はブラックの直人は、疲れている時だけ僅かな砂糖を入れるのだ。 ――――さてっと、休みの日何すっかなぁー こんな事なら友達に連絡して飲みにでも行けば良かったか、そう思って軽く頭を振った。それじゃあなんの為に帰ってきているのか分からない。 家族で食事をするために、ここにいるのに。 「下で映画でも見るかなぁー」 雅人が綾乃の為に用意した、最新設備のシアタールーム。こんな時に借りとかなきゃ勿体無いと、中々良い考えだと思いながらもう一口コーヒーを飲んだ時、扉がノックされた。 「はい?」 「いいですか?」 少し扉を開けて顔を見せた、兄である雅人。 「ああ、どうぞ。あ、コーヒー飲む?」 「いえ、私は先ほど頂きましたので」 「そ」 直人が視線で促せば、雅人は直人の向かいのソファに腰掛けた。 「一緒に行かなかったんだ?」 「ええ。綾乃に断固拒否されまして・・・回りが緊張して困るからと。それに、あまり私がでしゃばるのもね」 「まぁ、――――確かに?」 直人は雅人を上目遣いで見つめる。その雅人の顔に、なんとなーく感じるものがあった。 「もしかして、綾乃なんか問題発生?」 「そういうわけではありませんが・・・1年生が入ってきましたので、また去年のこの時期の様にうるさくなっている一部もある様で」 「あれーバカがいるんだ?」 「はい。どうやら私に喧嘩を売りたい人がね」 フッと笑ったその顔に、直人は背中が凍りつくほどの悪寒を感じた。いや、彼らは決して南條雅人に喧嘩を売りたいわけじゃないと思うぞ?と思わず弁護してやりたい気持ちになってしまう。もちろんそんな事を言える空気じゃない。本当はむしろ逆なんだろうが、そのやり方がマズイ事に気づけない、ただ単なるおバカなんだろうけどまぁしょうがないなと直人は納得するだけに留めておく。 何もわざわざ見も知らぬ他人のために、恐い思いをする必要が無い。 「ところで、パーティーに出席したようですね」 「ああ・・・って、もう耳に入ってんの?」 ――――昨日の今日だぜ? どういう耳だと、再び直人は内心でため息を吐く。 「もちろんです。貴方が、青村会長に捕まったのもね」 「あ、あー」 ははと乾いた笑みを浮かべておく。 「紹介されたのは、投資ファンドの人ですよね」 「ああ。兄貴、知ってんの?」 「良い噂と悪い噂が両極端にある人ですね」 「ふーん」 「直人の何が。彼を刺激したのでしょうか」 「・・・どうせそっちも知ってんだろう?」 少しやけっぱちな物言いに、雅人がくすっと笑みを漏らした。 「あれだけ成功すれば嫌でも耳には入りますよ」 「別に。それに、あれはアイツの腕だからな」 「――――謙遜する必要は無いでしょう?直人。もっと自分の腕をひけらかしなさい」 その雅人らしい言いに思わず笑みを零しながらも、直人ははっきり言い放った。 「嫌だね」 「勿体無い」 「勿体無くていい」 断固たる、口調。 直人はあの父に、そしてこの兄に張り合う気など毛頭ないのだ。そんな事が出来るとも思っていない。そんな、重そうなものは背負いたくも無い。 そんな自分の態度に雅人がフッとため息をついたのは、気配で捕らえながら直人はまたもコーヒーを一口飲む。 「ところで、青村会長は結構本気らしいですよ」 「・・・何が?」 「紹介されたお嬢さん」 「冗談だろ?」 「いいえ」 「ありえねーよ。俺は結婚する気も無いし、あの女に興味もねーよ」 つーかすでに顔すらおぼろげなんだけど、と直人は言葉を漏らした。 「それならちゃんとした態度を示しなさい」 「・・・兄貴?」 雅人の声色が少し変わったことに、直人は眉を少し上げた。 「気づいたら回りを固められていました、なんて事になら無い様に」 「それ――――経験談?」 「いえ、ただそういう例を聞き及んでいますので」 「ふーん」 完全にポーカーフェイスを守っている雅人から、何かを推察しようとするのは無駄だと知っている直人だが、それでもその瞳を雅人に向けた。 その雅人が、おもむろに立ち上がった。 「直人」 「んー?」 直人はソファに座ったまま、雅人を見上げた。 兄弟で思うのもなんだが、鍛えられた体躯に自然と身に付いているなんとも言えないオーラ。これがいわゆる、上に立つ者の風格とでもいうのかなと、ぼんやりと考えた。 「貴方は・・・」 「ああ」 「幸せに、なってくださいね」 「――――はっ!?」 一瞬言われた意味がわからなくて、直人の口から変な声が洩れた。だっていきなり面と向かって、そんな言葉。 けれど雅人はそれ以上何かを言うつもりは無いらしく、ふって浮かべた笑みも引っ込めてそのまま黙って直人の部屋を後にした。直人はその、パタンと閉じられた扉を呆然と見送ってしまった。 ―――――おいおい・・・いきなり、なんだよ・・・・・・第一。 「幸せにって・・・なぁー・・・」 呆然と呟いたその言葉の先を、直人が口にする事はなかった。いや、出来なかった。何故ならその言葉の先を、見つけられなかったのだ。 幸せだぜ、とも言えず。 幸せにはなれねーよ、とも言いたくなかったから。 だから今は、ただ乾いた笑みを零すしか無かった。 一方廊下では、苦笑を漏らした雅人と松岡が顔を合わせていた。 「立ち聞きですか?」 「すいません、ノックをするタイミングを逃してしまいました」 視線だけで、雅人はその先を促した。 「綾乃様よりお電話がありまして、後1時間くらいで学校を出られるそうです。――――それを、お伝えしに来たのですが」 「なるほど」 雅人はフッと笑みを漏らして松岡を促して、直人の部屋の前から雅人の部屋の前へと移動した。万が一にも、話を聞かれては大変だから。 「それで?」 「―――お話は、本当ですか?直人様に青村会長が女性を紹介したというのは」 「本当です」 「・・・そうですか」 「確か、お相手の方は今大学4回のはずです。その後はそのまま父親の会社に入るのか他社へ就職するのかまでは知りませんが。ただ、普通のお嬢さんよりはキレるらしいですね」 「そうですか。―――それは、直人様にとって良いお話なのでしょうか?」 松岡の問に、雅人は僅かに目を見張って笑みを漏らした。それは決して好意的なものとは言えなかったが。 「何を持って、良い話とするんです?」 「・・・・・・」 「私にはそれがわかりませんから、答えようがありませんね」 それは、鋭利な刃物の様な冷たい響きだった。綾乃が聞いたら顔色を失うような、そんな声色。松岡も言葉無く、その場に立ち尽くした。 ただ松岡の場合は怯えたのではなく、続く言葉を探せなかっただけだが。 「話がそれだけなら、私は綾乃が戻るまで仕事を片付けてしまいたいので、良いですか?」 「・・・はい」 「綾乃が帰ってきたら教えてください」 「かしこまりました」 松岡はただそう言うしかなく。 雅人もまたそれ以上の言葉を松岡にかける事無く、部屋へと入っていった。 |