直人の恋物語T−7



 兄は、ふっと眼を細めて弟の翳った横顔を見た。
「何かアクションがあったのか?」
「うん。今度ホテルで曽我社長が1枚噛んだパーティーがあるんだ。その件でお嬢さんがいらしてね、直人様に挨拶したんだけど・・・」
 ふっと言いよどむ様に言葉を切った弟を、兄は黙って促した。
「その後で直人様が・・・・・・ましな女だったって、おっしゃったんだ」
「それはまた」
 兄が、スっと息を吸い込んだ。
「直人様がああいう言い方したの、初めてだと思うんだよ。大概、歯牙にもかけないっていうか、後でその人について触れる事さえしないのに」
「確かに。直人様にしては、だいぶ褒めた言葉だな」
「うん・・・」
 兄の言葉に、やはりそうかと久保は項垂れた。自分の記憶の中ででも、直人が女の人に対してコメントを残したのを聞いた覚えが無い。例え1度、身体を重ねたとしてもだ。まるで、何か運動でもしたかの様なそんな感じ――――言い換えれば、あ〜いい運動したな、くらい言いそうなのだ。
「それで?」
「いや―――――うん。それだけ、なんだけどね」
「それだけって、お前なぁ。そんな事で慌ててどうするんだ?」
「うん・・・」
「何度も言ってるだろう?諦めろ、と」
 ハッとした様に久保は兄を見つめ、そして唇をぐっと噛んで瞳を逸らした。
 そうだった。兄は、いつもそう言っていた。
「直人様が誰をお好きなのかくらい、知っているんだろう?」
 その問の久保は、頷くしか出来ない。
「その想いは報われることは無いだろうが」
「・・・本当に、本当にそうでしょうか?」
「ん?」
 久保がぎゅっと湯飲みを握り締めた。
「あの人は、直人様のお気持ちに答える事は一生無いのでしょうか?」
 あんなにも狂おしいほどの瞳を向けられて、それをずっと無視していくなんて自分には絶対出来ないと思うのに。
 あの眼差しの僅かでも、自分に向けられたら――――そう思わない日は無いというのに。
「無いな。あの人にはあの人の真実がある。それは、直人様とは交わらないものだ」
「・・・・・・そうですか・・・・・・」
 ――――そう、なのか・・・
「直人様もそれは十分承知していらっしゃる。だからこそ、直人様はご結婚なさる可能性が高い」
「――――っ!!」
 兄の言葉が久保の胸を突き刺した。  思わず向けた兄への視線が、苦しさと悲しさと、そんな事を言わなくてもいいじゃないかという非難の色に揺れた。
 けれど兄は、はっきりと弟に向かって最後通牒を告げるように言う。
「雅人様がご結婚されないのは、今となってはもう間違いの無い事実だ。となれば、直人様か雪人様が結婚されて子を生さなければ南條家はどうなる?」
「――――」
「そして直人様がもし、子を生さないとなれば、残るは雪人様だ。――――それが、どういう事かわかるだろう?」
「・・・・・・陽子様が、・・・・・・」
「そうだ。あの人が今以上にでしゃばってくるのは目に見えている。そんな事を直人様がなさるだろうか?」
 直人が好きな松岡は、陽子とは犬猿の仲で。さらに松岡は直人の母を――――間接的にでも松岡を守ろうとすれば、直人が結婚という道を選ぶのは自明の理。
 兄はそう思っていたし、それがもっとも望ましいと考えていたのだ。
「いいか?私達の役目は本家を守り盛り立てて行く事だ。それが我ら分家の人間の役目でもあり、長年久保家を秘書という立場に引き立ててくださった事への、恩返しなのだ」
「―――――はい」
 でも、好きなんです。
 とは久保には言えなかった。
 幼い日々から傍にいて、いつしか好きになって恋をした。
「いいな。もう諦めろ。それがお前の為なんだ」
 兄の言葉は最もで嫌と言うほどわかってはいるけれど、けれど久保は頷く事は出来なかった。
 別にこの想いを成就したいなんてそんな大それた事を思っているわけでは無い。自分など、どちらでもいいのだ。
 ただ願うのは。
 想い人の幸せだけ――――――――――――
 あの人の、心の底からの笑顔だけ。
 だから家の為に、好きでもない人と結婚して欲しくなかった。あの顔を、そんな事で曇らせたくなかった。
 ただ、幸せになって欲しかった。
 狂おしいほどの願いは、それだけ。
 その為だったら、自分はなんでもする。
 久保はそう思っていた。
 例え兄に何を言われようとも、それが南條家の為にならなくても―――――――




・・・・・




 都内のいわゆる一等地という場所に立つ、有名企業がこぞってオフィスを構えたがるというビルの、ワンフロア。
 久保兄は、いつかの書類を手に社長室へと入った。
「おはようございます」
 そこにいるのは、言わずもがな。南條家跡取りと目され注目度も一際高い男、南條雅人。
「おはよう、――――何か問題でもあったのか?」
「・・・わかりますか」
 開口一番雅人の指摘に、久保兄は苦笑を漏らした。
「ああ、少し寝不足の様だし、顔色も優れないようだ。どうした?」
 雅人は書類を受け取りながら言葉をかける。久保兄が、こうはっきり様子を違えるとはよほどの事なのだろうと雅人は思った。
 と言っても、他の人間が見たのでは普段と何が違うのかまったく分からないだろうが。
「昨夜、弟がやってきまして」
「――――ああ」
 雅人の視線が、久保兄を捉えた。
「直人様と曽我ご令嬢とが第2の接触があったようです」
 ぱらっと雅人が書類を捲る音が聞こえる。
「その後、直人様が――――曽我嬢に対して珍しく肯定的なコメントを口にされたとかで」
「なるほど」
「なんと言っても青村様の絡んでいる事ですから、直人様のことを調べ上げての上で接触してきたと思われます」
 直人の好みも性格も、もしかしたらこれまでの付き合いのあった相手全て―――――
「直人は、どこまでわかっているんだろうな」
 ふっと雅人は小さくため息を漏らした。
 直人の仕事ぶり、人材を見抜く目は申し分ないと雅人は評価していた。正直もっと甘いかと思っていたのだが、切り捨てるところも迷いは無い。別会社の件は除いてだが。しかしあれはあれで、成果は上げているし雅人自身面白いと思っていた。直人が、そういう事がしたかったのかと思いそれを成し遂げようとしているのは、それはそれで嬉しくも思っていた。
「直人様がそのご令嬢に惚れる事は無いと思いますが・・・手を打ってもいいと思う可能性はありますね」
「あんな女。直人に釣りあわん」
 南條家にまとわり付いてくるどろどろとした人間関係は、今まで雅人に集中していたし雅人自身も直人にあまり触れないように注意してきた。それだけに、直人は遠くからの搦め手には多少鈍いところがある。
 それが雅人には心配だったのだ。
「曽我ご令嬢に関する報告書を直人様にお見せしては?」
「いや、それはたぶん逆効果だ。――――今は静観するしか策はないな」
「はい」
「弟君は大丈夫か?参ってるんじゃないのか」
「その様ですね。しかし、直人様がいつかはご結婚されるのは間違いないのですから、いい加減諦めなさいと釘を刺しておきました」
 久保兄の言葉に、雅人は僅かに書類を捲るページを止めたが、それも久保兄が気づく前にペースを戻した。
「そうか。また何か動きがあったら報告してくれ」
「かしこまりました。――――――本日の予定ですが・・・・・・・・・」
 久保兄が手帳を開いて、今日の予定を延々と読み上げている間、雅人はそれを聞き流しながら頭の中ではもっと別の事に思いを巡らせていた。

 こういう事は早く動いた方がいいな、と思いながら―――――――――






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