直人の恋物語T−8



 その夜遅く、雪人も綾乃ももう寝静まった時間。雅人は自室で松岡と向き合っていた。その姿はお互いまったく衣服を崩しておらず、いつもの穏やかな空気ともほど遠い物だった。
「――――結婚、ですか?・・・直人様が」
 松岡の口から、驚きを隠さない声が洩れた。
「ええ、そうです。このままいけば、そうなってしまうかもしれません」
 雅人はソファにゆったりと腰掛けて、傍に立つ松岡を見上げていた。
「お相手は、あまり良い噂の無い投資ファンドの会社社長のご令嬢です」
「この件は、高人様はご存知なのでしょうか?」
「さぁ、どうでしょうか。あの人が何をどこまで知っているのか、それは私には図りかねますね。ただ、青村氏が関わっている事なので耳に入っているかもしれませんね」
「先日のお話、そこまで?」
「ええそうです。青村氏の紹介で、直人とそのご令嬢は知り合った。私にはそれだけであまり良い話とは言えない気がしますね。まぁ、彼らと繋ぎを作りたい人は別でしょうが、私はご遠慮したい」
「――――はい」
 シンっと、静まり返った家に二人の声だけがぼそぼそと響く。
「松岡――――止めていただけませんか?」
「雅人様?」
「貴方の言葉になら、直人は耳を傾けるかもしれません」
「――――」
 松岡がなんとも言えない顔をした。なんと言っていいのかわからない様にさえ見える。ただ戸惑いに、珍しく瞳を泳がした。
「この結婚が直人の為にならないのは、あなたも理解できるはずです」
「はい」
「ですから、直人の為に」
「雅人様・・・・・・、私には、私にはそんな資格はございません」
 何かを押し殺した声だった。その松岡に雅人はさらに言葉を重ねる。
「――――直人は、貴方が好きなんですよ?その気持ちに多少答えてくれるだけでも――――」
「雅人様っ」
 雅人の言葉を遮って、松岡の鋭い声が飛んだ。その顔が、僅かに青くなった様に思えるのはライトの加減の所為だろうか。
「どうしても、出来ませんか?」
「雅人様」
「資格なら、あるんじゃないですか?」
 カチっと時計の針が音とをたてて、夜中の2時になったことを密かに知らせた。
ぞっとするほどの冷めた空気の中、雅人の顔には一切の表情が浮かんでいない。ただその瞳だけが、鋭く尖っていた。
「―――――父、として」
「雅人様!?」
「違いますか?直人は、母五月と―――――貴方の・・・・・・」
「雅人様!!」
 部屋に、松岡の荒げた声が響いた。けれど、雅人は顔色一つ変えなかった。
「まさか、雅人様にまであのような下卑た噂が耳に入っているとは思いもしませんでした」
「―――――」
「まさか、本気で信じていらっしゃるわけじゃないですよね?」
「貴方と父の血液型は同じです。DNA鑑定でもしなければ、噂は否定出来ないでしょうね」
「―――直人様のお耳にも・・・・・・?」
「今はまだ」
 雅人の返事に松岡はあからさまにホッと息を吐き出した。そして、厳しい眼差しを雅人にも向けた。
「はっきり申し上げておきますが、雅人様も直人様も、高人様のお子様です。その様な、五月様を侮辱する様なお言葉は今後一切おっしゃらないで下さい」
 雅人はそんな松岡の様子を至極冷静に見ていた。何が真実なのか、そこから見極めようとでもしているように。
「貴方のお母様ですよ」
 しかし結局は、自分で言った様にDNA鑑定でもしなければ本当の事はわからないのだろう。真実は闇の中だ。
「お話がそれだけなら、失礼致します」
 松岡は堅い声でそう言うと、こんな場面でも律儀に一礼して雅人に背を向けた。
「直人を、止めてはいただけないんですか?」
 ドアのノブに手を掛けた松岡の背中に、雅人が声をかける。
「・・・私に出来る事はありません。申し訳ありません」
 その、頑なにさえ見える松岡の態度に、初めて雅人が僅かな苛立ちをその顔に表した。
「無力ですね」
「―――――」
「貴方は母が結婚する時も無力だった。そして今も―――――」
 松岡の僅かに震えた肩に、雅人は苦渋の顔を浮かべた。言い過ぎた、と謝ることまで計算でしゃべってるのは、松岡にもわかっているだろうが。
 言いたいわけじゃない、こんな言葉。けれど、今言わずにどうするという思いともどかしさと、雅人の立場が真実を知る必要性を訴えているのだ。
 これで何かが、壊れたとしても――――――――――
「・・・失礼いたします」
「松岡」
 雅人の最後の呼びかけはぱたんと閉じられた音に遮られ、返事は返って来なかった。ただ、言い様のない空しさと苛立ちだけが雅人の胸に渦巻いていく。
 結局、松岡がここにいるのは誰のためでもない――――――――ただ一人に為・・・・・・・・・
「血など繋がっていなくても・・・・・・」
 貴方が育てたんじゃないですか?その直人の為に、信念を僅かも曲げてはくれないのですか?
 死んだ人ではない、今生きている人の為に。
 そんな雅人のその切々たる問いに、答えてくれる人はいない――――――――――




 松岡が部屋を出て行ってから、1時間ほど後だろうか。すっかり着替えた雅人が、冴えない顔色のまま綾乃の部屋に滑り込んだ。
 部屋は当然真っ暗で、ベッドには綾乃の膨らみ。
 雅人はそっと足音を忍ばせて近づいて、するりと布団を捲って中に滑り込んだ。
「・・・ん・・・」
 僅かに洩れる綾乃の声に、はっと目を見開いて様子を窺うと寝ぼけた様子で綾乃が腕を伸ばしてきた。雅人は当然その腕を取って絡めて、綾乃をぎゅっと抱きしめた。
 ほかほかの布団と、あったかい綾乃の体温が冷たく固まっていた雅人の心身に染み渡ってくる。
「・・・おやすみなさい」
 小さく囁くと、んっとまた僅かに声が洩れて綾乃はそのまま眠りの中へと再び落ちていった。
 雅人はその身体を腕の中に閉じ込めて、身体中がいっぱいになるように綾乃の香りを嗅いだ。同じシャンプーやボディーソープのはずなのに、どこか甘い綾乃の香り。
 その香りに触れて、綾乃の温もりに触れて、雅人は癒されると同時にいたたまれなくもなる。
 わかっていて選んだキツイ言葉。
 それが人を傷つけるかもしれないと分かっていても、確かめずにはいられなかった。いや、そう言う事で松岡の本音を聞き出したいという思いもあった。
 親の代わりに長い間育ててくれていた松岡に対して、感謝する思いはたくさんあるのに。それと同時に、言いようの無い寂しさもあったから。
 家族になりたくて、家族にはなれない。
 家族の様に見えて、どこかそうじゃない関係に、とうの昔に納得したはずだったのに。
 温もりと暖かさを知って、どこかで再び期待しようとしている自分がいるのだ。擬似家族が、本物に変わるかもしれないという、愚にも付かない期待。
  その所為で、中途半端な決意と中途半端な期待が渦巻いて、未だに自分の気持ちを整理出来ないでいる弱さ。これも必要悪だと割り切れなくなった弱さを、嫌だとは思わない。ただ、まだ自分の中で処理するだけの強さが足りないだけ、そう思った。
 ―――――すいません・・・・・・
 雅人はそう呟いて、そっと綾乃の肩口に顔を埋めた。
 ―――――こんな汚い手で、触れて・・・・・・
 今は酷く自分が汚く思えて、穢れないこの存在を自分が汚している気もする。けれど、それでも今こうしていないと、夜が明けたとき前へ向えない気がするから。
 だから綾乃。

 今、貴方を抱きしめる事を、許してくださいね?






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