直人の恋物語T−9
その電話が直人の元に掛かってきたのは、それから数日後の事だった。 「―――親父・・・・・・」 今日は接待でも無く、部下と一緒にのびのびと昼食を取った直後だった。 『元気にしてるか?』 「ああ。そっちはどう?」 今親父はニューヨークのはずたから、一体向こうは何時だったかと考える。 『まぁ順調とでも、言っておこうかな』 「あっそ。で?」 『ん?』 「なんか用があったから電話してきたんじゃないの?」 少し苛立った様な声に、傍らにいる久保のほうが青い顔色になる。 『用と言うほどの事でも無いんだがな。――――お前、結婚するのか?』 「はぁ!?なんだよ、それ」 『いや、そういう話を聞いたんでな。曽我とかいうのの社長令嬢だそうじゃないか』 その言葉に、直人は思わず深いため息をついた。 「そんなんじゃない。パーティーで1回会っただけだ」 『青村氏の紹介でな』 「――――っ」 『投資ファンドの社長だそうじゃないか。どういういわれで、投資ファンドがお前に目をつけたのかは知らんが、どうなんだそのお嬢さん』 「・・・どうって?」 どこまで知っててどこまで知らないのか、相変わらず喰えない男だと自分の父親ながらにそう思った。 『結婚、してもいいかなーと思ってるのか?』 「さぁーどうだろ。こういうのはなるようになるんじゃないの?」 『そうか』 「なに?親父は反対とかすんの?」 そこまで俺に興味あんの?そんな意趣返し。 『いや』 ほらやっぱり。 今更なにかを期待する気もしない。それとも、曽我では親父は不満なのかもしれないな。 「ならどっちでもいいじゃねーか。なに、わざわざそんな事で電話してきたわけ?」 『息子の結婚話だぞ。聞いて何が悪い』 「あっそ。で、もういいデスカ?仕事が待ってるんですけどね?」 『ああ、すまなかったな』 「いいえ。じゃあ」 直人はそう言って、電話を切ろうとした。 その受話器から、声が聞こえた。 「え?なに?」 慌ててもう1度耳に当てた。 『いや―――直人、よく考えなさい。結婚は一生ものだぞ』 「――――」 言われた言葉が意外すぎて、一瞬反応を返しそびれた間に高人は電話を切ってしまっていた。ぼんやりと離した受話器からは、ツーツーという電信音。 いや、だってまさかあの親父から。 「直人様?」 ――――結婚は、一生もん?よく言うぜ。 直人は思わず手にしていた受話器を乱暴に置いた。 「直人様?あの、どうなさったんですか?」 電話の内容がいまひとつ分かっていない久保は、直人の態度に一体何事かと顔色を変える。もしかして、何か良くない話なのかと思ったのだ。 「ああ、なんか親父の耳にも曽我の話が入ったらしくて、結婚すんのかーって」 「そうでしたか・・・高人様のお耳にも・・・・・・」 久保の顔に動揺の色が走る。 頭の中で、兄に言われた言葉がぐるぐると回った。 「――――それで・・・」 喉が、急に渇きだした。 自分でもどうしてここまで動揺してしまうのか、自分で自分の心が制御できない。 「ん?」 そうは言っても、結婚などまだ、遠いと思っていたのに。 「高人様は、賛成なさっているのですか?」 「あーあの人は昔から結婚は勝手にしろって言ってたからなぁ〜」 そういえば、親父から政略結婚的な事を言われた事も進められたことも無かったなと、今頃になって思う。騒ぐのはいつも親戚や重役連中ばかりだった、と。 「では――――直人様は、どうなさるつもりですか・・・?」 聞きたくて聞くことが恐いその質問。久保の声が僅かに震えていたのを、直人は気づかなかった。 なぜなら、直人の瞳に久保が映っていないから。見ているのは、もっと違うここには無い何か。 「さあ・・・、どうするかな」 どこか他人事の様な直人の言葉が響いて。 「それも有りかなぁ〜」 久保は目の前が真っ暗になるのを感じた。 直人様を好きだと思ったのは、一体いつだっただろうか。 初めてお会いしたのは、確か僕が小等部の3年生の時だった。鎌倉の別荘で何か集まりがあって、本家から遠い親戚にいたるまで全てが集められていた。 その屋敷の庭で、僕は一人泣いていたんだ。 兄と違う貧弱そうな身体。勉強は兄に負けないくらい頑張っていたから差がつけられる事は無かったけど、僕はスポーツなどはからっきしで。兄は、背も高く当時から利発そうな見目で、その上スポーツも出来て大人からの受け答えにはとてもはっきり答えていた。 それに比べて、僕はダメだったらしい。 大人たちが、さすがご長男ね、と褒めている言葉と共に僕を見下して、なんだか冷たい視線を向けられているように感じて。雅人様も利発だが、久保家の長男も負けていない。これで南條も安泰だ、なんて言っていて。 さも僕の価値などない様な、言葉だった。 僕はその場にいたたまれなくて、庭の大きな木の陰で一人泣いていたんだ。 そこへ一人の子供がやってきた。 勝気そうな、やんちゃそうなお顔で、何泣いてる?って生意気な口で聞かれて。 僕が、僕なんていらないんだって言ったら。 じゃあ俺の秘書になれよって言ったんだ。 僕はその時それが直人様だとは知らなくて、何を言う子だろうと思っていた。そうしたら、膨れた顔になって、なんだ俺じゃあ不満なのかよ!って怒るから、僕は慌てて首を横に振った。そうしたら直人様はにっこり笑ったんだ。 それで、あろうことか僕の頭をよしよしって撫でた。 あの時は確か直人様はまだ小等部に上がる前だったんじゃないかな。その後直ぐ、それが直人様だって知って、僕の喜びは何倍にもなった。 その後も、どこかで顔を合わすたびに声を掛けてくださって、傍にいて大人達から守ってくださった。 僕は直人様のお役に立てるようになろうと思って、勉強もそれまで以上に頑張って。経営学や経済学から、秘書や人を束ねていくのに必要かもと心理学まで専攻して学んだ。もちろん資格も取得しているし、それ以外にも色々取った。 それはもう、一生懸命努力した。 けれどその努力を支えたのは、直人様のお役に立ちたいっていう思い以外に、いつの間にか抱いていた恋心だった。 それをはっきり自覚したのは、一体何時だっただろう。 直人様がよく喧嘩して心配した時は、まだ恋じゃなかったはずなのに。 喧嘩をした相手が俺の名前にビビって謝ってきた、と悔しそうに呟いた時は、どうだっただろうか。 それとも、直人様が始めて女性を付き合いだしたと聞いて、胸が騒いだ時だったろうか。 直人様がその女性と別れたと聞いて、安堵している自分に気づいた時だっただろうか。 直人様が、女は所詮南條って名に惚れるんだな、と自嘲気味に笑った顔が悲しかった時だっただろうか。 その直人様を、抱きしめてあげたいと思った時だったか。 直人様には、ただいつも笑っていて欲しいと願った時だっただろうか。 荒れていく直人様に何もして差し上げられなくて、自分自身が無能に思えて悔しかった時だろうか。 そして失恋を知ったのは。 直人様が本当は誰を必要としているのか、知った時。 直人様が誰の名を嬉しそうに呼び、そしてその人にどれほど気持ちを傾けているのかを知った時。 高人様の再婚話が持ち上がって、直人様が不安定に揺れていて。そしてその理由を知った時、どれほどの衝撃が襲ったか。 今でも思い出したくない。 目の前が真っ暗になって、地面がそこから消え失せた。 そして直人様の絶望を知って、僕は浅はかにももしかしたら僕にチャンスが――――そんな風に思った。 なんて愚かで醜い心。 それでもざわめき出すのを止められなかったんだ。 もしかしたら振り向いてもらえるんじゃないかって。 もしかしたら僕を、好きになってくださるんじゃないかなんて思った。 けれど、僕のそんな無知で浅はかな心は直ぐに打ち砕かれて、直人様が僕などを見る事は無い事を知る。 直人様の瞳に、僕がそんな風に映る事がない事を。 直人様の瞳が、今も誰を求めているのかを知って。 そして、今でも直人様がその人をどうしようもない程愛しているのを、僕は知っている。 |