直人の恋物語U 1
社長室の壁際に置かれたカレンダーはいつの間にか、9月を示していた。けれど、眺めた空が秋空に変わったのかどうなのか、見ているだけでは一向にわからない。窓から差し込んでくるその日差しさえも、まだ秋の訪れを告げてはいない。 しかし、間違いなく昨日から9月になった。 ホテルにあるポスターは夏のものから秋のものへと変わったのは1週間も前からで。ホテルで優雅にお昼を過ごすプランの料理も、昨日から秋の献立になった。 松茸や栗などをふんだんに使ったそのコースを考えたのはだいぶ前だったし、実際そろそろ冬メニューの考案にさえ取り掛かっている。 会議の議題は、冬のイベントごと。 ―――――なんだかなぁー・・・ 季節感が無くなる気がするな、と直人は苦笑混じりで心の内で呟いた。 そういえば、盆の墓参りをしなかった。夏休み、家に寄り付くことさえほとんど無かった。 「すっかり忘れてたなぁー・・・」 「何をです?」 独り言のつもりの呟きに返事が帰って来て、直人は窓に向けていた視線を外して振り返った。別段、驚きはしないが。 「いや、こっちの話だ」 たぶん、いや間違いなくこの秘書はノックをしてから入っただろう。ただ、自分がその音を聞き逃していただけだ。 「そうですか。何かご用向きがあればおっしゃってくださいね。――――こちらが、過去3年間の11月、12月のお昼の献立です」 久保が差し出した資料は、3年前から始まった"ホテルで優雅にお昼を過ごすプラン"の料理メニュー一覧。それとついでに、5年間のクリスマスプランも。 「さんきゅ」 直人は一応それに目を落としては見たが、今見る気は無い様だ。それをそのまま机の上に置いてしまう。 「なぁ」 「なんでしょうか」 「・・・俺の夏休みはいつ?」 そういえば、夏休みも取ってないな、と今思い立ったらしい。いつもは、雪人に合わせて出来るだけ雪人の夏休みの間に取っていたのに。 「このクリスマスプランが決まれば、いつ取っていただいてもかまいません」 なんで忘れてたんだか。 直人は軽い自己嫌悪に陥って、自分に向けてため息を吐き出した。 「直人様?」 「いや・・・、わかった」 直人はそう言うと、革張りの椅子にどっかりと腰を下ろした。 ―――――ああ、そうか。兄貴が電話してこなかったんだ。 夏休み前、いつも"いつから休めますか?"と電話がかかって来ていた。 「じゃあ、とっとと決めて休みを取るか」 ―――――・・・違うよな。 電話が無くても、憶えていた。家に帰ることが苦痛でもなんでも無かった。むしろ、帰りたかったし、顔が見たいと思ってた。それは、雪人じゃねーけど。 「お休みにどこか行かれるなど、手配が必要ならおっしゃってください」 「ああ」 でも、今年はさすがに足が向かなかった。 直人は、自分の秘書を真っ直ぐ見上げた。 久保和樹。 寝たのはあの時1回キリ。その後半年、キスさえしていなければ、互いにその事に触れることも無かった。 まるで何もなかったかのように、いつも通り。 それでも、知ってしまえば気づく事もある。 背中に感じる視線。 ふとした気遣い。 優しさ。 そして、諦めた顔。 切ない、瞳。 「それと、新しい秘書が一人来ましたので、ご紹介しておきたいのですが」 今までまったく気づかなかった自分の鈍感さに、ほとほと呆れるほどに。 「秘書?んな話聞いてねーけど」 「先日―――といっても、一月くらい前でしたか、ご報告しましたよ。3人では回せなくなってるので、もう一人増やそうかと思うのですが、と。その時直人様は、好きにしろとおっしゃいましたが」 「そーだったっけ?まぁ、いいけど」 久保がそういうんならそうなんだろうと、直人はさして気にも留めずに納得したように頷いた。それを見て久保が扉を開けて、一人の青年を招きいれた。 「失礼します」 「どうぞ」 久保に促されて緊張した面持ちで入った来た青年は、直人が思っていたより若かった。 ―――――26、5・・・ってとこか。 「多田智行です。本日付で秘書課に配属になりました。至らぬところもあると思いますが精一杯頑張りたいと思います。よろしくお願い致します」 耳が少しばかり赤く見えるのは緊張の所為か。真っ黒よりもやや薄い髪の色はたぶん地毛がそうなのだろう。前髪を上げているのは若く見えるを防ぐためかもしれないがそれはあまり功を奏して無い。が、漂う男らしさに清潔感を保つ長さに切られている髪、好感が持てる風貌だ。 「ああ、よろしく。こっちこそ至らぬ社長だが、気長に頼む」 背は、久保より僅かばかり低いか。 「多田くんには当面事務所で細かい事務仕事をしていただくことになると思います。後は、私の補佐も」 「任せる」 「はい。では、御用が無ければ失礼いたします」 「ああ、今は特に何も無い」 ―――――俺は。 「では、失礼致します」 「失礼します!」 辞去の言葉を残し、一礼して下がっていく二人の背中を直人は見つめた。 この半年、何も変わって無いなんて嘘だ。 あれ以来、久保は出来るだけ目を合わさない様にしている。それが何かの役に立つかのように、そうしなければいられないように。 ―――――俺は、どうしたいんだ・・・・・・ 言葉に出来ない問いかけを遮断するかのように、扉は静かにパタンと閉じた。 「そんなに緊張する事ないよ」 その直人の視線の先、扉の向こうでは秘書の久保はクスリと笑みを零して多田を見た。 「はい」 多田は普通の、まぁ上の中レベルの大学を出たが直ぐ就職する気になれなくて半年ほどアメリカ放浪の旅をしていた。そこへ、母が入院したと知らせが来て慌てて帰国してきた。 そこで父親が持って来たのがこの求人。帰って来た途端に始まった親の説教にはうんざりしたが、母の具合は思ったほど悪くて流石に安心させなくてはと思ったのだ。 「社長、マジ若いですね」 「まぁね。でも、出来る人だよ」 今でも自分が採用になった理由がいまひとつわかって無い。親には奇跡だと言われた。 「久保さん、俺まず何をしたらいいですか?」 室長と呼ばれることをあまり好まない久保は、部下から"さん"付けで呼ばれていた。 「そうだね。まずこの伝票を整理して、経理に持っていって下さい。その後は、この棚を整理してもらえますか?」 「わかりました」 多田の机の上に、箱いっぱいにはいった伝票が置かれる。そして指し示された棚は、どう見ても随分乱雑にファイルが並んでいるようだ。 どちらも忙しくて中々整理が出来ないでいた代物らしい。 「あの・・・それで他の方は?」 「ああ。大木君は今出張中。直人様の代理でね。三浦君はちょっと別件で最近でずっぱりかなぁ」 「そうですか」 なんだか本当に忙しそうだな、と多田はそっと息を吐く。けれど、これはこれでいち早く認められるチャンスなのかもしれない。 「そういう事でお願いするね」 「はい」 多田が返事をすると、久保は少しだけ笑って、そのまま隣の給湯室へと入る。 多田はその背中を見送って、自分にあてがわれた机に座って、よし!と気合を入れた。 ―――――がんばろう!! がんばってバリバリ仕事をこなして、出来るってことを認めてもらおう。そう思って、伝票の山と格闘し始めたとき久保が給湯室から戻って来て。 芳しい香り立つ珈琲を手に社長室に戻っていった。 |