直人の恋物語U 10
「雪人くん――――なんであんな・・・」 着替えるためにソファに腰掛ける雅人に背を向けたまま、綾乃がぽつりと呟いた。 「それは、テストの結果ですか?それとも・・・」 「どっちもだよ。テストだってもっと、出来てたのに」 「そうでしょうね」 折角の綾乃の着替え姿を見ても、今この状況では雅人も甘い空気にはならなかった。 落ちた肩を、なぐさめに抱いてあげたいとは思うけれど。 「大体おかしいよっ」 半分着替え終えた綾乃が、思い出したように声を荒げる。 「何がです?」 「あのテスト。おかしいと思わなかった?」 「ああ」 その事か、と雅人は頷いた。 「――――たぶん、わざとでしょう」 綾乃が気づくことに雅人が気づかないはずが無い。あのテストの点数は雅人が見てもおかしいと思っていた。 「わざとって・・・」 「誕生パーティーの話をした直ぐ後でしたからね、テストは」 ゆっくりと雅人はそう言って、綾乃を見た。その顔は、少し疲れて見えた。 「関係、あるんだ?」 「あります。これはあくまでも私の考えですが、テストの結果が良ければ陽子さんは喜ぶでしょうね。そしてもっと大きな展望を考える。雪人はそう思ったのではないかと思います」 ―――――それが、私にとってどんな意味を持つか。この今の関係にだって波風が立つのは免れない・・・・・・ 「―――――そんなっ」 「雪人と私の間のあの人が入れば、そういうややこしい関係になるんですよ」 「・・・じゃあ、雪人のさっきの言葉・・・」 綾乃が苦しそうに顔を歪めて、小さく言葉を落とした。その綾乃に雅人は苦笑を浮かべることで答えた。口に出して肯定するのは、悲しすぎた。 きっと雪人の耳にはもっと色んな言葉が入って来ているだろうその事を告げるのも。 「雪人、そういうの知ってるんだね・・・」 そして、本当はそんな単純な事でも無い。 テストの結果が悪ければ、逆を返せば雅人の監督不行き届き。もっと考えれば、二人の不仲や、雅人が雪人の前途を邪魔しているんじゃないか、そう憶測を呼ぶ。波紋は、グループのどこまで広がるのかそれは雅人にももうわからない。 ただ、雪人はそこまで考えが及ばなかったのだろう。 「綾乃」 雅人が、ふっと笑みを漏らす。 「そんな顔しないでください」 「だって―――」 着替えも途中で立ち尽くす綾乃に雅人はソファから立ち上がって、そっとその頬に触れる。 その泣きそうな顔を見るだけで、その優しさにふれるだけで、雅人は黒くなっていった気持ちが一瞬に浄化されていくのを感じた。 「パーティーが終わるまでです」 「・・・終わったって」 問題は解決しない、それくらいはさすがに綾乃でも、もうわかっていた。 「でも、猶予はありますから」 「猶予?」 「雪人が大人になるまで、まだ何年もありますよ。その間に、雪人の生き方は雪人が考えるしか無いんです」 自分が、そうであったように。 直人が、そうであったように。 自分で考えて悩んで、結論を出すしか無い。例え何かを傷つけて、何かを捨てる事になったとしても。 「空手は?」 「雪人が辞めたい、と言い出さない限り私が辞めなさいとは言いませんよ」 「良かった」 綾乃が安心したのか、ほっとしたように笑う。 その笑顔に、嫉妬しないわけじゃないけれど。 「今回の事は、私も悪かったです」 「え?」 雅人はそう言って、綾乃の傍を離れ再びソファに腰を下ろした。 「もう少し雪人のことを考えるべきでした。ぎりぎりまで黙っておけば良かった」 「そんなこと・・・」 それは雅人の所為では無いと、綾乃の顔が言う。 けれどやはり、雅人の所為でもあるのかもしれない。松岡の気持ちを知っていながら、こうなってしまったという事はある程度雅人の落ち度であろうから。 その落ち込んだ横顔に綾乃は眉を寄せて、脱ぎ捨てた服をそのままに雅人へと近寄っていった。雪人と雅人の問題は難しくて何も出来ないけれど、せめて雅人をぎゅっと抱きしめたいと思った。 好きだよ、って気持ちを込めて。 ・・・・・ 週末、綾乃は雪人を一人置いて行くのは忍びなくて、文化祭の準備の忙しい学校へ一緒に連れて行った。 その事に、いつもならつまらぬヤキモチから口を挟みたがる雅人も珍しく歓迎していたし、雪人もとても嬉しそうだった。 その綾乃と雪人を送り出す雅人と松岡、その朝の景色はいつも通り穏やかで代わり映えが無く見えて、綾乃は内心ほっとしていた。揉め事があっても、次の日にはあたりまえの日常がちゃんと戻っている事が救いの様に思えたのだ。 けれど残念ながら、穏やかに見えたのは2人の乗る車が見えなくなるまでだった。 「さて、メニューは決まってるんでしたっけ?」 そこには、穏やかな空気も優しい雰囲気も何も無い。あるのは、ピンと張り詰めた空気と、言葉にしようのない緊張感だけだった。 「はい。誕生日ですので、先付けは季節のもの、牡蠣などを取り入れて6種、造り―――は、その日上がった良いものがいいですね、時期ですから鮑などが欲しいかと。天ぷらは松茸、車海老、茄子、かぼちゃ辺りでどうかと思っています」 「季節ですからね」 「はい。焼き物は、やはり鯛でしょうか。それに、ご飯は栗赤飯。煮物をまだ迷っているのですが、根野菜を中心に――――汁は、蟹のすり身などにしようかと」 「なるほど、わかりました。では、―――材料の手配はこちらでしましょうか」 雅人はわざとそう言って、松岡をちらりと見た。 材料の手配はホテルの仕入れを利用して行おうと考えていた。それが1番手っ取り早くかつ、確実な方法なのである。 「それとも、直接直人に連絡していただけますか?」 「――――いえ、私が電話するよりは雅人様からのほうが話が早いかと思いますので、よろしくお願い致します」 「わかりました」 松岡の言葉は意味が通っていなかった。どう考えても直接連絡した方が早いに決まっている。けれど、雅人は黙って頷いた。松岡の予想通りの答えを聞きながら、安心したような苛立つような気持ちを抑えながら。 そうしながら、視線だけで問いかけた。 どうするのだ、と。 23日、2人は久しぶりに顔を合わすことになるだろう。雅人としても、そろそろ決着をつけて欲しいと思っていたのだ。 直人も、いい年になってきた。 将来の相手をどうするのか、現実的な話をそろそろしても――――――おかしくない。 その射抜くような冷めた視線を、松岡はただ黙って受け止め続けた。 ・・・・・・ 「直人様」 雅人からのFAXを受け取った久保が、即座に社長室をノックして直人にそれを渡す。 「まーた、随分豪勢な晩餐だな」 それは、松岡からリストアップされた食材一覧。それが雅人経由で流されてくる。その経緯と意味を感じて、直人は自嘲気味に口を歪めた。 「仕入れ担当に渡して、23日早朝に届けるように言ってくれ」 「かしこまりました」 その事に、久保だって気づかないわけはない。けれど、軽々しくそれを口に出来るはずも無く、また自分が口を出していい問題にも思えなかった。 「では、行ってまいります」 「ああ」 余計な事は一切言わない。 半年前のあの日まで、雑談も軽口ももっともっとあったのに。その上、先日の出来事を境に空気さえもぎこちなくなっていた。 それが今はまだ仕事に支障までは出していないけれど、こんな日々が続けばいつか仕事に影響を及ぶすことは目に見えていた。 「――――直人様・・・」 横顔が、疲れて見えて、思わず呼んでしまった。 「なんだ?」 視線さえも、向けてくれはしない。その横顔をこんな風に見つめる事は、もう辞めたほうがいいんですか? 「・・・いえ、お疲れの様なので少し心配で」 「疲れてるのは俺だけじゃねーだろ」 優しい貴方は、口ではきっとはっきり言えないんですよね? 「そうですね」 その態度が精一杯の自己表現。 拒絶の意、なんですよね? 「これが終われば休暇ですから」 ―――――どこに行くんですか? そう尋ねたい。 一緒に行きたいと駄々を捏ねて、誰と行くのかと妬いてみたい。 叶わぬ、気持ちだけど。 過ぎた夢だけど。 「では」 ねぇ、直人様? こないだのあれは、一体なんだったのですか? 想う事を止められない私への苛立ちですか? 鬱陶しさですか? もしかして、代わりにしてくれようとしたんでしょうか? ―――――・・・はぁ・・・ 答えの無い問いだけが空しいほどたくさん心の内に積って溜まっていく。問いかける事さえ出来ないのに、何故想ってしまうのだろう。 本当にもう、心を消してしまわなくては・・・・・・ バタン、と扉が閉まる音が全てを遮断してしまう音に聞こえた。 「久保さん」 「ちょっと、出てくるから頼むね」 「はい、いってらっしゃい」 多田の無邪気な笑みに、久保は自分がちゃんと笑えているのかさえよくわからなかった。 |