直人の恋物語U 11




 バサバサと書類を散らかす音が、室内に響いて消えた。
「んで、無いんだよ」
 今度のパーティーの、出来上がってきたばかりの進行表。昼間見たはずのそれが、部屋に帰って再度見直そうと持ち帰った書類の束の中、どこを捜しても見当たらない。明日の会議までにチェックしておきたかったのに。
 明日の夜は、いよいよ家でのパーティーだ。
 それもあったのかもしれない、気持ちがいつもよりずっと苛立っていた。
 どうしようもなく落ち着かなくて、心がざわめきたって、指先が変に震える。
「んで・・・っ」
 なんでこんな、落ち着けないのか。
 久しぶりに会う松岡に対してなのか、久々に顔を合わせなければならない父と陽子に対してなのか。それとももっと別の何か、予感めいたものがこんなに心をざわつかせるのか。
 直人は荒々しく椅子に座った。
「とりあえず資料だ」
 心を落ち着かせようと、直人はそう呟いてもう1度考えてみる。確か、午後に久保から資料を受け取って、仕入れの件の報告を聞いて頷いて、久保の背中を見送って――――――資料を。
「ああ、そうか」
 見終わったファイルの上に置いて。
 そのまま次の資料に目を通して、それをさらに上に置いて、夕方全部まとめて久保に渡したんだ。
「つーことは持ってるのはあいつか」
 どんくさい事をしたな、と口の中で小さく呟いて直人は受話器を取り上げた。
 が、内線を押す事無く再び受話器を元に戻した。なんというか今更なんだけれど、電話をして、持ってこさせ玄関先で返す、という行為が酷く我侭なものに思えたのだ。
 だいたいにして、自分のミスなのだから。
「しゃーねーな」
 直人はそう言うと、鍵を持って部屋を出た。久保の部屋は1階下なだけなのだから、自分で取りにいけばいい。そうすれば、玄関先でそのまま戻ってもおかしくないはずだ。
 何に対してなのか、そんな言い訳を思ってみて、1階分くらいだからと直人は階段で降りて久保の部屋のチャイムを押した。
「―――――」
 反応の無い部屋に向かって、もう1度押してみるがやはり反応が無い。
 ―――――もしかして、まだ仕事中なのか?
 いや、俺が部屋を出るとき、自分達ももう上がるとそう言っていたはずだ。もしかして、寝てるのか?
 ―――――倒れてんじゃねーだろうな!?
 久保が直人以上に疲れていたのを、直人は知っていた。それは仕事の忙しさ以上に、精神的にも。もしかしたら追い詰めているのは、自分かもしれない。
 その自覚も、無いわけではない。
 直人は慌ててポケットに入れたままになっていた携帯で、電話をかける。もし中で鳴れば決まりだ。
「・・・あれ?」
 耳に当てた携帯からコール音が鳴り始めても、部屋の中から着信音が聞こえない。
 ―――――アイツって、バイブだっけ?
『はい』
 その時、久保が電話に出た。
「久保?」
『はい。あの、どうかされましたか?』
「お前、今どこ?」
『最上階のバーです』
「バー!?」
 ほっとしたのか直人はその背中を扉にドンとぶつけてもたれかかった。
 ―――――んーだよっ
『はい。――――あの・・・』
「寂しく一人で飲んでんじゃねーよ」
 安心したからか、気が抜けたからか直人の口から久々の軽口が漏れた。
『いえ』
「あ?」
『多田くんと一緒なんです。誘われて』
 ―――――・・・っ
 途端にザワっと直人の心が揺れて、苛立った気持ちが顔を出した。
「あのさ」
『はい』
「俺が夕方渡した書類の中に、進行表も入ってたんだよ」
『29日のですか?』
「そう。で、それが見たくて今お前の部屋の前なんだけど」
『すいません、すぐお持ちします』
「あー」
 直人が不機嫌な声を出せる立場じゃあ本当は無い。どう考えても直人が悪いのだから。直人だってそれはわかっているはずなのに。
「じゃあ部屋で待ってる」
 ため息混じりの声で言えば、"すぐに"と言い残して久保が慌てた様子で電話を切った。
 それなのに、直人の心の中にある言い様の無いまるで子供の様な苛立ちが消えることが無く、燻り続けている。階段を登る足音は荒々しく、フロアに戻ればそれを絨毯が吸収してしまうのが面白くない。
 乱暴に扉を閉めて、缶ビールを一口流し込んだ直後ドアがノックされた。テーブルに置いた缶ビールが、耳障りなカンっと音をたてる。
「直人様?」
「あー」
 "悪かったな"そう言わなければいけないはずなのに、言葉は喉にひっかかって上まで上がってこない。
「お探しのものはこれですよね?」
 室内に入る事無く差し出されるそれに、何故苛立つのか理由が分からない。けれど、それを捜すために心の中に首を突っ込んで探し回る余裕も勇気も今は持ち合わせてはいないのだ。
「ああ」
 だからこれは、間違いなく八つ当たり。冷静になればきっとそれはわかるのに今はそれがわからない。
「申し訳有りませんでした」
「―――っんで」
 理性が考えるより先に、本能が言葉を吐き出させた。
「え?」
「なんでお前が謝る!?」
 驚いた久保の顔を、直人の暗い視線が突き刺した。
 僅かに空いた久保の口からは声は漏れず、直人の口からも言葉が出ない。ただ、苦しい沈黙が2人の間を十数秒流れた。
「私がよく見ておけば良かった事です。ですから、これは私のミスです」
 一瞬、頭に血が登ってどうしようもないむかつきが込み上げてくる。その気持ちのままに怒鳴り声を上げそうになった直人に、久保の、淡々とした声が水を差した。
「では、失礼致します」
 久保はそう言って軽く頭を下げると、直人の前から一歩遠のいた。その足先を直人は見つめる。
「―――っ」
 指先に力がこもる。
「多田君が待ってますので」
 ―――――・・・っ
 "久保"と呼びかけようと開きかけた口は、久保の言葉で音にはならずそのままそこに沈んでいった。
 また一歩、久保が直人から遠のいていく。
 ぐしゃっと、手にした資料が音を立てた。それは今、握りつぶしていい資料なんかでは無いのに。
 背中を見る。
 直人が久保の背中を見送るなど、早々あるものではなかった。いつも見送るのは久保の方で、いつも背を向けるのは直人のほう。いつもは先の扉を閉めて、その向こうで久保がどうしているのかなんて、考えようともしなかった。
 いつも見つめ続けていたのは、違う人の背中だったから――――――――
「久保!」
 ビクっと久保の肩が揺れる。その揺れに、久保が神経を背中に向けていたんじゃないかと、想像させる。
 まだ、こいつは俺が好きなんだ―――――――――その事に、安堵している自分がいた。
 ほっとしている。
 なんて、ずるいんだろう。
「あんまり、飲みすぎるなよ」
 直人はそう言って、ゆっくり扉を閉めた。きっとその音で久保は振り返るだろう。
 その時どんな顔をしているのか、見てみたいと思う。想像するのは容易で、たぶん答えは間違っていないだろう。
 手を見ると、大事な資料はだいぶぐちゃっと折れ曲がってしまっていた。それを机に置いて、ゆっくりと伸ばした。
 その紙面を見つめて。
 ゆっくり瞳を閉じれば、浮かんでくる顔がある。
 たぶん、それはだいぶ前からそうだったのかもしれない。ただ、気づかなかっただけで。
 気づかないふりをしていただけで。
「―――」
 ゴクっと喉を鳴らして、少し温くなったビールを流し込む。
 その苦さは、少し似ていると思った。心の奥底を恐々覗いて見る苦さと。でも、飲み下せないほどの苦さでは無い。
 いや、正確には――――――無くなった、だろう。
 それを認めるのはやはり少し、まだ苦しかったけれど。














next   kirinohana    novels    top