直人の恋物語U 14
ガツ!!っと止める間もなく鈍い音が響いて、松岡の背中が廊下の壁に当たる。 「直人様!!」 「お前何を考えてるんだ!!」 割って入ろうとした久保をもろともしないで、直人が松岡の胸倉を掴んだ。 久保の口から語られた、つい今しがたの出来事に直人が激高するのは止めようが無い。雅人も、呆れたような深いため息を吐き出して、責めるように松岡を見る事は止めなかった。 「雪人が、――――あいつがどんな気持ちで!!」 「止めてください、直人様!!」 久保には雪人の気持ち以上に、怒る直人の気持ちが切なくて松岡の事が哀しかったのだ。 傷つけ合わないで欲しかった。 「止めるな!」 たぶん、誰も悪くないから。 「止めますっ」 久保は必死で直人の腕に絡みつき、松岡から引き剥がそうと頑張った。それでも松岡に2発目を叩き込もうとした直人に。 「直人」 雅人の制止を求める声がかかり、久保はぎゅっと直人の腕を掴んで離さない。その態度に直人は、忌々しそうに舌打しながらもゆっくりと松岡から手を離した。 松岡は直人の力を失って、弱弱しく壁にもたれかかった。 「俺は・・・」 直人が、松岡を真っ直ぐ見据えた。その瞳が、あまりにも怒りを湛えたままなのが久保には悲しかった。直人がどれほど苦しいんだろうと想像して。 「結婚なんか、しねーよ」 「直人―――」 「・・・えっ」 ぽつりと吐き出された直人の言葉に雅人はその名を呼び、久保も驚きを顔に出したままに直人を見た。 松岡は、苦渋に満ちた痛そうな顔をしていた。そんな言葉は聞きたくないと、全身が拒絶しているかのようだ。 ―――――そんなにも・・・ 久保の口が自嘲気味に歪む。 こうまでしても、こうまで言われてもやはりこの人は、好きでいることを辞められないんだな、と切り付けられるような痛さが久保の心の中に広がっていく。 自分ではどうする事も出来ない、そう思うと無意識に足が半歩後ろに下がった。 「勘違いすんなよ」 いつの間にか足元に落ちていた視線を、久保はゆっくりと上げた。 「俺が結婚しないのは――――好きなヤツが出来たからだ」 ―――――・・・え・・・ 出来た? いる、じゃなくて? その疑問を口にする前に、直人の顔がゆっくり動いて久保を真正面から見つめた。それがまるで、スローモーションでも見ているようにゆっくりと久保の脳裏に浸透していく。 「俺は、こいつと一緒にいる」 「―――っ」 「直人様!?」 カッと松岡の瞳が見開いて、久保を凝視した。しかし、直人の発言に1番驚いたのは、他の誰でもない久保自身だった。 驚きすぎて一瞬付いていけなくて、動かない頭は、何か言わなければと思うのにうまく言葉が出てこない。 「あの席で断らなかったのは、無駄な言い争いをしたくなったからだ」 ―――――信じられない。 「詮索されんのもうぜーしな」 ―――――嘘だ・・・ ああ、そうだ。これはきっと嘘に決まっている。 直人様が、松岡さんに決別するための――――納得させるための嘘なんだ。 「・・・何を言ってるんですか!?直人様わかってますか?」 「わかってるよ」 「跡継ぎはどうなさるんです!――――五月様の血は―――――・・・っ!」 「血?アホらし」 はっ、と直人が笑った。その声が、久保の心を締め付けた。 松岡の言葉が、直人をきっと切り裂いたから。 痛い。 「俺は、この家の為に生きてるわけでも、母さんの血を残すために生きてるんでもねーよ」 ―――――泣かないでください・・・ 「俺は、俺の為に生きてんだ」 声が、切なかった。 久保は思わず腕を伸ばして直人の手を取った。 もういい。 それ以上、傷つかないでいい。 自分で自分を傷つけないでいい。 貴方がどれだけ、どれだけ必死で今まで生きてきたか知ってるから。どれだけの悲しさを知り、どれだけの事を諦めてでも、がんばってきたか知っているから。 そんな風に、言い捨ててしまわないで。 精一杯周りの為に、家の為に生きてきたのに。 「行くぞ」 直人は久保の手を取って、松岡に背を向けて二階へと階段を上がっていった。 その握った手の強さのぶんだけ、痛さの分だけ直人は堪えていたのだ。 後ろを振り返ろうとしないその硬くなさの分だけ耐えていたのだ。久保にはそれがわかった。だから、悲しかった。 まだきっと、直人は松岡の事が好きなんだ。 それがわかるから。 綾乃の部屋の扉がノックされたのは、それから30分後だった。 「雅人さん・・・」 「雪人」 雪人は綾乃の部屋の隅で、膝を抱えて蹲っていた。その横に綾乃はただ黙って寄り添って座っていた。体育座りをした膝に爪をたてて、涙を堪えてじっといている雪人の姿が雅人の瞳に痛々しく映し出される。 雅人は、その向いに腰を落として雪人の顔を覗き込んだ。 「雪人」 優しい声で、呼びかける。 「―――どうしましょうね。何から話したらいいんでしょう」 雅人は本当に困ったように声を吐き出した。けれどそれとは反対に、その表情はとても穏やかなものだった。 綾乃がそっと、雪人の肩を抱く。 「・・・ぼく・・・」 雪人は足先を見つめたまま、小さな声で言った。 「嫌われてたんだよね」 「それは違いますよ」 「でも・・・っ」 じわっと、雪人の瞳の涙が溜まっていく。 「雪人、そうじゃないんですよ。・・・少し難しい話ですけど、聞けますか?」 雪人がコクリと頷いて、綾乃が心配そうに雅人と雪人を交互に見つめた。綾乃は何があったのか、僅かにさっしてはいたがほとんどの部分はわかっていなかったから、雅人の口から何が飛び出すのか少し怖かった。 「松岡が南條家に来たのは、私たちの母の為でした。幼馴染だった松岡は、母がこの家に来たとき母を支えるためにと、一緒に来たんです。わかりますか?」 「・・・なんとなく。テレビとかで見る、乳母っぽい感じ?」 「ああ、そうです」 ―――――そうだったんだ・・・ 「松岡はね、母の事が好きだったんです」 綾乃が、はっとしたように雅人を見た。 「でも、母は死にました。病気でしたが、その母に父は必ずしも優しくは無かった。松岡はその事を今でも恨んでいるんでしょう。でも、私たちがいたので、ここから出て行けなかったんです」 雪人が、おずおずと視線を上げて雅人を見た。 「大好きだった母の残した私たちを育てる、そんな人生を選んだんですね」 「僕は、松岡の大好きだった人の子じゃないんだ」 「松岡は、父が再婚した事も許せませんでした。そして父を、そして再婚相手の陽子さんを嫌いになりました」 「だから、僕が嫌いなんだ」 「そうじゃりません」 雅人が雪人の膝の上に手を置く。 間違っちゃいけない、そう言う様に。 「松岡はただ、母が好きなんですよ――――今でも。彼はそこから一歩も踏み出せないんですよ」 雅人が始めて、寂しそうに笑った。 松岡が好きだったのは、母が産んだ自分達だった。ただの、雅人を、直人を純粋に愛した事があっただろうか。それがいち早くわかっていた雅人と、それを知らずに育った直人の差が、もしかしたら直人を松岡へ気持ちを傾けさせたのかもしれない。 「雪人が嫌いなんじゃないんです。母が好きだから、――――母の産んだ私か、直人に家を継がせたいだけなんです」 それがただの、妄執でも。 「難しいですか?」 「ちょっと・・・」 「そうですね。少し、ややこしい話ですからね」 雅人がふっと笑う。その優しい笑みで、全てが水に流せて忘れ去ってしまうことが出来たらいいのに、残念ながらそれは出来ない。 「・・・僕が、・・・」 コクっと雪人の喉が鳴る。 「僕がいなかったら良かったのかな」 「違います」 「それは違うと、僕も思うよ」 始めて綾乃が口を挟んで、雪人が綾乃の顔を見る。 「僕もね、ちょっと前、―――ここに来る前に、そんな風に思ったことあったよ。でも、それは間違ってるんだよ」 「・・・でも」 「僕はここにいて、雪人に会えて凄い嬉しかった。いっぱい元気貰えたし、楽しい気持ちも幸せな気持ちもいっぱい貰ったよ。雪人がいなかったら、知らなかった気持ちだよ?」 雪人が一生懸命堪えているのに、綾乃の方が涙をいっぱい溜めて、今にも泣きそうになっている。 「そうですよ、雪人。雪人がいなくていい、なんて誰も思っていません。松岡だって、思ってませんよ」 雅人の言葉にきゅっと雪人は唇を噛んだ。 「まだ少し難しいですね」 しょうがないですね、とゆっくりと雅人は雪人の髪を撫でる。 松岡本人でさえ持て余し、すでにコントロール出来なくなっているその気持ちを雪人に理解しろというのは無理な話、それは雅人にもわかっていた。 「でもね、松岡は雪人の事を嫌いなんじゃないんですよ。だから―――――松岡も苦しいんですよ。それだけは、わからなくてもいいから憶えておいてくださいね」 雅人の言葉が、綾乃にはなんとなく分かる気がした。 だって、嫌いだったらあんなに優しく出来ない。 あんな風に叱ったり出来ない。 あんな瞳で、見つめたり出来ない。 綾乃はそっと雪人の横顔を見つめた。たぶん、雪人にはまだ難しい事なんだろうと思う。その気持ちを理解するには。 でも、分かって欲しいと思った。 今じゃなくていい。 いつかでいいから。 いつかでいいから。 「雪人、今日は一緒に寝よ?」 綾乃はそう言って、精一杯雪人をぎゅっと抱きしめた。 膝を抱えて涙を耐える姿が、昔の自分を見ているみたいで苦しかった。 |