直人の恋物語U 15




「直人様・・・」
 直人の部屋に入って久保は弱々しく声をかける。握られた手は、ジンジンと痛んだ。その腕から、ゆっくりと直人の指が離れた。
「悪かったな」
「いえ」
 落ちた肩を見つめて、頼りなげな背中を抱きしめたいと久保は思ったけれど、自分がそれをしていいのかわからなかった。
「あんな風に、言っちまって」
 伸ばそうとした手は、途中で止まってだらりと落ちた。
 やはり自分にはその資格が無い様な気がして。
「気にしてません」
 ―――――利用してくださっていいのです。
「そっか」
 直人は身体中に溜まっていた何かを吐き出すように、深く息を吐き出した。そしてゆっくりとベッドに座った。
「座れよ」
「失礼します」
 久保は直人から少し離れた場所で、椅子に座る。
 部屋の電気はつけられていなくて、カーテンから洩れる月明かりだけの部屋は薄暗く、相手の表情までは読み取れない。
 部屋には、重い沈黙だけが流れ続けた。
 その沈黙の中、身動きしたのかギシっとベッドが音を立てる。
「こんな形で言っちまったけど。あれ、本気だからな」
「え?」
 直人の足元を見ていた久保の視線が、弾かれたように直人の顔を見た。
「お前の事、さ」
「直人、様?」
 絡み付いた声が、うまく出なくて変な掠れた声になってしまう。言われた言葉は、到底信じられるものじゃ無かった。
「ちゃんと好きだからな」
「・・・だって」
「半年、放ったらかしにして悪かったな」
 その強い―――自分に言い聞かせるような言葉を聞いて、暗闇の中、真っ直ぐに目が合って視線が絡んだ。
 ―――――ああ。たぶん、きっと・・・
 この人はまだ、松岡さんの事を好きなんだ。
「いえ」
 でも、忘れたいんだですね。
「お前は?」
 でも、それでもいいです。
「私は、ずっと直人様が好きです」
 久保の瞳から、一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
 笑った顔は、直人の瞳に綺麗に映っただろうか?そうであったらいいのに。
「そうか」
「はい」
 代わりでもいい。
 一時の気休めでもいい。
 一時、忘れるための道具でもいい。
 役に立てるなら、なんでもいい。
 一時の夢を見られるなら、それだけで幸せだから。
「ずっと、好きです」
 久保は直人のすぐ横に座りなおして、腕を伸ばした。さっき、抱きしめる事の出来なかった背中を今度こそ抱きしめるために。
 今だけの。この時だけの。
 この瞬間だけ、抱きしめて癒す事が出来る存在になれるなら、未来までも望もうとは思わなかった。





・・・・・





 翌朝の南條家は、異様な静けさを保っていた。
 日曜日の朝ということもあって目覚めが遅いのは常ではあるが、それでもなんというのか、音をたてでもすれば何かがそこから壊れていくのでは無いか、とでも言うような空気の張り詰め方だった。
 しかし、音を立てずには生活は出来ない。
 もうすぐお昼という時間になって、僅かな軋みの音をたてて綾乃が階下へ降りてきた。喉が渇いたのと、トイレに行きたかったのだ。
 なんとなく、忍び足でトイレを済まし、お水でもとそっとダイニングを覗いた。
「あ・・・」
 そこに、松岡が一人ぽつんと、座って窓から外を見つめている姿があった。
「綾乃様。―――おはようございます」
「おはようございます」
 テーブルには、いつも通りの朝食の準備がしてあったけれど、用意された6セットの全てがまだあって、お椀の伏せられた状態を見れば誰も来なかった事がわかる。
「喉、渇いて」
「お茶でいいですか?」
「はい」
 松岡が冷蔵庫を開けて、冷やしてあるお茶をグラスに注ぐ。
「お腹は減っていませんか?」
「少し」
「簡単にサンドイッチを作りますので、お待ちいただけませんか?――――誰も降りてこない様ですから」
 けれど、松岡はどんな思いで誰も降りてこないこの場所に一人いたのだろう。
 綾乃には、薄く笑った松岡の顔を見ていらないとは言えなかった。それに、雪人も少しお腹を減らしているだろうと思ったから。
「お願いします」
 綾乃はそう言うと、今まで松岡が座っていた椅子に腰掛けた。そこから窓を見れば、何を見ていたかが、見える気がしたけど、綾乃には何も分からなくて、松岡の気持ちを推し量るには綾乃はまだ若すぎる。
 直ぐに、ベーコンの焼ける良い匂いが漂って、手早く混ぜ合わされた玉子がフライパンの上にスクランブルエッグになった。シャキシャキのレタスと、輝く赤のトマトがスライスされて、チンっと軽く焼かれた厚切りの胚芽パンにバターが塗られて挟まっていく。
 野菜も取れるように、ローストビーフのサラダまで添えられた皿が瞬く間に―――――6人分、出来上がった。その中には、雪人の好きなツナサンドもあった。
「美味しそう!!ありがとうございます」
「いえ・・・」
 それを半分綾乃が持って、半分は松岡が階段の上まで持って来た。けれど、流石にドアをノックしる事はためらわれるらしく、お願いしますと綾乃に頭を下げて階下へと降りて行った。
 その背中が、綾乃にが声をかけた。
「あの、雪人と話ていきませんか?」
「いえ・・・」
「でもっ」
「私の気持ちは、変わりませんから」
 そう言う背中が寂しかった。
 だって、それならなんでツナサンドなの?雪人が1番好きなのだよ?雅人さんはあんまり好きじゃない、ツナサンドなのに。
「僕っ」
 胸の中がもやもやした。
 うまくまとまらない想いと、どうしようもない歯がゆさがあって、悔しくなった。
「松岡さんのこと、僕好きです。ここに来て優しくしてくれて、1回出て行った後、ミルクレープ焼いてくれて、凄い嬉しかった」
「それは―――それが私の仕事ですから・・・」
「松岡さんっ」
 そんな風に言わないで。
 綾乃がどれほどそう思ってみても、長い月日をかけた松岡の気持ちに直ぐには届く事は出来ないらしい。松岡は、小さく会釈してそのまま降りていってしまった。
 綾乃はせめて暖かいうちに配って、松岡の気持ちが少しでも届けばいいと急いで部屋に向かった。
「雅人さん」
 するとそこには、雅人の姿があった。
「おはようございます――――それは?」
「サンドイッチです。トイレに降りたら・・・」
 ピクっと雪人の肩が動いて視線が上がる。部屋には、出来立てのサンドイッチの良い香りが充満していく。
「お腹減ったしね。食べようっか」
 綾乃は明るく言って、手にしたお盆を置く。そこには3人分が乗っているのだから丁度いい。
「久保さんは部屋?」
「ああ、もう帰しました」
「え?嘘」
 部屋を出てきかけて綾乃は驚いて振り返った。
「本当です。仕事も残ってましたしね」
「えー、一人分余っちゃった」
「みんなでわければいいでしょう」
「・・・そうだね。おいしそうだし。じゃあ僕、直人さんたちの届けてくるよ」
「いえ―――私が行きましょう」
 廊下へ一歩踏み出した綾乃を、雅人が制して立ち上がった。
「そう?」
 僕行くのに、綾乃がそう言いたそうに雅人を見たが雅人は笑顔でそれを無視して部屋を出て行った。扉を閉めるのも、忘れずに。
 ―――――行かせられるわけないでしょう・・・
 昨日の直人の言葉を聞いた雅人としては2人が部屋でどういう状態になっているのか、もし万が一裸でなんか出てきたら、それを考えれば綾乃に行かせるのはいかなかったのだ。
 一方綾乃はそんな事は知りもしないので、変なのと思うくらいで雅人の行為を流し、そんなことよりも目の前のサンドイッチに、思考が移る。
「雪人くん、食べよう」
「・・・僕、いらない」
「そんなこと言って。おなか減るよ」
 綾乃はそう言うと、つくえの上にセッティングしてしまう。
「雪人くんの好きなツナサンドもあるよ」
 その言葉に雪人がちょっと顔を上げる。
「凄く美味しそう。ね、食べよう?」
 綾乃はにっこりと笑った。
 大丈夫、そう思った。
 好きだったから、嫌われてるのかもしれないと思って悲しくなるんだ。
 好きだったから、本人にぶつかっていくのが怖くなるんだ。
 きっと、大丈夫。
「雪人」
 雪人は、ゆっくりと立ち上がって綾乃の方へのろのろと歩み寄った。
「はい、座る」
 松岡さんだって、もし本当にみんなの事嫌いだったらサンドイッチなんか作ったりしない。朝ごはんを準備して、あんな風に待ったりしない。
 雅人さんが言うみたいに、好きな人の子供だから好き、ってだけじゃないんだよ絶対。
「ね、美味しそうでしょ?」
 綾乃の問いかけに雪人は小さくコクンと頷いた。
 ―――――松岡さんは、ちょっとわかんなくなってるのかな。
「はい、いただきまぁー・・・あ、雅人さん」
「私だけのけものですか?」
「まさか。早く座って座って」
「お待たせしました」
「じゃあ、いただきまーす」
 綾乃の少しわざとらしい明るい声が室内に響いた。
 でも、それが雅人には嬉しかったし、雪人の心を勇気づけていたのだけは間違い無い。

 けれど、その声は松岡にまでは届かなかった。
 その日の夕方、松岡は一人そっと南條家を出て行った。












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