直人の恋物語U 16




 1週間が始める月曜日の、始業間近の時間。
 直人は都内にある高級賃貸ビルの、それも最上階のドアを壊す勢いで開けた。その音に、そこにいた十人程度のスーツ姿の男たちが驚いて顔を上げる。
 その1番奥には、ただ一人女の姿。
「直人さん!?」
 驚きに、少し金切り黄身の陽子の声を直人はまったく無視して素通りして、重厚な扉を開けた。
「何事なの、直人さん!!――――久保!」
 反応を示さない直人に痺れを切れして、後に続く久保を鬼の様な瞳で睨みつけた。しかし久保は、わずかに頭を下げるのみで口を開こうとはしなかった。
「随分不躾だな」
「親父ほどじゃねーよ」
 窓を背に立つ高人を直人はまっすぐに、きつい視線を向けた。
「いきなり不意打ちであんな話して、掻き回して何が面白いんだ」
「直人さん、お父様になんて口・・・っ」
 陽子が開けっ放しになっていた扉を慌てて閉める。
「結婚は大切な話だ」
「南條家にとってはな」
「そうだ」
 高人の視線が直人に向かう。そのなんともいえない威圧感を伴う視線を真っ直ぐ受け止める事が出来るのは、息子だからかそれとも、曲げられない信念が直人にはあるからなのか。
「南條家に関わる人間がどれだけいると思う?どれだけの人間がたずさわり、日々生活していると思ってるんだ?」
 それとも、直人にあるのは憎しみだけなのかもしれない。
「関係ねーよ」
「直人」
「俺には関係ねーんだよ」
 直人は強くそう言い切ると、ぎゅっと拳を握り締めた。浮かんだのは、誰の顔でも無い久保の顔だった。
「俺は結婚はしない。それが不満なら、勘当してくれて結構だ」
 ただ、幸せにしたい。そう思ったのはただ一人だった。
 それが自分の出来る、精一杯の恩返しなんだと思った。本当は、自分が傍で幸せにしてやりたいと思ったけれど、それは望まれないから自分が幸せになる事にした。
 彼が、望まない形でも。
「その意思は変わらないのか?」
「変わらない」
 直人はそう言うと、きびすを返して扉を開けた。その瞳には、ほっとしたようなどこか嬉しそうに見える陽子の顔は、まったく映し出されていなかった。
 他人の思惑など、どうでも良かった。直人が見つめたのは、久保の顔だけ。
「行くぞ」
「はい」
 その背中を見送る事無く、陽子はいそいそと扉を閉めた。扉を閉める手が、少し上擦ってしまったのはやはり興奮しているからなのかもしれない。
「本気かしら」
「―――さぁな」
 高人は、ふっと肩を揺らして笑い、椅子に腰掛けた。
「でも、勘当してもいいって」
「陽子」
「はい」
 陽子の背筋が、意識せずにピンと伸びた。
 僅かな期待が心を過ぎる。跡継ぎは雪人にと、言ってくれるのではないだろうかと。そうすれば、やっと心休める事が出来るのに。
「あいつらの事は」
 "諦める"
 その言葉を陽子の脳裏を過ぎる。
「放っておけ」
「―――え?」
 期待は、裏切られた。膝を腕で握り締めた手のひらの強さが強すぎて、スカートに深い消えそうに無い皺を作っていく。
「あいつらにはあいつらの考えがあるだろう」
 悔しい。
 高人の横顔を、陽子は目の前が真っ赤に染まる程の憎悪を憶えずにはいられなかった。
 高人は、間違いなく雅人と直人を愛しているのだ。あの女の息子たちを。もしかしたら、雪人より愛しているんじゃないだろうかとさえ、思える。
 どうして。
 どうして"雪人に"と言ってくれないの?
「あなた」
「ん?」
 けれど、その思いを陽子は口には出来なかった。もし口にしたら負けだと思うからだ。そんな事は認めたくも無い。
 愛されていたのは私。
 結婚できなかったのは、家柄の所為。
「いえ―――お茶入れてきますね」
 私は負けたわけじゃない。
 ただ、家に負けただけだ。




・・・・・・




 雅人から直人へ電話が入ったのは、火曜日の夜だった。
 昼間は打ち合わせに終われ、今日は今日で行われたなんとか学会とかのパーティーがあり、挨拶をして回りついさっきお開きになったところだった。
 片づけをしなければいけない従業員達はここからまた一仕事だろうが、1日仕事に追われた直人は役目を終えて自室にやっと戻って来たところだった。
 後から久保が食べ物を運んで来るはずだから、それまでにシャワーを浴びてこの汗臭さとタバコと酒の匂いを全部洗い流してしまいたいと、ワイシャツを脱ぎかけた時だった。
「―――はい」
『直人ですか?』
「ああ。お疲れ様、兄貴」
 たぶん、向こうも仕事を終えたばかりだろう。もしかしたら家にはまだ帰り着いていないんじゃないだろうか。
『お疲れ様。今、いいですか?』
「ああ。もう部屋だから」
 "何?"とは聞かなかった。用件はわかっていたから。
『見つかりましたよ』
「どこにいた?」
『華楼円です』
「ってあの、山奥の?」
 それは随分昔行った事がある、岩手の山奥にあるこじんまりした旅館。全5室しか無く、ほぼ予約で埋められている上、今時その客さえも選り好みしている高級宿。
「よく空いてたな」
『突然の客の為に一室はかならず空けているそうですから』
「すげー」
 山間にぽつぽつっとある離れ形式の宿は、昔東京で有名料亭に勤めていた板前が、50を過ぎて道楽半分で始めた宿だったはずだ。
 確かにあそこなら誰にも邪魔されずのんびり出来るだろう。
 直人が東京の夜景を見下ろしながら、あの寂しくも思える場所で一体松岡が何を思っているのだろうかとその姿を想像して、思いを馳せたそんなタイミングを見計らった様に、来客を告げるチャイムが鳴った。
「あ、ちょい待って」
『はい』
 直人は携帯を持ったままドアに急ぎその扉を開けると、そこに待っていたのは、予想通り夕飯を運んで来た久保の姿だった。
「お待たせいたしました」
「いや」
 久保は中にワゴンを押して入りながら、今扉を開けるとき誰かを確認した気がしなくて、小言を言うために口を開きかけると、直人が電話を指差した。
「あ、すいません」
「いや。―――悪い、待たせた」
『いえ。久保ですか?』
「ああ。今から夕飯なんだ。腹減って死にそうだぜ」
『そういえば、その件についても1度話しておきたいですね』
 雅人が少し、ため息を交えた声で言うのを直人は苦笑を浮かべて聞いた。
 あの騒ぎで、雅人は久保の件で直人から話を聞けなかったのだ。雅人の中で、もしかしたらという思いは無いではなかったが、まさかそれがこんな早い段階だとは思いもしていなかった。
「ひと段落したらな」
『わかりました。ところで松岡ですが』
「迎えに行くんだ?」
『直人に行っていただきたいんですが』
 ふっと、直人が思わず息を飲んで、反射的に久保を見てしまう。
 テーブルに料理を並べていた久保が、その気配に気づいて顔を上げて直人を見た。
「・・・なんで、俺?」
『お願いします』
 静かな、けれど有無を言わせない雅人の口調だった。
「直ぐには、行けないぜ?」
『かまいません。いつでもいいので』
 いつでもいいはずが無い。
 けれど、雅人はこの役割はやはり自分ではなく直人だろうと、思っていた。久保のことでも話し合う必要はあるが、雅人ではきっと暖かく迎えに行く事は出来ないだろうから。
「いつでもって」
『はい』
「・・・わかったよ。とりあえずまたこっちから連絡する」
『お願いします』
 雅人はそう言って、言う事は終わったとばかりにさっさと電話を切ってしまった。その電話を、直人はゆっくり耳から外してパタンと二つに折って閉じる。
「直人様」
「ああ、メシにしようか?その前にシャワー浴びときたかったのにな」
 携帯を、尻のポケットにねじ込む。
 テーブルの上には、ロースビーフのサラダとアサリのリゾットが美味しそうな湯気をたたせて乗っていた。
「うまそうだな。ワイン、空けるか?」
 笑みを浮かべて問いかける直人に、久保はゆっくりと口を開いた。
「電話――――雅人様ですか?」
「ああ」
 静かな久保の問いかけを誤魔化す事など、直人は出来なかった。頷く以外、どうする事ができたというのだろうか。
「見つかったんですね」
「そうらしい。岩手の山奥にいるらしいぜ」
「行って下さい」
「久保―――っ」
 間髪いれずに言う久保に、直人は溜まらず声を上げて、首を横に振った。
「今そんな暇は無い」
「1日―――いえ、2日ならなんとかします」
「久保!」
 シー・・・ンと部屋が静まり返った。息遣いさえも消えてしまったような、張り詰めた空気が流れ、ただ静かに、暖かかった料理が冷えていく。
 直人の久保の距離は2メートル足らず。けれどそれが少し、遠く感じられた。
「迎えには行く。兄貴の用件はそれだったから。でもな、それは全部終わってからでいい」
「全部って」
「29日が過ぎてからだ」
 直人はそう決めて言うと、テーブルに近づいた。リゾットは少しは冷めてしまっただろうが、まだ十分その美味しさを保っている。
「座れよ」
 いつもの直人の顔が、久保にはどうしても無理をしているように見えた。
 きっと直人はまだ松岡のことを話題にしたく無いのだろう、それが直人の態度からわかるような気が久保にはした。
 きっとまだ好きだから。
「行くの、怖いんですか?」
 椅子を引こうとかけた手が、止まる。
「・・・お前な」
「いいんですか?今行けば、・・・・・・弱みに付けこめますよ、きっと」
 ―――――私のように。
 











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