直人の恋物語U 18




 電車に乗って、乗り継いでまた乗って、しまいに2車両の電車終電で辿りついた駅は、想像通りの田舎だった。
 何にも無い駅前。
 今時電話ボックスがある。それが暗闇の中、少し不気味に照らし出されていた。
 僅かに首をめぐらすと、視線の先にぽつんと1台のタクシーだけが止まっているのが見える。しかし、こんな駅で待っていて客など掴む事が出来るのかと人事ながらに心配になった。
 そのタクシーに向かって直人は歩き出した。客になるために。
 タクシーの運転手に行き先を言えば、やはり有名らしく二つ返事で出発して15分足らず。直人は、年季の入った木で出来た門の前に着いた。
 どうやら中への車の乗り入れは出来ないらしい。直人は金を払って、その足で門をくぐる。
 石で出来た細い道を歩くと、ほどなくして玄関が見えてきた。
「いらっしゃいませ」 
 今日は来客の予定が無いのだろう、出迎えに来た―――60は過ぎているであろう―――初老の男性が若干不審そうな顔を消しきれないまま笑顔を向ける。
「ここに松岡という者が宿泊していると思うのですが」
「お客様の事に関しては何も申しあげられません」
「いや、聞いているのではありません。それは知っているんです。俺は彼に会いに来たのです」
 直人の言葉に初老の男性はゆっくりと直人を見てから、かすかに頷いた。
「失礼ですがお名前は」
「南條直人です」
「少々お待ち下さい」
 音も無く男が奥へ消えていくと、静かなロビーが夜の所為か少し怖くさえ感じる。生い茂る木々の風に揺れる音が直人に聞こえ、庭へ向けて開け放たれた戸から、既に少し寒く感じる風が吹き込んできた。その庭に面して置かれた椅子に直人は座った。
 昼間にでも見ればそうでも無いのだろうが、どうもこんな夜に見ると不気味に見える風景。ここで松岡は何を考えて過ごしたのか、直人はふっとその気持ちに思いを馳せてみる。自分だったらこんな場所には一人で半日もいられないだろう、退屈で。
 ふと直人がため息を吐き出すと、その耳に近づいてくる足音を聞いて振り返った。
 初老の男性を視界に捕らえて、直人はゆっくりと立ち上がる。
「ご案内いたします」
 ―――――良かった。
 とりあえず拒否される事は無かった事に安堵して、直人は後に付いていった。建物の奥へ進めば直ぐに外へと出る。そこからまた石が埋め込まれた道が続く。木々と闇で遮られた視界はかなり狭く、奥にあるであろう離れを確認できない。まぁ、それがこの宿の売りなのだから当然だろうが。
 直人は初老の男について5分ほど歩いただろうか、ふっと目の前が開けて離れが姿を現した。
 ―――――ほんとに隔離されてんなぁー
 当然、喧騒も隣の声さえも聞こえないだろう。
 そこで男は歩みを止めて、道を直人に譲った。どうやら中には入らないらしい。
「ありがとう」
 声をかけると、男は一礼して無言で去っていった。随分無口な男だ。その背中を見送って、直人は玄関の引き戸を開けた。
 靴を脱いで、中へ上がり、1枚の戸を開ける。
 ―――――っ、すげーな・・・
 思わず口笛でも吹きそうになった。
 戸を開けた途端、正面から飛び込んできたのは大きな窓から見えるその森。僅かな汚れすら見えないその窓は、パッと見無い様にさえ見える。
 外からはもっと古く見えたのだが、磨き上げられた板張りに囲炉裏。奥には井草の香りさえしそうなほどの綺麗な畳が敷かれて、今風なモダンな造りになっていた。
「―――直人様」
「・・・よう」
 声に、足を踏み出して視線を向ければ、さっき立っていた直人の場所から死角になる隅で、松岡が茶を入れていた。
 直人はそのまま窓際まで歩みより、座った。
 悪く無い景色だ。
「ご足労おかけいたしました。遠くまで、・・・疲れたでしょう」
「ちょっとな。えらくまた辺鄙な場所にいるんだな」
 傍らにお茶が、茶菓子を添えて置かれた。
「静かで良いところですよ」
「静か過ぎだろ」
 いや、これは正確じゃないかもしれない。結構、木々の触れ合う音がうるさい。
「お腹は減っていませんか?」
「駅弁食った。なんか、駅弁食いながら電車乗るのなんか久々で新鮮だったぜ」
「それは良かったですね。ここらの駅弁は美味しいでしょう」
「ああ」
 直人は外に向けていた視線をめぐらせて、松岡に向ける。
「明日の朝、帰るぞ」
 単刀直入。
「―――直人様、私は・・・」
 直人の言葉を聞いた松岡の顔に、迷いと戸惑いが広がった。自分がそうするべきなのか、どうしたいのか、結局結論まではたどり着けないまま今日に至ってしまっていた様だ。
「もう帰りたくねーか?」
「そんなっ。・・・・・・・・・そんな事は」
 反射的に否定な言葉を口にしてみても、その後が続かなかった。そんな事は無い、とは言い切れない。
 いや、言い切っていいのかがわからなかった。
 今になってあの場所に、自分の居場所がはたしてあるのかどうかがわからない。
「もうあの家はこりごりか?」
「直人様」
「―――――母さんはさ、そんなの不幸だったのかな」
 直人の言葉に、松岡がハッと息を飲み込んで直人を見た。
「俺にはあんま記憶ねーけどさ、松岡がそんなの好きになった俺の母さんはさ、もし生きてたら――――雪人が後継ぐの嫌だとか言ったかな」
 ―――――五月様なら・・・・・・
 春の陽だまりの様に優しく笑う笑顔しか、松岡は思い出せない。恨み言も、言わなかった。言わなかったからこそ、切なかったのだけれど。
「兄貴や俺が、幸せなろうとすんの、止めんのかな?」
 床に正座した松岡は、膝の上で手のぎゅっと握り締めた。
「・・・あの方は」
 松岡の脳裏に、小さかった雅人や直人の姿が浮かび、日々の生活の中での小さな出来事が思い出された。
 兄弟げんかをして泣いた事。
 テストの点数が悪くて叱った事。
 好き嫌いをして怒った事。
 お手伝いをしようとして失敗して、しょんぼりした直人にありがとうと言った事。
 直人が笑った事。
 反抗期に手を焼いた事。
 良い子すぎた雅人を心配した事。
 雪人が来た事。
 もじもじして、おどおどと見つめてきて、それが悲しいと思った事。
 一生懸命馴染もうとしてた事。
 始めて怒ったとき、わんわん泣いた事。
 部屋の掃除をきっちっと出来て褒めたら、嬉しくて飛び跳ねていた事。
 本当に、両手なんかじゃあ抱えきれないほどの日々の出来事と思い出がどんどんどんどん溢れ出した。
 その優しい時間。
 温かな時間。
 かけがえのない、気持ち。
「あの方はきっと、・・・雪人様を大切にされたと思います。分け隔てなく、愛されたでしょう」
 どうして。
 忘れてしまっていたのだろう。
「うん」
「私は・・・」
「松岡だってそうしてたじゃん」
「いえ」
 そうじゃない。そうじゃない事を、松岡が1番わかっていた。
 いつしか雪人を意識するようになって、厳しくしてしまった。キツくしてしまった。
 ―――――どうして・・・っ
「あのさ」
 ただ、囚われてしまった。
 五月が好きで、陽子を憎むあまり。許せないという気持ちを抱いて、その気持ちに蓋を出来なくなってしまって。
「完璧な人間なんかいねーよ」
「え?」
 いつぶりだろう、松岡の瞳が涙に濡れていた。
「松岡は、すげーよくやってると思う。感謝してる。いなかったらさ、俺らきっともっとバラバラになってたよ」
 そんな事―――――――
「雪人、寂しそうだぜ。家に帰っても一人だし、ご飯は出前だし。小言言う人がいないと張り合いんじゃねーの。いたづらってのは怒られるためにするんだから」
「直人様・・・、それはきっと直人様だけですよ」
 本当に、子供頃はいたづらに悩まされましたね。砂糖と塩を入れ替えたり、水道の蛇口に栓をしてみたり。一度、学校をさぼりたいからと、目覚ましを隠されたこともありましたっけ。
「うるせーよ」
 ・・・本当に、大きくなってしまわれた。
「もうさ、ぐだぐだ言うの無しにしようぜ。帰らないなんて選択肢ねーだろ?そんな風に出来ねーだろ?」
 呆れたように笑う直人の顔が、少し大人びて見えて松岡には寂しく思えた。
 とうとう、手が離れてしまった――――――そう思えて。
「もしさ、いままでにちょっとばかり間違いや後悔があったんだったらさ、これから変えていけばいいじゃん」
 ああそうか。私は寂しかったのかもしれない。育っていく彼らを見つめて、離れて行くのが寂しかったのかもしれない。
 いつまでも手を焼いていないと、そう思っていたかったのかもしれない。
「母さんはいないけど、俺はさ、あの場所で松岡に幸せを感じて欲しいよ―――――俺がそう出来たらって思って来たけどな」
 そう言って笑った直人の顔が、昨日よりもずっと晴れやかなものに変わっていた。その顔を、松岡は少し眩しそうに見た。
「久保さんと?」
「ああ。あいつと、ずっと歩いていこうって思う」
「そうですか」
「あいつのこと幸せにしてやりたいなって思うんだ・・・・・・ごめんな」
 心変わりして、ごめん。
 思う様に生きてやれなくて、ごめん。
 それでも俺を、あの家を、愛していて欲しいよ。
「いえ。―――いいんです。直人様がそれが1番幸せなんだと思えるなら、・・・私は応援したいと思います」
「さんきゅ」
「・・・お茶冷めましたね。入れなおします」
「おう」
 直人は、直人らしいにやりとした笑みを浮かべて上着を脱いで、畳の上に足を伸ばして座りなおした。流石に緊張していたらしい。ほっとして、固まっていた身体をうんと伸ばす。
「ところで、先ほど食事は出前とおっしゃってましたが、ずっとですか?」
「ああ。そーらしいぜ」
 気楽な直人の声に、松岡は思わずため息をついてしまった。
「ん?」
「いえ・・・何を取っていたのかと思いまして。好きなものばっかりじゃないでしょうね」
「どー、だろな」
「まったく。雅人様も少しくらいキッチンに立ってくださるといいんですけど」
「そりゃー・・・無理だろ?」
 直人は一瞬雅人がエプロンをしてキッチンに立つ姿を想像してみて、即座に頭を横に振った。ありえない。
「綾乃様はあんな調子だし・・・帰ったら雪人様に少しずつ教えていきましょうか」
「別にいいんじゃねぇ?お前がいんだし」
「歳を考えてください。どれだけ頑張っても、私は雅人さんより先に死にますよ。その後どうするんですか」
 松岡は直人の前にお茶を置いて薄く笑みを浮かべた。
「直人様も習いますか?」










  
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