直人の恋物語U 5




 翌日から、久保の多忙で神経をすり減らす日々が始まった。朝1番、他の秘書達にも連絡をして。昼過ぎに雅人から入った電話でパーティーはある程度の規模になることが決定した。
 その連絡を受けて、午後には企画スタッフやフロアマネージャー、料理スタッフなどと会議が行われた。
 みな、高人社長直々のパーティーということで、さすがに緊張の色は隠せないでいる。
 それは久保もおなじで、直人も例外ではないようだった。
「料理は、池谷(イケヤ)さんにお任せ出来ますか?」
 池谷とは、ホテル内にあるフレンチレストランの料理長。フランスで修行をし、有名な三ツ星レストランで料理長をしていたのを、引き抜いて来た人。
 38と言う若さから、常に新しいアレンジ、オリジナリティを追及しておりレストランは常時予約で埋まっている。
 その彼が、楽しそうな笑みを浮かべる。
「お任せください」
「お願いします。日にちが差し迫っているので、今週中にメニュー構成などを1度まとめて頂きたいのですが」
「わかりました。やってみます」
「申し訳ありません」
 いかに直人がこのホテルの社長であったとしても、各料理人たちに対しては中々気を使うところである。
「中山、飲み物は相談のうえ任せるから」
「わかりました。そちらも今週中にリストを上げます」
「お願いします」
 この料理スタッフは、ワインから焼酎から日本酒からブランデーから、とにかくなんでも詳しい。もちろんジュースやお茶にまで精通していて、いまやホテルには無くてはならない存在だった。
 彼がここで働くようになったのは、直人との個人的な接点からなのだが、それはまた触れる機会があればその時にでも。
「セッティングなどは」
「はい。こちらでいくつかパターンを出してみます。今回は特に趣向を凝らしたほうが良いでしょうか?」
「――――いや。ただ、皿や華にはこだわりたいな」
「わかりました」
 そんな具合に次々の事が指示されていく。どん帳の色から、照明のセッティングまで細かく拘らざるをえなくなるだろう。
 といっても、とりあえずスタッフにパーティーの事が告げられ、準備に追われる、いわば今日はスタートの鐘が鳴ったに過ぎない。
 今日から29日まで。
 とりあえず、走りきるしか無いのだ。どれだけ嫌でもやる気が無くても、そうするしかない。


 その日の夕方、直人の元へ雅人からFAXが届いた。それは、高人から今回のパーティーに必ず出席させて欲しい30人の名簿だった。
「これ、呼べってこと?」
 そのFAXを見ながら直人は電話の向こう、雅人に言う。直人から雅人に電話をかけるなど、随分久しぶりな事だ。
『そうです』
「ふーん・・・」
 直人は、高人からのFAXをそのままこちらに転送したのであろう1枚と、それ以外にそのこに載っている30名の簡単な経歴が書かれたFAXも並べる。
「これ調べたの、兄貴?」
『ええ。知った名前もありましたが、まったく知らない名前もありましたから』
「確かにな」
 その30名の中には有力な新人政治家も含まれる一方、起業したばかりの若者や、デザイナーまで含まれていた。
『渡瀬さんなどは、―――――まさか父の口からその名を聞くとは思ってませんでしたけどね』
「ああ、この建築デザイナーって人?」
『ええ。イタリアで商業施設をデザインして、それが注目を集めた人ですね。どこで知り合ったのだか』
 ああ、なんか新聞か雑誌かでその話は聞いた事がるな、と直人が隅っこにおいやられた記憶をなんとか手繰り寄せようとする。
 確か、写真も一緒に載ってあったはずなんだが――――――思い出せない。
「とりあえず、この30人を入れた500名分のリスト上げるよ」
『お願いします』
「明日中にはFAX出来ると思う」
 直人はそう言いながら、傍らに立つ久保に視線で確認を取ると、久保は大丈夫だと頷いた。
 招待状を準備して送付、返信を貰う日にちを考えれば、 500名のリストを早々に決定してしまわないといけないのだ。
『わかりました』
「じゃあ」
 "はい"という雅人の声を確認して直人は電話を切る。向こうは向こうで、高人と連絡を取り合うのに随分疲れているようだった。
「早速準備にかかります」
 久保が直人からリストを受け取りながら、確認するように頷いた。
「大丈夫なのか?」
「はい。多田君に手伝って貰って、300人分はもうリストが出来てますので、後はこの方々たちとその近辺を絞りだして、残りはこれまでの出席者の中からふるいをかけます」
「了解。――――新人は戦力になってるんだな」
 仕事の上で、久保に随分負担がかかり出していた事を感じていた直人は、その事実にほっとしたように笑みを零した。
 この秘書は、案外疲れが食欲に出て痩せやすい。
「はい。よくやってくれています」
「なら良かった。ま、せいぜいこき使ってやれ」
「そうします」
 久保がクスリと小さな笑みを漏らした。その笑みが、随分久しぶりに感じられて思わずハッとしてしまった。
 なんだろう。
「疲れてもちゃんと食えよ――――、・・・なんだよ」
 穏やかな笑みにつられて口にした言葉に久保が少し驚いた顔になる。そんな変な事は言って無いはずなのに。
「直人様がそんな事をおっしゃられるなんて・・・」
「るせーよ」
 そんなはずはない、ちゃんと気遣ってるはずだと思わず口を尖らすと、久保は先ほどよりも相好を崩した。
 そんなに優しい言葉一つ、かけてやってなかったのだろうか――――――
 そんな風に思って胸が少し、ジクっとした。
「珈琲でもお持ちしましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
「ではお茶でも?」
「大丈夫だって。俺の事はいいから」
「わかりました。では、失礼いたします。何か御用がありましたらお呼びださい」
「ああ」
 直人の返事にリストを手に一礼する久保に、直人は軽く頷いてその背中を見送った。
 その背中。
 細い背中だと思う。
 椅子を鳴らして立ち上がって。
 その背中に、手をかけて振り向かせて、そして・・・――――――――――そんな、一瞬先の未来を想像してみても、そんな事は起こりえないまま扉が閉まる。
 実際は椅子から1ミリも動いていない。
 想像が、リアリティを伴っていないことに、苦笑が洩れて。
「―――」
 直人の口から小さな息が漏れた。
 いい加減、答えを出さなきゃいけないのは、知っている。わかっている。
 ただ、戸惑っているのも事実だった。
 迷っている、自分に。
 笑顔ひとつに、驚いて、ホッとしている自分に。
 ちょっと前なら、あんな想像考えもしなかっただろう。
 指が机をコツコツと叩く。その机には仕事が待っている。
 それを見つめてやる気が出ないのは、単にさぼりクセが抜けないのか、気が重いのか、疲れているのか――――――――――
「・・・やるか」
 空を見つめてみれば、9月に入っていきなり日が暮れるのが早くなって、すでに暮れ始めていた。



 何も考えたく無いと一心に仕事をこなして、目の疲れを感じて顔を上げて見た空はもう真っ暗になっていた。
「腹減ったな・・・」
 集中していた時は気にもしなかったのに、ふっと集中が途切れた瞬間に襲い掛かってきた激しい空腹感。
 直人は、何時だ?と時計を見ると9時近くにまでなっていた。
 ―――――結構がんばったなぁー俺。
 書類とパソコン画面に顔を付き合わせていた所為で硬くなった首筋を、ゆっくり回す事でほぐして、両腕をグイっと伸ばした。
 パキンと肩が鳴る。
「疲れたぁー」
 伸ばした拍子に背中に走る痛みに僅かに顔顰めて、今日はもうこれで終わりだ!とパソコン画面を落とした。
 キリがいいところまでもう少しなのだが、この空腹に気が付いてしまえばもう仕事など手に付き添うもなかったのだ。
 直人は凝り固まった身体をほぐすように立ち上がって、室内を横切る。自分がこの時間まで何も気づかず仕事をしていたという事は、間違いなく久保もそこにいるはずである。
「――――っ」
 扉に手をかけて、僅かに隙間が出来たとき、その隙間を縫うように隣の秘書室の声が直人の耳に届いた。
「遅くまで付き合ってもらってごめんね」
「いえ!」
 勢いを失った、扉にかけた手が止まってしまう。
「これでOKだよ。ありがとう」
「やったー」
 久保と――――新人の多田の声と共にパサパサと紙の擦れ合う音がする。今までかかってリストをあげていたのだろうか?たぶん、それが多田の仕事で、久保はそれ以外の仕事にも追われているだろう。
 なんといっても来週には冬のイベントについての会議が行われる事になっている。
「お疲れ様」
「久保さんこそ」
 ―――――そういや、俺の休みはどこへ行ったんだか・・・
 会議の後にでもサックリ休みを取ろうと思っていたのに。そんな会話をした数日前が、なんだか物凄く遠い日のように感じてしまう。
「じゃあ今日はここまでということにしようか」
「はい」
「遅くまでご苦労様」
「いえ――――――あ・・・」
 その直後、二人の笑い声が聞こえた。
 ―――――なんだ?
 誰知らず、直人の顔が不機嫌そうに曇る。
「お腹減ったね」
「はい」
 どうやら、多田のお腹が鳴ったらしい。直人の場所までは聞こえなかったけど。
「そうだ。久保さんなんか食べに行きませんか?」
「え?」
「久保さんも、お腹減ってますよね?」
「まぁね」
 ―――――俺だって減ってるさ。
「でしょ?」
「そーだね・・・」
 そこで僅かな沈黙が流れる。
 扉を掴む直人の指に、力がこもった。
「社長ですか?」
「うん。まだ仕事してらっしゃるからね」
「久保さんっていつも社長と一緒に食事なさるんですか?」
「まさか。ただ――――」
「じゃ挨拶して、行きましょうよ」
「――――」
 乱暴に、扉が開いた。
 なんだ?
「直人様」
 久保が驚いて振り返った。
「社長、お疲れ様です」
「ああ――――遅くまでご苦労様。もう今日は帰れ」
 その言い方に、久保が僅かに不審気な顔をした。直人らしくない、物の言い方だったからだ。
 ―――――どうなさったんだろう・・・
「後片付けは僕がしておくから、いいよ」
「――――わかりました。お疲れ様でした」
 多田の顔に、僅かに不満そうな表情が乗るのは、若さの所為だろうか。そういう意味では、直人が不機嫌そうなのを隠そうとしないのも、そう言えるのかも知れない。
 久保はそっと、心の内でため息をついて。
「直人様もお疲れ様でした。お食事はどうされますか?」
「部屋で取る。お前も付き合え」
「っ、――――はい」
 久保は驚きに一瞬返事が遅れてしまった。
 部屋に誘われたのは、この半年無かった事だったから。たまに取る一緒の食事もかならず外だった。
 それなのに。
「疲れたー。とっとと行くぞ」
 ―――――ああそうか。疲れてらっしゃるんだな。
 だから一人でするのは億劫なのだろうと納得した。
「はい」
 久保は、なるほどと思いながら手早く片付けて、電気を落とした。
「お腹減りましたね」
「死にそうだ」
 その返事に久保は忍び笑いを漏らした。
 それにしても、お腹が減って機嫌が悪くなるなんてまるで子供みたいだな――――――――そう思いながら。












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