直人の恋物語U 8




 ―――――なんだったんだ・・・今の・・・?
 久保は思わず、その場にへたり込んでしまった。心臓は、なんという無様な有様か、工事現場が三つくらい重なったほどのうるさい声を上げて冷静さを失っている。
「・・・だって・・・」
 この半年、何も無かった。
 その背中を見つめてみても。
 部屋に帰っていくその姿を視線で追ってみても。
 呼ばれて部屋に行った時も。
 見つめ返してもくれず、部屋にも入れてくれなかった。朝起こす密かな楽しみも、モーニングコール2回目で起きるようになってしまって、それさえもなくなって。
 ―――――無かったことに、しようとしてたんじゃ・・・・・・
 てっきりそうだと思っていた。
 このまま、何事も無く。何事も無かったように日々が過ぎ去って。
 結局自分は一生その背中を見つめ続けるだけなのだろうと思っていた。それしか出来ないだろうと。
 いつか直人がその気持ちに区切りをつけるて、つり合いのとれるお嬢様と見合いをして結婚をして、恋は無くても、ゆっくりと愛が育つその家庭を見守って、いつか出来る直人の子供と遊ぶ。
 自分の未来は、きっとそうなのだろうと最近では諦めていた。
 一度のセックスと、その後僅かばかり見た甘い夢だけを後生大事に心の中に抱え込んで、一人で生きていくのだろうと思っていたのに。
 なんで。
 なんで今になって?
「意味が・・・」
 意味がわかんないよ。
 そもそも、何がしたかったのかさえわからない。
 何故不機嫌だったのかも。
 自分が何か、直人の気に入らない事をしてしまったのだろうか?そんなつもりは無かったけれど。何か機嫌を損なう事をしでかしていたのだろうか?
 だから―――――――――?
 だから、あんな事を?
 そうなのだろうか?
 それならば、怒鳴れば済む事の様な気がする。その方が、直人らしい気がする。
「いたい」
 半年振りの触れ合いは、痛みだけを残した。
「腕、痛いですよ」
 心が、痛いよ。
 だって。
 期待してしまう。
 少し前、捨ててしまったその気持ちをゴミ箱から拾い上げてしまいそうになる。
 もしかして、僕は少しは、そんな風に意識されてる?
 もしかして。
 ―――――もしかしたら?
 そんな風に、僅かな期待を手のひらで包んで大事にして、育ててしまいそうになる。
 好きだから。
 どうしようもないほど、好きだから。

 好きだから。





「くそ!」
 一方直人は、自室のドアを荒々しく閉めた。その閉め方に抗議するように上質なドアが声を上げる。
 けれど、そんな音には気にも留めてなれなくて、直人はそのまま冷蔵庫からビールを取り出して一気に煽る。
 ―――――んだよ・・・っ
 イライラが心の中に充満していて、どうしようもない。イライラしてムカムカして、気分が最悪だった。凶悪的な気持ちになって、凶暴な気分になる。
 その気持ちのままに缶ビールを握りつぶせば、まだ残っていたらしいビールが零れ落ちた。それに手が汚れたことがまた、腹立たしい。
 カラン!と間抜けな軽い音を、投げつけられた缶ビールがたてる。
 その音さえもむかつく。
「なんなんだよ!」
 なんであんな事しちまったんだ。
 一瞬、せり上がってきて止めようも無かった欲求。その欲求のままに、久保の腕を掴んで引き寄せた。
 けれど。
 そこまでして、その欲求は急速に霧散してその先自分がどうしたかったのかが分からなくなった。
 押し倒したかったの?
 自問自答してみても、答えは無い。
 何がしたかったのか、わからない。
 ただ最近、イライラしてしまう。わけもなく。
「欲求不満かよ――――」
 どさっとその身をソファに落として、思わず天を仰ぐ。
 疲れてんのかなぁ・・・そう思ってみても、別に今が特別普段より疲れているかと言えば、そうでもない様な気がする。
 そりゃぁ、確かに神経が少し参ってる気はするけれど。
 それが原因なのだろうかと考えてみて、瞼を閉じれば浮かぶのは、驚愕に彩られた久保の顔。
 見開く瞳。
 驚きにかすかに震えた、唇。
「クソ!!」
 3度目のその悪態をついて、直人は頭を冷やすために乱暴な足取りでバスルームへと向かった。
 冷たいシャワーでも浴びたら、きっとこの苛立ちもむかつきも、もやもやも全てが解消される。そうしてスッキリして寝てしまえ、そう思った。
 それがいい、それが1番なんだと、無理矢理にでも自分に言い聞かせて。

 シャワーヘッドから流れ落ちる冷たい水を、直人はただじっと受け止め続けた―――――――――




・・・・・・




「おはようございます」
「ああ」
 定時の時間、部屋のチャイムを鳴らした数秒後直人が顔を出した。その姿は、既にきっちりスーツを着込み隙も無い。
 だんだんオーラが雅人に似てきた、と久保は思った。それが頼もしくもあり、寂しくもあるなんて思っているのを、直人はきっと知らないだろう。
 久保は一礼して道を譲り、半歩後ろを付いて歩きながら手帳を広げて予定を読み上げた。
「本日の夜は、辻井様との会食です」
「―――それ、ハズせないのか?」
 朝の日差しが窓から入り込み、廊下を明るく照らし出していた。今日も、秋晴れの快晴の様だ。
「それは」
「今はこんな時期なんだがな」
 億劫そうに、わざとらしいため息を交えて直人は言った。
「申し訳ありません」
 今からハズせない事は直人にも分かっていた。
 ただ、冷たいシャワーを浴びてみても、一晩明けてみてもやはりなんだか腹の底に溜まった苛立ちがどうにも解消されてない、ただの八つ当たりだ。
「しょうがないな」
 大業に、もう1度つくため息も。
 久保はそれを黙殺してから、さっと前へ回り込んで扉を開けた。
「おはようございます!」
 多田は既に出社していて、どうやらリストとの突合せをしていたらしい。
 久保はそちらに少しだけ視線を向けた後、社長室の扉を開け、直人のみを中に入れるとすぐに珈琲を入れる。
「あの、久保さん」
「はい?―――ああ、君も飲む?」
「いえ。先ほど志藤(シドウ)さん方から連絡が」
「ああ、分かった」
 ――――支配人の秘書が、どうしたんだろ。
 珈琲を持っていったら連絡を入れようと頭に入れて、久保は芳しい香り立つ珈琲を直人に運んだ。
 直人は社長室で、まだエンジンはかからないのだろう、ぼーっと窓を見ていた。
「珈琲です」
「ああ、さんきゅ」
 直人は窓から視線を外さなかった。
「今から企画室に行ってまいります。本日は、先にこちらの予算の件に目を通しておいてください」
「わかった」
「他に何か御用は?」
「いや、いい」
「では、失礼致します」
 久保は直人の背中に言葉を投げかけ、一礼して社長室を出て行った。
 直人の、まるで意識しているような素っ気無さが痛く心を刺して、背中だけを見つめ続ける事を思わず空しいと思ってしまっても、どうしようもなかった。
 社長室の扉を背に、思わず唇を噛んでしまった。
 昨日の事はなんだったんですか?と聞いてみたいと思ってみても、久保には聞けない。
 ―――――なんだかな・・・
 あんな態度は辛い、そう思う気持ちの裏側に、顔を見られなくて良かったという気持ちもあった。昨夜、久々に泣いてしまったからその痕を見つけられたく無くて。
 見られたら、今のこの微妙な均等が崩れてしまう気がして怖かった。諦めてるのに、やっぱり怖いんだ。
 けれど、それに気づかない直人でも無かった。
 だから、直人は顔が見れなかったのだ。
 顔を見たら。
 見てしまったら。
「――――っ」
 ギリっと歯の鳴る音が、誰もいない社長室に空しく響く。
 ―――――なんだろーな・・・
 空は何も答えを示す事は無い。それでも直人は見上げてしまう。それが何の意味もない事だと、わかっていても。
 ―――――なぁ・・・
 なんで、思い浮かぶのは、お前の顔だけなんだ―――――久保・・・・・・
 前は、ふっと何かの拍子で考えるのは、想いの叶うことの無い相手だった。それがいつの間にか、久保にとって変わられていたのだろうか?
 自分でも気づかぬうちに?
 それとも今、こんなにも思考を占めてしまうのは昨日の今日だからなのか?
 会いたくて、でも会うと辛い。それが分かってても会いたくて、家に帰っていたのに。この半年、本当に家に足を向ける事が無かったのは。
 それでも過ごせたのは。
 この、気持ちに変化があったからなのか?
「・・・っ」
 ―――――わかんねー・・・っ
 直人は、何も考えたく無いと、瞳を閉じた。
 答えなんか、出やしない。
 ずっと好きだった人なのだ。
 嫌でも今月23日には顔を合わす、その人。
 ―――――まだ、好きな事に変わりは無い。
 だから、こんなにも苦しいのか?
 久保のあの視線に、答える事は出来ないと思っているからこんなにも、苛立つのか?
 だから、どうしようもない衝動に、駆られるのだろうか?
 












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