直人の1日・・・前



 厚いカーテンからは日差しがもれる事の無い、その室内。それは家の中の一室というには趣が違って見えた。その中に置かれた、一人で寝るには少し大きめのベッドにある膨らみは一人分。かなりのシーツの乱れから、その寝相の悪さが窺われた。
 そのシン・・・っと静かな室内に、静寂を破って突如電話のベルが鳴った。
「ん・・・」
 トルルルルル・・・トルルルルル・・・
「ん〜・・・っ」
 トルルルルル・・・トルルルルル・・・トルルルルル・・・
「あー、るせーっ!」
 起き抜けに苛立った声を上げるのは、自分の管理するホテルのデラックスルームを陣取っている直人。ベッドサイドの受話器を取り上げると、電話に出ることなくそのまま受話器を横に置く。
「・・・・・・」
 受話器からはなにやら声が聞こえるが、布団を頭から被れば聞こえはしない。それは毎朝の行為で慣れた物なのか、直人は再び布団にもぐりこんで瞬時に寝息を立てた。
 受話器からは、答える相手がもう寝てしまったとは知らず、必死の声が聞こえる。必死と言うか、文句と言うか、愚痴と言うべきか。
 けれどそれもすぐに切れてしまって、後はツーツーという電信音だけになった。
 どうやら相手も、慣れたものだったらしい。
 しかし、2度寝というのはなんとも気持ちが良いと誰もが知っているが、その時間がさして長くないのも承知の事実だろう。
 それは直人の場合も例外ではない。
 電話が切れて2分も立たないうちに直人の部屋のチャイムが鳴らされる。けれど当然直人がそれで起きることは無い。チャイムを鳴らした者もそれは分かっているらしく、直人の許可無くドアが開けられて、スーツを着込んだ男が入ってきた。
 痩せ型の、すらっとした体系。額にかかる髪をなんとか横に撫で付けて、少し気弱そうな顔つきは思わずその頭を抱きかかえてやりたくなる様な見目。背は175ほどだろうか。白い肌が陶磁器の様に滑らかで、憂いを帯びた瞳がリスのように光る。
 そんな彼は、迷うことなく直人の眠る寝室の扉を開けた。
「直人様!!」
 目一杯吊り上げた瞳で声を荒げて、直人が掴んでいる布団を引っぺがした。
「んー・・・」
「直人様起きてください」
 男は直人の身体を揺すり動かす。
「どうして毎朝毎朝ちゃんと起きられないのですか?」
「――――るせーぞ。久保」
 不機嫌そうな声に、男――――直人の秘書である久保は深いため息を漏らした。
「ちゃんとモーニングコールで起きてくださったら、耳元で怒鳴ることもありません」
「朝から小言はいい」
 直人はそう言うと、んーと伸びをしてその上体をようやく起こした。その瞳をぼんやりと久保に向ける。すでにスーツを着て身だしなみを終えたその姿から見ると、一体何時に起きたのだか。
 ――――ご苦労な事だ。
「シャワーを浴びてくる」
「はい」
「朝食は二人分頼んだか?」
 直人はあくびをしながら立ち上がった。
「―――はい」
 久保の返事の微妙な間に、久保の葛藤が見えて直人は苦笑を漏らした。
 直人の仕事に合わせて、久保も同じホテルの1室で寝泊りをしている。それなのに朝食を別に――――もっと平たく言えば、朝食を食べてから起こしに来て、直人の横で直人が朝食を食べているのを見ている、というのは直人からしたら時間の無駄にしか見えない。
 あの家で育った所為か、一人での食事というのがどうにも好きになれないのだ。そこで直人は社長命令として、朝食を一緒に取る様に言いつけたのだ。
 それがこの生真面目な男にはどうしても慣れないらしい。
 しかし直人は、そんな久保の心の内の葛藤などを考慮する気はまったく無かった。
 直人は久保には目もくれず、大股で歩いて浴室へと入っていった。どうせその後ろでベッドを直し、直人のスーツの準備でもしているのだろう久保を直人は、つくづくまめまめしい男だ、と思うだけだった。





・・・・・




「直人様、髪はちゃんとふいてください」
 浴室から出来た直人に向かって開口一番久保はそう言うと、タオルを取って直人の髪をふく。久保より背の高い直人に対してのその行為は多少やりにくそうに見えるが、久保はいたって真剣だ。
「いいってそんなの。それよりせっかくのご飯だ。あったかいうちに食おうぜ」
「ですが、お風邪をひかれては」
 なおそう言い募ろうとするその態度は、秘書というよりも世話係と言うか、爺というか。そういう感じがしないでもない。
「風邪なんかひかねーって。それよりほら」
 直人は久保の手を面倒くさそうに払いのけ、テーブルに腰を落として久保を呼ぶ。直人のバスローブ姿の格好に久保は眉を顰めながらも、渋々直人の向かいに腰を下ろした。
 テーブルには刻んだ野菜の混ぜたオムレツに、カリカリベーコン。粉ふきイモにソーセージ。コンソメスープに、籠にはパンが山盛り。蒸し鶏のサラダに、珈琲とオレンジジュースというメニューが並んでいた。
「ん、うまい」
 直人はさっそくオムレツをフォークで切って口に運ぶ。
「はい」
 料理人がこの毎朝の社長食にどれだけ神経を尖らしているかなど、直人は知ったことではないだろう。
「あれ、パンなんか変わったな?――――今日からだったか?」
 盛られたパンの中からロールパンを口に運んで、直人の顔が嬉しそうな色になる。
「はい。長谷川さんは本日より入社です」
「そうか。後で顔を見に行くか」
 長谷川、というのは先日直人が見つけたパン職人。都内のベーカリーショップで働いていたのだが、その腕を見込んで引き抜いてきた男だ。確か、26歳だったかの若さ。その若さゆえに新しい物への挑戦する時の躊躇いの無さを、直人は気に入ったのだ。
「直人様が、ですか?」
 しかし、直人の言葉に久保が顔を顰める。
「ああ」
「しかし社長自ら出向かなくても。なんでしたら呼びますが」
「いや、仕事してるとこ見たいからこっちから行く。連絡は入れるなよ」
 それは、様な抜き打ちで見に行くという事で。長谷川に挨拶を兼ねて、職場の空気を感じにいくのが目的なのだ。それが久保にも分かったのだろう、これまた渋々ながらも引き下がった。
「そういえば、山之内様がお会いしたいとの連絡がございましたが、いかが致しましょう」
 途端に直人が渋い顔になった。
「・・・断れるか?」
「わかりました」
「大丈夫なのか?」
 断れと自分で言っておきながら、すんなりと頷いた久保に直人は少し驚いた。
 山之内は全国ホテル協会の役員をしている、古狸だ。その相手が会いたいと言ってくれば中々断れるものではない。
「直人様がお会いしたく無いのですから、仕方ありません」
 直人がそう言うならそうするのが当然だと言わんばかりに言う久保に、直人は苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「なら、ホテル協会関係の面会は当面全部断ってくれ」
 そうして直人はさらに無茶を言う。
「わかりました」
 けれど久保はなんなく頷いたのだった。
 ホテル協会の面々が直人に会いたいと連絡してくるのには理由があった。来月3月に現会長が期間満了で辞めるのにともなった、後継者問題だ。
「ったく、面倒だな・・・」
 直人はぼそりと呟いて、コンソメスープを飲み干した。
 彼らは別に直人の意向を聞きたいわけではない。直人の口を通して、南條家の――――南條高人の意向を聞きたいだけなのだ。
 それが直人には、それが胸クソが悪くなるほどに面白くなかった。
 直人に言わせれば、くそじい共の権力争いなんぞどーでもよくて、親父の意見が聞きたいならいちいち俺を通すな、といところだった。
 そんな直人を、久保はなんとも言えない顔で深いため息と共に見つめていた。




・・・・・




 朝食を終えて、直人は今朝礼でしゃべっていた。
 先ほどまで濡れていた髪は、久保に乾かされて多少威厳が保てるようにと横に撫で付けて。歳だけを考えれば不相応な程の高いスーツを自然に着こなして立つ姿は流石、そう思わせる。上に立つ者だけが醸し出す空気を惜しげも無く漂わせていた。
 直人は、日々の訓示、心構え、そしてホテルとしてのポリシーや理念など、言う事はその日によって違うが、今朝はもうそろそろ迎える春休みに関していた。
 ホテルはおかげさまで春休み中の稼働率は85%。飛び込みや余裕分をかんがみても今の段階では満足のいく結果と言えた。
 しかしその分忙しくなる。不手際や失敗は次へと尾を引くし、上手く行けば次へと繋がる。休みを利用してバカンスにやってくる客の中には、当然海外からのVIPも多数いるのだ。
 直人は淡々と言葉を告げながら、従業員一人一人の顔を見ながら話して行った。そして壇上をマネージャーに譲る。
 マネージャーからは今日の予約状況や、手順。振り分けなどが告げられていく。
 そうして朝礼は45分ほどで終わりを告げた。
 その後、各フロアマネージャーが直人に報告に来て、朝の一通りの行程が終わる。 
「はぁ〜」
 疲れた、と直人は社長室の座り心地に良い上質の椅子に座りながら呟いた。背もたれに身を沈めて、大きくため息をつく。
「直人様・・・」
 その、今しがた大仕事を終えたばかりかの様なオーバーな態度に久保は深い憂慮を浮かべた顔で呟いた。それでもちゃんと珈琲を運んで来るところが久保らしいところだろうか。
「大体毎朝毎朝なんでおんなじ事してんだよ。自分で判断してやってくれっつーの」
 口調も荒く、先ほどまでの空気を一変させる。そのあまりの変化に、久保はまたため息をつく。
「そういうわけにはいきませんよ」
「――――」
「彼らには彼らの仕事があるのですから。それに――――」
「わーってるよ」
 ちょっとした愚痴に真っ当に諭されそうな空気を察知した直人の口からは、それを遮断する様に声を上げた。
 ――――ったく。
 どうしたってこの兄弟は真面目すぎてつまらない。その上、弟のコイツの方がもっと真面目だと直人は思っていた。
 冗談も通じやしねぇー、それが直人の目下の1番の不満なのかもしれない。ついでに、可愛げもない。どうせなら美人秘書が良かったと、決して口には出来ないただの愚痴を心の中でブツブツ呟きながら、そのとっても真面目な弟の監視の元、直人は午前中は売り上げのチェックや上客のチェック。今度行われる経済界のパーティーを筆頭に続々と決められていく予定表、今度企画されるウェディングプランなど、次から次へとやってくる書類の山と格闘して、午前中を終えたのだった。




・・・・・




「食った気しねーっ」
 車に乗り込むなり直人は久保に向けて、盛大に不満そうな声を上げてそう言った。
 普通の会社員ならばお昼時は近所の定食屋にでも行って先輩と昼を共にするなり同僚とするなりするのだろうが、直人はそうはいかない。
 昼のご飯だって大事な会食のひとつになってしまうのだ。今も、高級感溢れる日本家屋から出て来たところ。昼ご飯代お一人8000円(消費税・サービス税別途)だった。
 それなのに、食った気がしないとはなんとも勿体無いのだが、直人にとってはそうだったのだからしょうがない。 「では何か食べなおされますか?」
「食った気はしないが、腹は膨れてる」
 なんとも不満たらたらの声。不貞腐れた顔が、本当にこれが社長なのかとかなり疑問に思うのは久保だけではないだろう。
「そうですか、では午後は予定通りで良いですね」
 しかし、それと同時に久保には慣れたものらしい。まったく取り合う様子も無く言葉を繋いだ。
「この後は戻って、企画担当マネージャーと打ち合わせ。その後はホテルを見て回っていただいて・・・、ああ本日夜は特に予定が入っておりませんからご自宅へお送りいたしましょうか?」
「いや、――――ああ、どうするかな・・・」
 久保の言葉に直人は反射的に頭を振っておきながら、ふと逡巡する様に考えて言葉を濁した。
 久しく帰っていない家。
 その姿が脳裏に浮かぶ。
 そこはいつでも直人を暖かく迎えてくれるのだが、帰りにくいと居心地が悪いと思い出したのはいつだったのか。
「家か・・・」
 口の中で、小さく呟く。
 そこでは誰もが暖かく待っていてくれていると言うのに、帰宅するのが気が重いとは贅沢な話だと思わず自嘲の声が洩れた。
 それでも以前は、雪人の事もあり自分の気持ちを抑えてでも帰っていたのだが、綾乃が来て雪人がなついてからと言うのは、俺がいなくても大丈夫かと、それを言い訳にして逃げていた。
「直人様?」
 急に黙った直人に、久保が助手席から振り返る。
「いや――――」
 なんでもないと、直人が緩く首を横に振ったとき。
 ブブブブ・・・ブブブブ・・・ブブブブ・・・
「?」
 携帯が揺れて、直人のポケットから取り出した。
「もしもし、兄貴?」
 なんというタイミング。思わず苦笑が洩れた。
『今、いいですか?』
「ああ」
『今日は夜の予定はどうなっています?』
「予定?・・・なんで?」
 一瞬、盗聴器でも仕掛けてんのか!?と直人の腰が浮き上がった。
『いえ、最近顔を見せないので』
「ああ、悪い」
『いえ』
 わずかばかりの沈黙が流れた。それが、無言の催促だと分からないほど直人は鈍くは無い。
 心配されているのは、痛いほど分かっていた。
「今日さ、久々に予定が無いから帰ろうかなって今話してたところ」
『そうですか?それは電話をかけるまでもありませんでしたね』
「いや」
 そんな事は無い。きっと、電話が無ければ飲みにでも行ってしまっていただろう。
 そのまま、"じゃぁ・・・"と電話を切ろうとした時雅人から聞かされた言葉にハッとなった。
『今日は終業式でしたから』
「っ、ああ、そうか」
 ――――そうだった。今日は・・・
 先々週くらいに雅人から終業式の日の連絡が来ていたのに。
 そんな事も、すっかり忘れていた。毎年毎年、嫌がる雪人から成績表を取り上げて色々言ってやるのが、恒例だったのに。
 守ってきた"家族"という形。自分が社会人になったからと言って、自分には必要じゃなくなったといって、まだ雪人には家族が必要な年齢なのに。
「出来るだけ早く、帰るよ」
 声に。やるせない色が滲む。
 何もかもをうっちゃる事が出来れば、直人とてそれが間違いの無い本心。
『わかりました。では』
「ああ・・・」
 プツっと電話を切って、直人は深く深くため息をついてその身をシートに凭れさせた。
 雅人は、直人が忘れていないかと電話をかけて来たのだ。そしてその心配通り直人は今日を忘れていた。
 ――――ったく・・・
 自分のしょうが無さに、苦い思いを一人噛み締めていた。
 バックミラー越し、心配そうな久保の視線に気づく事は無かった。








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