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都内の、あるビルの最上階。雅人は重い扉を押し開けて外へ出て、赤い絨毯を敷き詰めた廊下を歩きエレベーターに乗り込んで、ロビーまで降りて来て、やっとため息を一つついた。 自社ビルではないので、ロビーには色んな人が行きかっている。その奥にあるカフェに腰を下ろし、いつもの様にコーヒーを頼んだ。 ここを訪れた後のかならずの雅人の行動。一人コーヒーでも飲んで気持ちを切り替えないとやっていられないからだろうか。秘書が迎えに来るまでのわずかな自由な時間、上品に整えられた庭を見つめ、もう1度ため息をついた。 今日は雪人と綾乃の成績表と、1学期の間の出来事を義理の母へ報告に来ていたのだ。 ―――疲れた・・・ いつも、義母と会った後の雅人はその言葉しか思い浮かばなくなる。 嫌いだと言うのもあるだろうが、それよりも底辺には愛情ではなく利害関係と駆け引きしか流れていないからだろう。それなのに、仮にも家族という立場にたたなければならない。他人ほど切り離すことも、切り捨てる事も出来ない。 「あれ?兄貴?」 ふいにかけられた声に驚いて顔を上げると、そこには直人が秘書である久保を従えて立っていた。見知った顔に、雅人らしくもなくホッとする。 「珍しいな、こんなとこで」 「義母へ、雪人と綾乃の報告です」 雅人にしては珍しく表情をつくろうこともしないで簡潔に嫌そうに言い切る態度に、直人ばかりか久保まで笑みを浮かべている。雅人にチラリと見られて、久保こそ「失礼しました」と真面目な顔を取繕って頭を下げてさがったが、直人は笑みを隠そうとはしない。 「大丈夫かよ?」 からかうように言う。 「ええ。あの方は相変わらずですからね。直人は?」 「俺も呼ばれたの。こないだホテルで開いたパーティーさ、あの人企画だったんだけど、ちょっとしたトラブルがあってね。そのお小言だろ」 くだらねーとからから笑う直人に、雅人も苦笑を浮かべる。自分の耳には入っていないという事は本当に些細なことなのだろうが、あの人にはそれも我慢できないのかもしれない。 その程度。 そんなものに、こちらが頭を痛めても仕方が無い。所詮、自分からは切り離された人でしかないと、雅人は改めて思い返す。 「あ、久保兄だぜ」 「ああ、本当ですね。仕事の時間という事ですね」 久保兄とは、直人の秘書の兄。ようは兄弟で雅人と直人の秘書をやっているのだ。どちらも甘いマスクではあるが、弟の方がより甘いというか少し頼りない感じがする。 もちろん芯はかなりしっかりして、どうしてもダメな事はどんなに直人がごねてもその我侭は許さないのだが、些細なことはどうも直人に押し負かされている節はかなりある。―――まぁ、雅人から見ればよいコンビだと言えるのだが。 変わって、雅人の秘書の兄の方は完璧主義者。甘いマスクとは裏腹に、出来ない人間はすっぱり切り捨てていくし、周りに流されるなんて事はありそうもないタイプ。周囲の評価は、雅人と同じで冷徹似たものコンビとして知られているのだが。 「相変わらず時間に正確だな」 「もちろんです」 雅人の口調が唯一命令形になる人としても、有名。そのために色々な憶測が流れているのも周知の事実で、それを2人は否定も肯定もしていない。笑って過ごしているというところ。だから余計尾ひれがついていってるのだが、それすらも意に介してない。 「じゃぁ行きますね」 もう少し雑談にふけりたかった雅人なのだが、秘書がそれを許すはずもない事はわかりきっているので、仕方なしに立ち上がる。 「おう・・・あ、今日早く帰って来いよ」 「え?」 去り際、直人の言葉に雅人は思わず振り返る。何かあっただろうかと、頭を巡らしながら。 「花火が大量に手に入ったんだよ。庭でしようぜ」 にやりと笑う直人に、早く帰れる予定だったかと、優秀な秘書に目をやると、秘書は少し難しそうな顔をする。どうも予定が入っているらしい。 そんな雅人に、直人は畳み掛けるように切り札を取り出す。 「綾乃。花火したことないんだって」 「え?」 「初には、立ち会わないとな?」 いたづらっぽく口元を歪めて笑う直人に、何故直人がそんなこと知っているのかとか、じゃぁ自分が用意したのにとか、それなら2人っきりで花火したいとか、そういう事は全てふっとんで、とりあえずそれは何が何でも帰らなければならないという思いが雅人を支配する。 そして、雅人が秘書を振り返る前に、優秀な秘書はすでにどこかへ電話を入れている。たぶん、予定の調節をしているのだろう。 「じゃあ、8時な」 そんな2人を確かめて、直人は言うだけ言って人ごみの中へと消えていった。 「おいしぃ〜、ねっ」 「うん、ほんとに・・・」 いつもの様に、綾乃と雪人の2人の夕食の席。夏は食欲がなくなる時期だからと、あっさりとした食事が並んでいる。 今日は純和風の献立で。お刺身に、牛しゃぶの冷製。なすやきのこの冷たい和え物に、豆腐の変わりあんかけに、味噌汁、ご飯。お刺身の中身は中トロ、サーモン、はまちで、そのどれもが口の中でとろけていくし、牛は特製のポン酢たれも絶品。冷たい和え物は白味噌仕立ての上品な味が口に広がるし。豆腐のあんかけは微妙に中華風な味付けが絶妙なのだ。嫌でもご飯が進んでしまう。 「綾乃様?どうしました?―――何か?」 小さくため息をついた綾乃に、松岡は心配そうな顔をする。 「えっ、いや違うんです・・・その、今朝久々に体重計に乗ったらちょっと増えてて・・・毎年夏はバテて痩せるから。太るのはちょっとまずいかなぁ…と。でも、松岡さんのご飯おいしいから、ついつい食べすぎちゃうんですよねぇ」 「そんな事。綾乃様は少し細いくらいなんですから少々太った方がいいですよ」 綾乃のかわいらしい言葉に、松岡は満面の笑みを浮かべてしまう。 「雪人様なんて、ほら。ぷにぷにしてて気持ちいいでしょ?」 「・・・・確かに」 雪人も決して太ってる方ではないのだが、その腕や足はぷにぷにとしていて、さわり心地は本当に気持ちがよくて、ついついクセになりそうなのだ。 「僕太ってないよっ」 2人に見られてぷくっと膨れるところもふぐみたいで、なんとも愛らしい。 「うん、雪人くんは丁度いいくらいだよね」 「はい、とっても」 にっこり笑う二人に雪人は素直に喜べないものを感じたのか、まだ少し拗ねた顔をして上目使いでじとっと見つめながらも、口はしっかりもぐもぐとさせている。そんな、かわいらしい姿を綾乃も笑いながら見つめて、雪人に習って食事を進める事にした。 それから少し後、2人が一通りの食事を終える頃になって、門扉の開く音と車のクラクションが鳴った。 「あれ?雅人兄様帰ってきた!?」 その音に珍しく早い帰宅を悟った雪人が、うれしそうな声を上げる。 「まだ8時なのに」 綾乃も思わず時計を見て驚いてしまう。今朝、今日は遅くなりますと雅人は言ってでかけていたのだ。綾乃が思わず首を傾げると。 「よっ、ただいまっ」 「あぁ〜直人兄様だぁー!」 ダイニング入り口から顔を覗かせたのは、雅人ではなく直人だった。雪人は思わず椅子を飛び降り直人に駆け寄る。 その雪人を抱えあげて直人はにっこり笑う。 「ただいま、雪人。綾乃も」 「おかえり〜」 「おかえりなさい」 「おかえりなさいませ」 「おう、おう。今日はな、とーってもいい土産があるんだ。行こう」 2人に簡単は返事を返して、早く帰った秘密を打ち明ける。 「わぁーい、何?」 「運べないから庭にある。見に行くか?」 「行く!!」 とっても元気の良いお返事を返した雪人に、直人はそのまま雪人を抱えて廊下に出ようとする。 「待ってっ」 その2人を綾乃が呼び止めた。 「何?」 「なんだよ?」 「雪人クン、ご飯はもう終わり?」 「うん。もうおなか一杯、あっ!!直人兄様、降ろしてっ」 雪人が何か重大なことを思い出したような顔をして、突然直人の腕を離れていく。その後ろ姿を何事かと驚いた気持ちで直人が見つめていると、雪人は飛び降りた椅子にもう1度座り直して。 「ご馳走様でした」 「ご馳走様でした」 「お粗末さまでした」 ―――おいおい・・・・まじかよ。 雪人はとってもいい子なのだが、直人と雅人が2人して甘やかしてしまった所為か、どうもこういうお行儀面ではよろしくないやんちゃぶりもあったのだが、少し見ない間にすっかりしつけられてる。 かなり驚いて、思わずその姿を凝視している直人を尻目に、さらに雪人は食べた皿をちゃんと重ねていく。 ―――すげぇー・・・綾乃・・・すげーよ 自分には出来なかった事をやってのけた綾乃に、直人は心のからの賛辞を覚えた。 「雪人様。お片づけは今日はいいですよ。私がやっておきますから、直人様のお土産を見に行っていいですよ」 「・・・でも」 雪人は松岡の言葉に、一緒になって片付けている綾乃をちらりと見上げる。雪人は大好きな綾乃に怒られたくはないので、松岡の言葉よりも綾乃の言葉なのだ。綾乃が「うん」と言わなければ雪人は動く事ができない。 その窺う視線を感じて、綾乃もにっこり笑う。 「今日だけだよ?」 「うんっ」 雪人はその言葉に満面の笑みを浮かべて直人の側に駆け寄る。けれど、後を付いてこない綾乃を不思議に思って振り返える。 「綾乃様も。ここは私がやっておきますから」 「え・・・・あ、でも―――」 ―――呼ばれたのは自分ではないし・・・・ 綾乃は曖昧な顔をして首を傾げる。 いつまでたっても綾乃はどうもここら辺に自信が持てないというか、人から褒められたり、何かをしてもらう事が非常に苦手だった。だから、お土産といわれても、自分にもあるだろうとは中々思えないでいたのだ。 それは、人との間に線があるとか、自分は家族じゃないとかの意識があるとかいうよりもの、長い間かかって培われてしまった心理。だから、ちょっとやそっとじゃぁ対応できなくて、いつもこういう時自分がどういう態度をとるべきなのか、綾乃は分からずに困ってしまうのだ。 けれど。 「綾乃、早く来い。兄貴が待ちくたびれる」 ちゃんと分かって、手を差し伸べてくれる人たちがいる。 「え!雅人さんも帰ってるの?」 「ああ、庭にいるはず」 「そうなんですか?では何かしらご用意いたしますね。直人さまもお食事はまだですよね?」 「ああ、頼む。出切ればビールとつまみも。兄貴は・・・ワイン?」 直人が松岡に酒の注文を出している間に、雪人が綾乃に行こっと手を差し伸べて。 綾乃はその手を、握り締めた。 「雅人兄様っ。おかえりなさい」 「ただいま、雪人」 庭に出てみると、大きな段ボール箱が3つ置かれてあって、その傍らのベンチには雅人が座って待っていた。 「おかえりなさい」 朝会ったのに、毎日会っているのに、綾乃はやっぱり凄くどきどきした気持ちで言う。それは、ベンチに腰掛けて夕闇に沈む姿が、あまりにかっこ良過ぎた所為かもしれないが。 「・・・ただいま帰りました」 綾乃の言葉に雪人からその視線を移した雅人は、雪人には決して向けない種類の笑顔を綾乃に向けた。 8時を回った夕闇の中、一瞬雅人と綾乃の視線が絡む。 「あぁー!花火だぁ〜」 なんだか凄くどきどきとしていた綾乃とは対照的に、ダンボールを開けた雪人は子供がおもちゃを見つけた時に様な声を上げた。 その声に綾乃も我に帰って思わずダンボールを覗き込む。 「うわぁ−・・・凄い」 それは、ダンボール3つ分。かなりの量だ。 「約束したろ?この夏は一緒に花火しよーなって」 「うん。でも・・・・直人さん、覚えててくれたんだ?」 「当然。っていってもさ、うちのホテルで使った物の残りで悪いんだけどな。その分そこらへんで売ってるのとは違ってもっとかっこいいのだから許してくれよな」 そんなの全然いいと綾乃は首を横に振った。 直人が覚えていてくれただけでもうれしいのに。 「なんで直人とそんな約束してるんです?」 それなのに、後ろから聞こえてきた声はかなりおもしろくなさそうな物で、綾乃と直人は思わず笑ってしまう。 なんだったかの話の流れでそうなっただけの事なのだが、それでもおもしろくなさそうな雅人に、綾乃はご機嫌を取るように説明する。それでも、そういう事はまず私に言ってください、と言う雅人に、綾乃はまた笑ってしまう。 そうしているうちに、雪人は一人どんどん花火を箱から出して。 直人は打ち上げや、吹き上げを離れたところに並べていく。 2人が花火の準備をして、綾乃が雅人のご機嫌を取り終わる頃に、松岡は水の入ったバケツと蝋燭やチャッカマンなどを持ってきて。 ―――生まれて初めてする花火。 まずは手に持ってするタイプに、次々と火をつける。噴出す火の粉が、いろんな色に光って、はじけて消える。直人がぶんぶん振り回したかと思うと、ねずみ花火に火をつけて。初めて見る綾乃は、雪人以上にびっくりして思わず雅人のとこまで逃げ帰って、笑われて。腹いせに、花火を持って直人を追いかけると、焼きもちをやいた雅人に捕まって。 2人して、大人しめな花火を並んでする。 いつの間にか軽い食事の用意もされていて、綾乃はジュースを入れてもらう。 よく冷えた桃を口に入れながら、直人が火をつけた吹き上げ見つめる。始めは黄色だったのに、蒼になって、赤になって。闇に溶けて、幻想的な美しさをかもし出す。 「・・・綾乃?」 急に静かになった綾乃に、雅人はそっと声をかける。 光の加減かもしれないけれど、その顔が歪んで見えたからだ。 「なんか―――僕、ここに来て初めての事・・・一杯体験してる」 「―――」 「それも、楽しい事ばっかりだよ。凄いよね」 「綾乃」 「こんな日が、僕も来るなんて・・・・・・・・思いもしなかったから」 悲しいんじゃない、涙。 それが、綾乃の瞳の端に溜まるのを見て、雅人は思わず傍らの綾乃の肩を抱き締めた。 「わっ!危ないよ」 揺れて舞い上がった火の粉が、綺麗に光って線を描く。 「これからも、もっともっと楽しい事がありますよ。―――――全部、全部あげますから」 ―――私の全てを、あげますから。 言葉には出来ない思いの分だけ、その肩を雅人は強く抱き締める。 「うん」 |